復刻ロングインタビュー〜大怪優!【三谷昇】が仕事を振り返る

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館理人
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存在感抜群の名優!三谷昇さんのロングインタビュー記事を復刻してお届けです!

館理人
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黒澤明監督や深作欣二監督、市川崑監督、伊丹十三監督らそうそうたる巨匠たちとの仕事についても、振り返って語ってくださっています。

館理人
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日本映画を遡って観ていくとあちこちに登場してくる三谷昇さん! ついつい探したくなる役者です。

プロフィール

みたに・のぼる
1932年広島県生まれ。
1951年に文学座・舞台技術研究室に入団したのち、役者に転身。『どですかでん』(1970年)での演技が好評を博し、以後多数の映画に出演。
黒澤明、市川崑、深作欣二ら巨匠監督から、クセのある脇役として多くのオファーを受ける。
『ウルトラマンタロウ』『宇宙刑事ギャバン』など特撮番組の出演も多い。

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インタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

黒澤明監督との出会い

──三谷さんの映画デビュー作は1968年、土井通芳監督の『そっくり大逆転』ということですが、やはり一躍大きな注目を集めたのは、黒澤明監督の『どですかでん』(1970年)ですね。

三谷 僕はね、劇団雲の大先輩、芥川比呂志さんが黒澤監督に推挙してくれたんじゃないかな、って思っているの。劇団雲では遠藤周作さんの戯曲、芥川さんの演出で僕は『黄金の国』(1966年)に隠れキリシタン役でワンシーンだけ出てるんですよ。おどおどしながら踏絵を踏む役。次に遠藤さんが書かれたのが『薔薇の館』。配役発表の前の日に電話が鳴って、「芥川です。高橋昌也さんと岸田今日子は作家の役で出ます。で、主役は君を予定しています」って。思わず僕は「えっ、ダメダメ、そんなのダメですよ!」って言ったんだけど、「まさにその“感じ”がいいんだよ」とのことで。それでおどおどした神父の役をやらせていただいたら、評判が良くってね。もしかしたら黒澤さん、芥川さんに誘われてその舞台を御覧になってくれたのかもしれないなあ。劇団の製作部から「子どもと暮らすホームレスの役です」って説明があって、赤坂プリンスホテル(注:2011年閉館)にあった“四騎の会”の事務所に行ったら黒澤さんがいて。「これ、読んでみてくださいね」って台本を渡されて、「今日はどうもありがとうございました」って面接は終わっちゃった。僕は一言もしゃべれなくて、こりゃもうダメだと思い、喫茶店に入って、しょぼくれてたんだ。見た目一発ですぐに役に合わないと分かったんだなって。

黒澤明監督の演出

──ところが……受かってしまったと。

三谷 そう。喫茶店から帰ると女房が「どこ行ってたのよ。さっきから事務所から電話が何度もかかってきてるのよ」って。事務所に連絡したら、黒澤監督から返事があって「OKです。子どもとの稽古を何日からやりますから来てください」と。驚いたねえ〜。で、子どもと3日ほど稽古することになるんだけど、黒澤さんが「三谷君、家でちょっと休んでいてくれないか。子どもがどうも児童劇団ぼくって面白くない。別の子を探すから決まったら連絡します、待っててください」って。そうだなあ、1週間くらいしたら再開したかな。今度は子どもに台本を与えず、監督が全部口伝えで教えてた。素晴らしかったねえ。本番は浦安で撮影したんですよ。「テスト1回やります」って言われて、動いたら「OK」って声が。実はフィルムを回していたんだな。えっ、今のはテストじゃないんですかって訊くと、黒澤さん、「なんだ、不満なのか。三谷君が不満らしいからもう1回やりましょう」って。それで何日か経って、そのときのラッシュを見ながら監督が「どうだい、どっちを使ったと思う? 2番目じゃないよ、君は緊張して固くなると思ったからテストのときからフィルムを回した。最初のほうがいいだろ。私はこっちを使います」って。いやあ、あとはもう自由自在に操られたねえ。『どですかでん』が終わって、今度は黒澤さんが手がけたTVのドキュメンタリー『馬の詩』 (1971年)のナレーションをやらせていただいた。『どですかでん』で親子を演じた川瀬裕之君とやったんだよね。

──その後、黒澤監督からオファーされたことはなかったのでしょうか。

三谷 それがあったんですよ。黒澤さんが亡くなる直前、(演劇集団)円のマネージャーが「あれから何本も出演交渉がありましたけど、三谷さん、芝居と重なっていたので断りました」って。まあだいたい、器用じゃないから掛け持ちは無理だったにしても、ちょっと残念だったよねえ。とにかく『どですかでん』のおかげでいろんな方に声を掛けられるようになり、数々の映画やTVドラマにも出られるようになったんです。

深作欣二監督の労いのカレー

──そのひとりが、深作欣二監督ですね。『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』(共に1972年)での三谷さんは強烈でした。

三谷 いちばん最初はね、『軍旗はためく下に』(1972年)っていう独立プロの映画。

戦場での人食をテーマにしたもので僕は上官を食べちゃう役だったから、これはちょっとハングリーな形相にならなきゃいけないと思って、ロケに入ったら、夕食はいっさい食べなかったんですよ。で、何とか頑張り通したら、深作さん、僕の最後のシーンに「OK」を出すと「はい、じゃあ皆さん、三谷君と一緒に夕食を食べましょう」って。スタッフの人に内緒で作らせていたカレーを振る舞ってくれたんです。あれはとっても嬉しかったし、格別な味がしたカレーでしたよ! 

役作りのため蛇をポケットに

──『人斬り与太』シリーズの思い出は?『狂犬三兄弟』では“蛇使い”の男を演じられてましたが。

三谷 1本目のほうは忘れてしまいました。でも2本目はよく覚えてますよ。「三谷さん、蛇は大丈夫?」って深作さんに質問されたの。「大丈夫です」って出たいばかりに嘘言った(笑)。撮影に入る前に大道具の蛇係の人に頼んで貸してもらい、蛇に餌をやってずっと抱いて仲良くなりました。ポケットに蛇を入れて楽屋や食堂に行くと、主演の菅原文太さんや皆さん、怖がってたなあ(笑)。コワモテの東映の俳優さんたちも逃げだしてました。

──それはそうでしょうねえ(笑)。

良きパパの役は一度もなかった

三谷 当時は、井上ひさしさんの小説『モッキンポット師の後始末』をドラマ化した『ボクのしあわせ』(1973年)で、主役のモッキンポット神父もやらせてもらいました。まあ、映画では不気味な役、舞台では神様や神父さんの役が多くて、テーブルを囲んで家族と一緒に過ごす、良きパパの役なんか1度もなかったなあ(笑)。

『ウルトラマンタロウ』で副隊長

──やってみたかったんですか?

三谷 やってみたかったよ〜。ウチでは僕の作品、子どもは無関心だったから。ちょこっと出てきて、汚い恰好の役ばかりでしょ。それがある日、『ウルトラマンタロウ』(1974年)の台本が僕の机にあって、「パパ、出るの?」って。東野英心さんがスキーか何かで骨折されて、急遽役が回って来た。副隊長の役ですよ。「パパ、撮影が終わったらこの台本、僕にくれる?」って話かけられた。のちに聞いたら、それまでは学校で、父親の職業は何か誰にも言わなかったらしいんだけど、『ウルトラマンタロウ』をやったあとは、その台本を持って、「パパは俳優で副隊長役だった」と吹聴してたって。

──いい話ですねえ! ところでこちらはお子様には内緒だったでしょうが、神代辰巳監督の作品ほか、日活ロマンポルノにもたくさん出られてますね。

日活ロマンポルノ出演で軽蔑されたことも

三谷 黒澤監督のあと、日活ロマンポルノに出たら、軽蔑されたこともありましたね。でも、声をかけられてスケジュールが合う限り、僕は何でも出た。節操ないなって、先輩からも叱られたけどね。日活撮影所に行くと、フィルムが大切だからって、舞台のリハーサルと同じように、稽古を何度も何度も繰り返して熱心でしたよ。ロマンポルノの女優さんたちも、ナイーブな人が多くて、僕は好感を持ったな。

──再び、深作監督の映画に戻りますが『暴走パニック大激突』(1976年)は?

三谷 ゴメンなさい、覚えてないや。

──深作監督では『宇宙からのメッセージ』(1978年)の老婆役も。

蜷川幸雄演出の舞台

三谷 ビック・モローさんら外国の俳優も出た映画だね。そういえば1本ね、途中で出られなくなった作品があるんです。えーと、あっ、『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年)だ。カツラ合わせもしていたんだけど、舞台に出ていて、奈落に落っこちて即入院したんですよ。それで出れなかったんですが、のちに舞台の『四谷怪談』(2001年)で同じ役が奇遇にも回ってきてビックリした。家老・伊藤喜兵衛役。その舞台は深作さん、見に来てくださいました。あれは蜷川幸雄さんの演出だね。蜷川さんはパルコ劇場でやった唐十郎さんの戯曲、『下谷万年町物語』(1981年)に出たときのことをよく覚えてくれていて、数年前にお会いした際も「その節はありがとうございます」と丁寧に礼を言われたなあ。

市川崑監督の金田一耕助シリーズ

──映画では市川崑監督作の常連でもありましたね。『犬神家の一族』(1976年)の鑑識役を皮切りに。

三谷 市川さんは、僕と発想がぜんぜん違った。悔しいからいろいろと事前に考えて現場に行ったんだけど、ことごとく覆されましたよ。「君はもとは絵描き志望だったらしいけれど、僕もそうなんだ。画面がひとつの“素敵な絵”になるようにと狙っているんだ」と言ってましたね。とりわけ好きだったのは『獄門島』 (1977年)の復員兵役。金田一耕助と出会い、最初は片足が不自由なんだが、実はちゃっかり両足で歩けるというシーン。あれは岡山で撮ったのかな。全部市川さんが引き出してくれたんです。想像を超えた発想で演出し、僕の思考が毎回パンと変化するのが快感でした。

伊丹十三監督作

──それから『マルサの女2』(1988年)に始まり、『マルタイの女』 (1997年)まで、伊丹十三監督の映画の常連でもありました。

三谷 面白い役ばかりいただきましたよ。舞台では到底やらせてもらえないような役をね。だから刺激的でしたね。

ーー約10年前、2004年のことですが、今はなき映画館、自由が丘武蔵野館の最後の企画で「大怪優 三谷昇」という特集上映が開催されました。

緒形拳との共演

三谷 当時はまだ、僕は「円」にいたのかな。1本どうしても上映してほしかった映画があって、リクエストしたのが『おろしや国酔夢譚』(1991年)。

館理人
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『おろしや国酔夢譚』は佐藤純彌監督作、緒形拳主演の映画です。

僕は緒形拳さんという俳優が大好きで、この映画で半年以上一緒にいて、暇なときはともに絵を描いて、スケッチブックがどんどん溜まっていったんですよ。最初の共演は70年代の半ば、青年座でやった舞台『王将』で、北海道から九州まで3カ月間回りました。そのあとが矢代静一さんの戯曲『悲しき恋泥棒』だったんですが、緒形さんがどうしても僕とやりたいと言ってくれて。嬉しかったねえ。晩年は倉本聰さんが脚本を書かれたTVドラマ『風のガーデン』 (2008年)に病気をおして出演していて、「北海道にいるんだ、オンエアを見てね」って連絡をくれました。その渾身の演技に感激し、手紙を書こうとしていたら亡くなってしまって。

高校演劇部時代のコンクール

──さて、ここで改めて。三谷さんが役者になられたキッカケとは?

三谷 まずは高校の演劇部に入ったことですね。のちの声楽家・友竹正則さんや劇作家として活躍される小山祐士さんといった先輩がいて、戦後、中国新聞が開いていた近畿演劇コンクールに出品したんですね。『ドモ又の死』という有島武郎の戯曲で、僕は若様の役だったんだけど、「何だお前、普段は大きな声を出すのに、台詞になったらボソボソしか聞こえないぞ。お前は若様役よりも、主役のドモ又のほうがいいな」と言われ、それで演じてみたらコンクール2位だったんです。それで得意になって、芝居も面白いなと思い、友竹さんたちが卒業後、今度は僕が演出して、徳永巌という早稲田を出て八重洲ブックセンターの社長になる男を主役にしたら、なんと優勝しちゃったんですね。僕らの高校は、広島県立福山葦陽高校っていうんですけど、そのときの2位の上下高校に平幹二朗君がいた。だから高校時代は僕のほうがスターだったんです(笑)。新聞にも取り扱われたりしてねえ。

画家志望、舞台の裏方、役者へ

──大学は東京藝大を受験。先ほども少し触れられてましたが、役者への道ではなく、画家志望だったんですね。

三谷 そう。でも失敗して、郷里に帰るのはイヤで、ちょうど文学座に舞台技術研究室というのができて、募集していたのでそこを受けたら、入れてくれて。装置や照明、音響などの人材を養成する場所ですね。ところが文学座の創立者のひとり、岩田豊雄(獅子文六)のモットーが、「お互いの生理を知るために、俳優はスタッフの仕事を、スタッフは俳優の仕事に参加すべし」で、仲谷昇さん、北村和夫さん、小池朝雄さん、みんな裏の大道具をやったり、効果を手伝っていた。僕もときおりメイクをして、台詞のない役、その他大勢の役で出た。僕は絵心があったからか、仲谷さんから「メイクをやってくれよ」なんて頼まれて交流も生まれてね。大先輩の長岡輝子さんや飯沢匠先生に面白がってもらえて、舞台に立つようになり、それで4年目くらいに俳優業に転向したんです。

役者は道化である

──三谷さんは「役者は道化である」とかねがね言われていますね。TVドラマではゲスト出演された『帰ってきたウルトラマン』(1971年)でピエロを演じてます。脚本は市川森一さん、演出は山際永三さんでした。

三谷 そもそもね、僕が最初に道化役に付いたのは、芥川比呂志さんとやった舞台『リア王』(1967年)なんですよ。芥川さんは「三谷、俺はな、シェークスピア劇では『リア王』に登場する道化がいちばん好きなんだ、頑張れよ」って言ってくれました。そのころはまだ、道化の魅力なんてまったくわかっていなくてね、以後もたびたび演じてはいましたけど、『帰ってきたウルトラマン』のときが真の道化役との出会いになりましたね。どんなにツラい境遇のときでも道化は笑顔を絶やさない。その笑いとペーソスの二面性に惹かれるんです。今ではピエロの画集を集めたり、自分でもピエロの絵を描いたりしているんですよ。唯一の道楽ですかね。

舞台俳優を続けていくこと

──演劇集団円の、というか日本を代表する俳優、故中村伸郎さんの代表作のひとつ、そして別役実さんの不条理劇の名作でもある『メリーさんの羊』は2000年以降、三谷さんがその跡を継いできたわけですが、昨年、惜しくも幕を引かれましたね。

三谷 僕は11年、公演初日に脳梗塞で倒れちゃったからね。あのときはドクターストップがかかったけど、10年間続けてきた作品、中村先生のためにも「死んでもやるんだ」と啖呵を切ってやり通した。お医者さんがしぶしぶ注射を打ってくれてね。後で聞いたら、お医者さんが毎日注射針を持ち、袖で待機してくれていたんだって。体力的にはもう限界ですよ。

──しかし、いまだ現役です。

三谷 昨年(2012年)は、モスクワとベルリンで芝居をやりました。今年(2013年)1月にお世話になったプロデューサーにして演出家、木山事務所の主宰・木山潔さんが亡くなって、その遺志を継ぐ事務所の皆さんが『やってきたゴドー』を来年、ヨーロッパでやりたいと言っている。本当はこう思うんだ。舞台の上で倒れたり亡くなったりするのはみっともないから、いい加減“線”を引かなくてはと。まわりに迷惑をかけますからね。77歳で劇団を辞めたとき、当然、芝居も辞めるつもりだった。でもね、声をかけられると僕、おっちょこちょいだから、ついつい出ちゃうんだよねえ。

轟

映画秘宝2013年9月号掲載記事に補足説明を追記し、再録しました。