蔵出し超ロングインタビュー【萩原健一】が語る!映画・エンタメ論と錚々たる監督たち、そして神代辰巳!!

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館理人
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2010年のインタビュー記事の蔵出しです! あえて萩原さんの口調を活かして構成しています。

『青春の蹉跌』『アフリカの光』『恋文』など、コンビを組んで数々の傑作を放った神代辰巳監督の思い出を語るロング・インタビューですが、『約束』『誘拐報道』『いつかギラギラする日』……でご一緒された錚々たる監督たちとの仕事についても触れています。

お話から見えてくるのは永遠のヒーロー、ショーケンたる所以。優れたエンターティナーとしての萩原健一の仕事に対しての真摯な姿勢と、自らを俯瞰で捉える演出家的視点。映画・演出・エンタメ論として面白く、読めば萩原健一作品を一気見したくなりますヨ!

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萩原健一・ロングインタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

志望はカツドウ屋

──神代さんにお会いするまでの前史といいますか、まずは俳優・萩原健一の助走の時間について伺います。斎藤耕一監督との出会いというのがすごく大きいと思いますが、斎藤監督の『めまい』に出演されたのが1970年。その当時は映画監督を志していたそうで。

萩原 僕は、グループサウンズで世に出ましたが、うちの家族はみんな、歌よりもカツドウ(=映画)が好きだったんですよ。長男……兄貴にバンツマ(阪東妻三郎)さんからマーロン・ブランドから全部観させてもらって、だから、カツドウ屋になりたいなあって思ったんだけど、ツテがなくて。それでグループサウンズになっちゃった(笑)。

館理人
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阪東妻三郎は歌舞伎役者出身の映画スター! 俳優・田村高廣、正和、亮のお父様です。出演作に『無法松の一生』など

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マーロン・ブランドの代表作に『ゴッド・ファーザー』など! マフィアのドン役です。

館理人
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萩原健一はグループサウンズの人気バンド、ザ・テンプターズのボーカルを担当していました。

監督・斎藤耕一の弟子から役者へ

萩原 グループサウンズが下火になった頃、僕は斎藤耕一さんの弟子みたいなことをさせていただいて、『めまい』っていう映画に出たんです。それは「助監督をやろう」ということで。そうしたら井澤健(元渡辺プロ社長、現イザワオフィス社長)さんが役をくれたんですね。そのときから神代さんの話題は上っていたけど、俺はあまり気にはしていなかった。

──名前は上がっていたんですね。

萩原 上がってた。すごいのがいるぜ、っていうことで。でもそれは俺、まったく意識してなかったんだ。

──作風は違いますけど、斎藤さんも神代さんも、非常に感覚的に映画を撮られる方じゃないですか萩原さんと同様、それまでの日本映画にない感覚を志向されてたんじゃないかと想像するんですけど、馬が合ったわけですよね。

萩原 うん。斎藤監督の『約束』っていうのは、韓国映画にヒントがあったんだよ。それを『夜行列車』という映画があったでしょう? あれとくっつけたんだよ。

館理人
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ヒントとなった韓国映画は李晩熙監督の『晩秋』(1968年)。『夜行列車』(1959年)はポーランドのイエジー・カヴァレロヴィッチ監督による群像劇です。

手持ちカメラの映像効果

──なるほど。手持ちカメラが特徴的な映画群とは、そのときすでに出会われてますよね。

萩原 とりあえず映画っていうと、ハリウッドでは米国製のミッチェル(カメラ)がスタンダード。それより軽くて機動性のあるアリフレックスが流行ってきていたんだよ。ルルーシュの『男と女』はたしかアリフレックスだった。

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『男と女』はフランスのクロード・ルルーシュ監督の大人のラブロマンス。

──ゴダールは?

萩原 ゴダールの場合は『勝手にしやがれ』(全編手持ちカメラ)はアリフレックスだったんじゃないか。ヌーヴェル・ヴァーグの映画は16ミリのカメラもよく使われていたよね。日本でも内田吐夢さんの『飢餓海峡』は16 ミリで撮って35ミリにブローアップしてやったじゃないですか。のちに深作欣二さんも『仁義なき戦い 広島死闘篇』のラスト、16ミリでブローアップしてたんじゃない?

──見ているところが違いますね。制作者側の目線です。

干されたのは映像へのこだわりから

萩原 だから、僕が一時期干されたのは、『祭ばやしが聞こえる』っていうのに出たとき、当時の日本テレビの局長に「コマーシャルの画と、『太陽にほえろ!』の画像が違うじゃねえかよ!」って言ったのが原因。

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『祭ばやしが聞こえる』(1977年)は、日本テレビ系のテレビドラマ。主演の萩原さんはこのドラマに多額の出資もしています。

「太陽にほえろ!」は、16ミリで撮っていたんだけど、コマーシャルは、35ミリを16ミリに落としていたんだ。そうすると、画像がきれいなんだよ。見栄えがするんだ。ビデオフィルムだと近すぎて、リアリティの度合いが違うんだよ。16ミリだと遠いから、多少ヘンテコなことをやっても目から遠いから誤魔化せるわけだ。ちょうど目のさじ加減がいいのは、35ミリから16ミリに落としたやつなんだよ。それがコマーシャル。それで『祭ばやしが聞こえる』を、35ミリで撮ってお金を使い過ぎて干されたんだ。

館理人
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テレビドラマ『太陽にほえろ!』で、萩原健一の役柄のニックネームは「マカロニ刑事」でした!

名監督たちとの出会い

──斎藤耕一さん、そして市川崑さん、神代さんと……次々と名監督たちと出会われていきましたね。

萩原 『化石の森』の篠田正浩さんもいてね。

──それぞれ方向性は違いますけど、そこで躍動していた萩原さんの感じは、繋がっているような。

萩原 いや、市川崑さんだけは繋がってないな(笑)。市川崑さんと木下惠介さんは非常にイコールになるんだけど。あと黒澤明さんは、小林正樹さんとイコールになるよね。

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木下恵介監督の代表作には『二十四の瞳』などがあります。

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小林正樹監督の代表作には『怪談』などがあります。

神代辰巳監督作から受けた衝撃

──萩原さんが初めて神代作品をご覧になったのが、1973年の『恋人たちは濡れた』。

萩原 そう。観て面白かったんだけど、話が繋がらなかったんだよ。僕が観たのは北海道の田舎町の映画館だったんだけど、あとで聞いた話で、どうやらその映画館は電車のダイヤに合わせて、フィルムを1巻とか抜いちゃうらしいんだよ(笑)。いい映画だけども何だか変だなあと思ってたの。それで神代っていう苗字も「クマシロ」と読めずに「ジンダイタツミ? なんて読むんだい?」なんて言ってたの(笑)。

東京に帰ってきて、もう一度観ようと思ったけど、東京ではもう上映していなかった。それしたらある打ち合わせをした帰り道にジンダイさんの名前を見つけたんですよ。それが『四畳半襖の裏張り』。「え〜っ!?」って(笑)。だって原作は永井荷風でしょ?  観てビックリしちゃったよ、素晴らしくて。

──『四畳半襖の裏張り』はどこがよかったですか?

萩原 もう、すべてがいいよ。

──その2本で神代辰巳という監督に衝撃を受けたわけですね。

萩原 参ったよ、あれは。この人、ゴダール的だなと思ったよ。

カメラを据える位置と芝居の関係

──じゃあそれまでに萩原さんは、ルルーシュからゴダールまで、その当時の先鋭的な映画はほとんど観てらっしゃった。

萩原 うん。暇だったしな。僕が神代さんも斎藤さんも黒澤さんも好きなのは、カメラがそばにいないってことなんだよ。こんな顔の近くにカメラが据えてあって「よーい、スタート」ってかけられても、芝居できないんだよ、俺。五社英雄さんの映画じゃないんだから。嫌んなっちゃうよ(笑)。

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五社英雄監督の代表作に、『陽暉楼』(1983年)などがあります。

日活ロマンポルノの監督を東宝が起用した『青春の蹉跌』

──萩原さんが神代監督と最初に組んだ作品が『青春の蹉跌』(1974年)。

萩原 東宝から『青春の蹉跌』を僕でやれと言われてたんです。その前に、僕が出た篠田正浩さんの『化石の森』がいい成績を上げていたので「監督は篠田さんで」という話になったんだけど、篠田さんが他の作品とカブったんじゃないかな。

それで、監督の席が空いちゃったんだよね。だから僕が「ジンダイさんでやりたい!」って言ったんだよ。そしたら「君ね、『青春の蹉跌』っていうのは、石川達三先生の青春映画だよ。日活ロマンポルノのああいう成人映画じゃない」って言われて。だけど僕がやりたいやりたいって言い続けて、最終的に、銀座で神代さんとお会いしたんです。お会いして、笑ったら歯が真っ黒で「大丈夫かなこの人」って思った(笑)。

でも、『四畳半襖の裏張り』が面白かったから……ぜひやっていただけませんかって、東宝の田中収(プロデューサー)さんが言ってくれて、それで神代さんに決まって、ご縁ができたんです。

──神代さんから何か要望はありましたか。

萩原 「カメラマンは私に決めさせてくれ」と。「脚本は私と長谷川和彦が書く」って言うんですよ。

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長谷川和彦監督作に、『青春の殺人者』などがあります。

神代辰巳監督の演出方法

萩原 『青春の蹉跌』は、『陽のあたる場所』によく似ているんですよね。それで、エリザベス・テイラーみたいな役を誰にやらせるかってなったときに、檀ふみさんが候補に挙がったんですよね。檀ふみさんっていうのは、映画にあまり興味がなかったみたいで、お兄さんの檀太郎さんが勧めてくれたみたい。で、桃井かおりさんは妊娠して殺される役。僕はそのとき桃井かおりさんは知らなかったんだよ。この時期に彗星のごとく現れてさ。

──撮影現場に入ってみて、その演出法に対してどう感じられましたか。

萩原 面白かったよ。ずーっと手持ちカメラで姫田真佐久さんが撮ってるの。それで僕がセリフに詰まっても「いい、いい!」って言うわけ。それでいいんだと。なんていい加減な野郎だなぁって思ったんだけど(笑)。

──ワンシーンワンカットについては。

萩原 そうやって撮ることはわかってたんだけど、5シーンをワンカットで撮ったよ。下で僕が荒木道子さんと芝居をして、そのあと2階に上がって、姫田さんはずっと僕の後ろについて、階段の踊り場で姫田さんが中に入って2階に行って、今度はまた下に降りていって、庭に行って。そしたら、姫田さんがカメラを途中で落としちゃったんだよ。それで中止(笑)。

そのあとアフレコで、ちゃんと言わないといけないなって思って、合わせようとしたら、監督が「声をずらしてくれ」って言うんだよ。きちんと口が合わないほうがいいっていうわけ。変な監督だなって思いましたよ(笑)。全部アフレコなんですよ、あの人。

──リハーサルはするんですか。

萩原 『青春の蹉跌』は僕の印象では、あまりリハーサルはしませんでした。回を重ねていくうちに、きちんとやるようになりましたね。だいたい、セリフを喋ってると、端っこで「もうちょっとこっち向いてくれる?」なんて言うんですよ。撮影中に!(笑)「これアフレコだから大丈夫」って、そういう撮影でした。撮影中は細かく指示してくれていましたね。最初は信用されてなかったんでしょうね。

チャップリン、ポランスキーのエッセンス

──逆に、萩原さんがアイデアを出されたシーンは?

萩原 タイトルバックを作るとき、「神代さん、チャップリン好きですか?」「大好きです」「『モダンタイムス』で、ローラースケートのシーンがございますよね」っていう話をして、「落ちそうで落ちないシーンがあるじゃないですか。ローラースケートを履いてやったらどうでしょうか」って言ったら、それは面白いって採用されたんです。

あと檀ふみさんと父親役の高橋昌也さんとヨットに乗るシーン、あれは『水の中のナイフ』の真似なんだよね(笑)。いや、迷ったんだよ、監督と。「どうする?」「いいや、やっちゃえ!」って(笑)。

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『水の中のナイフ』(1962年)はロマン・ポランスキー監督、脚本によるポーランド映画。

女優を脱がすテクニック

──桃井かおりさんとの濡れ場での長回しも印象深いです。

萩原 ずーっと回ってると何かしなきゃいけないっていう感じだね。神代さんは、女性を脱がすことについては、天下一品だった(笑)。桃井さんもやっぱり脱ぐことには抵抗あったんじゃないのかな。だけど神代さんは「そこでちょっと脱いでね」って言ったきり、次のシーンの仕事をやっちゃう。向こうに行っちゃうんですよ、神代さんが。それは桃井さんだけでなく他の女優さんでも「スミマセン……私、脱ぎたくないんですけど」っていう話を、言わせないうちに「じゃあここで脱いでね、はい」って、行っちゃうわけ(笑)。これは上手な監督だなって思った。

ノレない作品の方が結果がいい理由

──続く『アフリカの光』 (1975年)は神代さんが、ライバル視もされていた蔵原惟繕監督の『雨のアムステルダム』とほぼ同時期の作品ですね。

萩原 あの時は『アフリカの光』が先行して撮影入らなくちゃいけなかったのかな。たしか『雨のアムステルダム』のほうが先に入っていたと思う。上映もそう。『青春の蹉跌』を当てたあとだけに、ゆとりがあったんだろうね。でも『アフリカの光』、あれはどうなのかなあ……「いい映画だ」って言ってくれる人はいるんだけど。

──僕は大好きです。あまり観たことのないタイプの映画ですね。

萩原 俺も観たことないよ、あんな映画は(笑)。観たことはないけど、奇想天外なことをするっつうの、実はあまり好きじゃないんですよ。徹底的に嫌いなわけではないけれど、そんなに執着があるものじゃない。『アフリカの光』は神代さんがやりたかった作品なんですよ。僕は正直いって、猛反対した。ただ、『青春の蹉跌』で興行成績がよかったから、やらせてもらえたんですよ。丸山健二さんの原作はいいと思うけど、映画自体は非常に偏っているんだよね。

例えば『離婚しない女』(1986年)っていうのも、彼がやりたかった作品なんです。逆に『恋文』(1985年)はあまりやりたくなかったけど、そっちのほうが出来がいいんだよね。神代さんが「ん?」って思ったものは当たるんだよ、だいたい(笑)。テレビも、俺がやりたいと思ったものと、「え、これ? やらなきゃいけない?」っていうものがあるけれど、ノレない作品だと工夫を凝らすんだろうね。

──向いてない題材を、自分に引き付け面白くしようとする、と。

萩原 そう。どうにかしなきゃいけないから、自分に寄せなきゃならないというのがあるでしょう。多分そういうことだと思います。それは、今村昌平さんも似ていると思う。『カンゾー先生』は本当に今村さんがやりたかったシャシンだろうけれど、結果的により評価された『うなぎ』は今村監督、すごく抵抗したらしいです。

それは黒澤監督にしても、喜んでやりたいと思っていた『乱』よりも『影武者』のほうが話題になったでしょう。だから監督というのは、自分がやりたいものよりも、どっかでハンディがあったほうがいいんじゃないのかなと、俺は思う。

『傷だらけの天使』での神代辰巳監督回

──萩原さん主演のドラマ『傷だらけの天使』(1974年)には神代監督が演出したエピソードが2本ありますね。1本目が第4話『港町に男涙のブルースを』。

萩原 僕からお願いして、やってもらったんですよ。それで撮ったら 25分足らないんだよ(笑)。参っちゃってさあ。「クマさんさぁ」「何?」「尺が25分足んないって言ってるよ」と伝えたら、「だってこの話、5分で終わっちゃうよ」なんて笑ってるんだよ。

──足りない部分は何とか、足して埋めるしかない。

萩原 そう。池部良さんがゲストで出ていて、現場で急遽、セリフを足してくれたんですよ。だけどこれがまたつまらねえんだ(笑)。

──それでどうされたんですか?

萩原 雨の中、池部さんが傘さして長ゼリフを言うんだけど、自分で書いてきたセリフを覚えてなくて、忘れちゃうんだよ。参ったよ!(笑)。池部さんが喋ってるあいだ、俺は一枚一枚服を脱いで絞ったりしているんだけど、それがけっこうおかしかったらしいの。池部さんが「大東亜戦争がどうのこうの……」ってウンチク垂れてる横で俺が「へえ〜! へえ〜!」って聞いてる(笑)。

──実際に戦争に行かれた池部さんの戦中派の男と、当時の若者の代表である萩原さんとの対比が出ていたような気がするんですが。

萩原 「なんか暗いな、このオッサン」っていう感じだったよ(笑)。

──そういう場合、神代さんはそれでOKなんですか。

萩原 撮る気がなかったんじゃないの?(笑)。テレビっていうのは、時間の決まりがあるけれど、あの人はそういうのも全然関係ないんだよ。でも、そのあと『木枯し紋次郎』も撮りに行ったんだけど、あとで中村敦夫さんもそんなことを言っていた。『木枯し紋次郎』も20分くらい足りなかったらしいですよ。だから、テレビの人ではないんだよね。

──神代演出の『傷だらけの天使』のもう1本、第6話の『草原に黒い十字架を』は傑作でした。

萩原 あれは傑作だって言ってたよ、みんな。

──途中でザ・テンプターズの「おかあさん」の一節をみんなで歌ったりするんですけど。

萩原 そうだった? なんだか、わけがわかんなかったよ。『傷だらけの天使』もいろんな監督とやったなあ。工藤栄一さんとか、恩地(日出夫)さんとか。

カメラマン・姫田真佐久と岡崎宏三

──先ほど今村昌平監督の名前が出ましたが、今村さんと神代さんの作風は……。

萩原 似てますよね! どっちがマネしたんだか、っていうくらい。共通しているのはカメラが姫田真佐久さんってことだから、姫田さんのカも強いんじゃないかなあ。だから俺が姫田さんにこう言ったんだ。「神代さん、今村さんの付き人じゃないんだからさ、ピンで2人で仕事しようぜ」。それで2人で参加したのが伊藤俊也監督の『誘拐報道』だったんですよ。

──『誘拐報道』は誘拐した男の子をズタ袋に入れて萩原さんが歩いていくシーンで、伊藤さんはなかなかカットをかけなかったそうで。

萩原 うん。そうだった。思えばあの映画は伊藤さんに隠れて、ずいぶん姫田さんと2人でリハーサルしたな。

──たとえば?

萩原 池波志乃さんとカーセックスしているときに、自分でクラクションを足で鳴らして、慌てて外に出ていくシーンとかさ(笑)。ああいうの全部そうなんだよ。監督としても面白かったんじゃないの。

──じゃあわりと肌は合った感じですか、伊藤監督とは。

萩原 そうね。今も合うと思うよ。

──姫田さんとはわりと事前にいろいろ話し合われた。神代さんの現場でもそうだったんですか?

萩原 そうだね。いろんなタイプの人がいるよね。『化石の森』のときの名カメラマンの岡崎宏三さんは、俺がカメラ覗こうかなって思うと、ヒュッと動かしちゃうんだよ。それに必ず、「本番前はカメラに向かって“よろしくお願いします”って言え」って。それは教わったな。

セリフはとちってもやめない

──すんなり受け入れられるものなんですか?

萩原 そうだね。映画に対するマナーの教え方は、黒澤明監督が天下一品だな。すごいな、やっぱり。

──黒澤作品に出演しているときは、他のお仕事出られませんもんね。

萩原 できないだろ(笑)。できる人がいるんだったら教えてもらいたいよ。黒澤さんは拘束しているわけじゃないだろうけど、そうなっちゃうよね。あの人は拘束なんかしてないよ。「できるならやってごらん?」っていう人だから。

──なるほど。神代さんから学んだ映画のマナーというのは?

萩原 セリフはトチってもやめないっていうこと。セリフが入ってなくて、止まっちゃうことがあるじゃない、忘れたりして。でも、言えっていうことよ。

──決してそれは NG ではない、と。

萩原 いや、本当は NG なんだよ。だけど、映画のマナーとして続けてくれよ、監督は俺なんだから、 と。「え、忘れちゃった? 何か言ったらどうだよ」って、その場でね。

──それが結果的に面白い効果になる。

萩原 そうかもしれない。

深作欣二監督との思い出

──深作欣二監督の盟友、脚本家の笠原和夫さんが神代さんの『一条さゆり 濡れた欲情』(1972年)を観て影響を受け、それで『仁義なき戦い』がああいう生々しいタッチになったという逸話がありますが、荻原さんも深作さんとの思い出がたくさんあるのでは。

館理人
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『一条さゆり 濡れた欲情』も日活ロマンポルノレーベル映画です。

萩原 深作さん、飛行機の中で、俺に黒澤明監督の話をしたことがあってね。あの人、日大芸術学部じゃない? 深作さんが大学時代に黒澤さんの『生きる』っていう映画のエキストラオーディションに応募したら受かったんだって。

バーのシーンがあったでしょう? あそこに出るはずだったんだって(笑)。それで自分のおふくろさんに「黒澤の『生きる』に俺が出てるから、観に行こう!」っておふくろさんを連れて映画館に行ったんだって、深作さんが。そしたら、深作のふの字も出てこない。観たら全然映ってなかったって(笑)。切られちゃったんだね。

──萩原さんは深作さんの作品を、初期からご覧になられていたそうで。

萩原 『誇り高き挑戦』なんてかっこよかったよな。『狼と豚と人間』もすごかったよ。『ジャコ萬と鉄』もよかった。

『いつかギラギラする日』出演の経緯

──『いつかギラギラする日』はどういう経緯で出演を?

萩原 僕は、順天堂の浦安病院に入院していたことがあって。コレステリング腫瘍っていう病気になって、もう助かるかどうかっていうときに、ちょうど深作さんがホンを5冊を持ってきてくれたのよ。

ひとつは「南十字星のナントカ」ってやつ(佐木隆三原作の「旅人たちの南十字星」をもとにしたもの)と、それから1990年に西成署の刑事が暴力団から賄賂を受け取って逮捕されて、釜ヶ崎で暴動が起きたでしょ。あの話と、あと『いつかギラギラする日』と。

『いつかギラギラする日』は「なんとかヘブン」っていうタイトルだった。それと時代劇ともう1本あったな。ヒマだから全部読んだの。そしたら、釜ヶ崎の暴動の話が面白いんだよ。で、芝居のできるエキストラを最低300人かそこいら用意してくれって言ったら、とてもじゃないけどそれはできないっていうことになった。

それで松竹の奥山和由プロデューサーと(株)山田洋行の人たちが、どうしても『いつかギラギラする日』をやらせたかったらしいんだよ。僕はそれを読んで「なんかVシネマみたいだな、この話」って言ったんだよ。

──いわゆる強盗アクションですからね。

萩原 それでさ、最初は原田芳雄さんが俺の役をやるはずだったんだよ。それで原田さんと一応衣装合わせやったんだって。そしたら、ニッカポッカ事件っていうのが起きたんだよ。

原田芳雄とニッカポッカ事件

──なんですか、それは!?

萩原 原田さんが「ニッカポッカを穿くのは嫌だ」って(笑)。いいじゃん、そんなの! ニッカポッカ穿いたってさあ(笑)。それで深作さんと喧嘩になったらしくて、この役が俺のところに来たんだけど、こういうのは以前あった“勝新事件”でもうウンザリしてたから(笑)。

──『影武者』降板騒動ですね。

館理人
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勝新事件”は、黒澤明監督の『影武者』で主演することが決まっていた勝新太郎が撮影直前に降板、仲代達矢が代わりに急遽主役を引き受けた件。

萩原 それで、原田さんにちゃんと挨拶したよ。「(この役を俺が)やっていいの?」って。「原田さん、ニッカポッカ穿きゃあいいじゃん!」って言ったわけよ、この役の男がニッカポッカ好きなんだから、穿きゃあいいじゃないって(笑)。よく考えたら、『仁義なき戦い』でも千葉真一さんがニッカポッカ穿いてなかった? チンチン掻いてるきったない役。狂犬の大友勝利役!

──深作さんは好きなんですね、やっぱり。

萩原 だから深作さん、現場でニッカポッカを穿いてたよ(笑)。あの映画も面白かったよ。

映画の元は短編の方がいい

──神代監督の『もどり川』(1983年)についても伺います。萩原さんが演じたのは歌人・苑田岳葉。

萩原 あの映画は危ないよ! セックスこそしてないけど、まずいよあれは。大正、昭和初期のデカダンスっていうか。そういう話だよね。樋口可南子さんが女郎宿で他の男と寝て、お客とセックスが終わるじゃない。そうすると、俺がそこに乗り込んで、他の男の精液を俺が樋口さんの股ぐらに入って吸う。あの演出こそ神代さんじゃないの。最初に聞いて「えーっ!?」って驚いたよ。やりましたけど。あれはすごいシャシンだね。今ああいうものが通じるかっていうとどうなんだろう。

──ただただ、圧倒されるばかりでしょうね。

萩原 そうそう。だから、ロックでもそうでしょ。今もう、音楽も軽くなってきたじゃん。

──そうですね、わかります。映画も同じだと。

萩原 うん。映画もちょっと軽くなりすぎだね。映画にするならそんなに難しいものでなくても、出来れば本当に3行でストーリーがわかるもの、短編小説みたいなもののほうがいい。肉付けが面白いんだよね。

留置所で一緒だった梶原一騎

──『もどり川』は、梶原一騎さんの三協映画の製作が、意外な気もするんですけど。

萩原 そんなの簡単だよ。『あしたのジョー』と『巨人の星』で儲けすぎたんだよ(笑)。梶原一騎さんと言えばね、俺がマリファナでパクられた頃に、梶原さんが何かでパクられたでしょ(笑)。ちょうど同じ留置所で、房は違ってたんだけど、たまたま梶原さんと屋上で一緒になったんですよ。天下の梶原さんが、ものすごく小さく見えたよ。ほら、シャバだと、エリマキトカゲみたいになってただろ(笑)。

──ああ〜、ゴージャスなコートを着ていました。

萩原 だけどあそこに入って、意気消沈していた。それで、しょっちゅう溜め息ついてたよ。溜め息っていうのは人を小さくするなぁ。俺はそう思ったよ。

期間限定

映画作りの極意

──さきほど、『恋文』を絶賛されていましたが。

萩原  『恋文』は素晴らしいね。ただ、神代監督自身がああいった心理的な駆け引きを描くものが好きかっていうと、そうではないんですよね。だけど、神代さんの映画技術は、あのシャシンの隅々にまでに表れてる。あれは上手かったよ。ヒモ的というか駄目な男っていうのはあるんじゃないの、神代さんの中に。

──『恋文』は実際にヒットしました。

萩原 その頃は僕自身も、映画作りとはどういうものか、少しはわかっていましたからね。簡単に言えば、制作費に基づいて、背伸びしないで、身の丈に合ったやり方で、キチンと正統で、なおかつ神々しいまでの志を持っていれば当たるよね。

ただ、それまで神代監督がおやりになった永井荷風の『四畳半襖の裏張り』や『恋人たちは濡れた』とかは、制作費が少ないなかで、頑張って奇想天外なことをみんなでやろうっていう心意気が、「鬼才」だったり「ロマンポルノの巨匠」と呼ばれるようなことになった所以でしょ。

でも本来映画っていうのは、やっぱり身の丈に合って、きちんとした正統なものがいいんですよ。だから『青春の蹉跌』は神代辰巳じゃなくて、本当に青春真っ只中な人が監督したほうがよかったかもしれないよね。ただ、ああいったテクニックを持って名作が生まれたっていうのは、あの人の寛大さがもたらしたものですよね。演技経験の浅い僕らと真剣に付き合って、一緒に作ってくれた。それは神代さんが大人であったということだよね。

内田裕也との「ローリング・オン・ザ・ロード」

──のちの『嗚呼!おんなたち猥歌』(1981年)は内田裕也さんが主演のロッカーの話ですが、ご覧になられていますか? その中で最後に、萩原さんも出演された1981年の「さよなら日劇ウエスタンカーニバル」で歌われた「ローリング・オン・ザ・ロード」がかかるんですよ。

萩原 それは知らないなあ。ただね、ついでにロックのことを言えば、「ロックとは、芸術心とは貧乏であるべきだ!」っていうのはどうかと思うんだよ、俺。どう? 俺はなんか変なことを言っているか?

──いえ、まったく。

萩原 そりゃあ、美しきものであったり、芸術性豊かなものは、10年先、20年先、100年先を見通して物事をやるから、食っていけなくなるくらいのこともあるよ。だけど、やっぱり美意識たるものは、ある種、余裕があって生まれてくるものであるからね。要するに、いつも貧乏して歯を食いしばりながら芸術に身を投じていくのって、俺はあまり好きじゃないんだよ。かといって、成り上がりの誰かじゃないけど、金、金、カネ、カネ言ってるのも嫌だけどさ(笑)。

──そのあたり、神代監督はどうだったのでしょう?

萩原 神代さんの家は薬問屋の財閥だから、私利私欲みたいなことは、ハナからなかった人でしたね。

図々しくてもいい

──神代さんの発言で記憶に残っている言葉はありますか。

萩原 「太宰治に憧れて、されど太宰になれず、田中英光にもなれなかった」。「酒に溺れるように、映画と言う麻薬に溺れ、我が身を滅ぼされた」みたいなことも言っていたよ。

──一緒に仕事をする相手として、神代さんはどのような存在でしたか。

萩原 常に満足しない人でしたね。ただし、人を俯瞰から見ない。よく映画監督でも人を上から見下ろす人がいるだろ? 神代さんは絶対そうしなかった。ただ……もうちょっとゆっくりしてもよかったのかな。生き急いだ感じがする。でも、これは生き方の問題だもんなぁ……。

彼は相当のインテリだから、インテリジェンスが邪魔してたんじゃないのかな。インテリジェンスはなきゃいけないけど、インテリであればあるほど、やるものに自分で規制をかけて、感情移入する場面に対して細かくチェックするようになるんだよ。だから、やるものが狭くて不自由になるでしょ。だからもうちょっと、図々しくてもよかったかもね。本当にシャイでしたよね。

──神代監督って「死にたい死にたい」といつも言っていたそうですね。

萩原 しょっちゅう言ってましたね。

──あまりに神代さんが言い過ぎて、皆さん聞き流しちゃうんですか。

萩原 う〜ん……俺にはないものだからさ。なんでそんなに死にたいのかは、最後までわからなかったね。でも確かに、生きるっていうことは深刻に考えれば大変なことだよね。生き抜いていくっていうことはさ。だけど、あんまりそんなに……俺がアバウトすぎるのかな。ああいう真面目な人は、究極はそこに行き着いちゃうんでしょうけど。でも、そんなに自分を追い詰めなくてもよかったんじゃないかなあ。

──萩原さんは今、いかがですか?

萩原 意識の持ち方であって、そりゃあ偉大な人間になりたかったり、偉大なことをしてやろうと思ってみたり、奇跡を起こしてやろうだとか、だんだんだんだん年を取ってくると、そういう気持ちが出てこなくなるんだよね(笑)。そういう気持ちはだんだん、薄れてこないか?

──おっしゃることは何となくわかりますが、荻原さんの達している境地とは別だと思います(笑)。

萩原 「偉大なことをしてるよ!」なんて思わなくても、日々、身の丈にあったことをキチッとやってりゃあ。人が言ってくれることだからな、「偉大な人」なんていうのはな(笑)。偉大なことをしてるんだって気づいてる偉大な人間なんて、そういねえと思うんだけどな。無意識にすごいこと言ってるなっていう人はいるかもしれないけどさ。

──萩原さんはとても偉大な方ですよ、僕らからしてみれば。

萩原 そう? 俺は全然わからないよ(笑)。

(取材・文 轟夕起夫)

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萩原健一・プロフィール

はぎわら・けんいち(1950年7月26日〜2019年3月26日)
埼玉県生。
1967年にザ・テンプターズのヴォーカリストとして16歳でデビュー。「神様お願い!」「エメラルドの伝説」などのヒットを飛ばし、GS(グループサウンズ)ブームの中爆発的な人気を誇る。
解散後はPYG(グループ・サウンズの「ザ・タイガース」「ザ・テンプターズ」「ザ・スパイダース」のメンバーで構成されたロックバンドで、沢田研二、萩原健一のツインボーカル)結成。

1972年の『約束』(監督・斎藤耕一)での演技が絶賛され、本格的に俳優に転身。TVドラマ「太陽にほえろ!」のマカロニ刑事役で人気を決定づける。以降は『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』など TVドラマ史に残る傑作に出演。映画でも『青春の蹉跌』(1974年)、『アフリカの光』(1975年)、『もどり川』(1983年)、 『恋文』(1985年)などで神代辰巳監督と組み傑作を残したほか、『股旅』(1973年/監督・市川崑)、『化石の森』(1973年/監督・篠田正浩)、『八つ墓村』(1977年/監督・野村芳太郎)、『誘拐報道』(1982年/監督・伊藤俊也)、『瀬降り物語』(1985年/監督・中島貞夫)、『居酒屋ゆうれい』(1994年/監督・渡邊孝好)など数々の傑作を放つ。『TAJYOMARU』(2009年/監督・中野裕之)が遺作となった。

轟

映画秘宝2010年5月号掲載記事を改訂!

館理人
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『傷だらけの天使』はAmazonプライム会員見放題タイトルにラインナップされています(2020年9月現在)。

館理人
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『傷だらけの天使』はU-NEXTでも、会員見放題タイトルに含まれています。(2021年1月9日 23:59まで配信、2020年9月現在)

館理人
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ちなみに、U-NEXTでは、出演作『いつかギラギラする日』『鴨川食堂』などのほか、音楽活動のドキュメンタリー2本もラインナップされています。
『萩原健一「Making of LAST DANCE」』は2017年10月に発売されたアルバム「Last Dance」の貴重なレコーディングドキュメンタリー。
『KENICHI HAGIWARA 50TH ANNIVERSARY PREMIUM LIVE LAST DANCE 2017』は2017年ツアーのファイナル公演のLIVE映像です。

この2つの音楽映像配信については、2020年12月26日 23:59までとなっています。(2020ねん9月現在)