村川透監督のロングインタビュー記事を蔵出しです。ロマンポルノの傑作、『白い指の戯れ』についてからお話は広がり、村川流ドラマ作りが見えてくる内容です。
ロマンポルノと『白い指の戯れ』については、こちらの記事で紹介しています。
まずは簡単に村川監督のプロフィールから!
村川透・プロフィール
むらかわ・とおる
1937年山形県生。監督・舛田利雄、中平康らに師事し、日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』では日本側演出部総チーフとして参加。
1972年『白い指の戯れ』で監督デビュー。
主な監督作品に『最も危険な遊戯』(1978年)をはじめとする松田優作との『遊戯』シリーズ、『蘇える金狼』(1979年)、『野獣死すべし』(1980年)ほか、『白昼の死角』(1979年)、『凶弾』(1982年)、『聖女伝説』 (1985年)、など。
ドラマでは『大都会』シリーズ (1976年〜)、『探偵物語』(1979年)、『西部警察』(1979年〜)、『あぶない刑事』(1986年〜)など。
では!インタビューをお楽しみください。
インタビュー
(取材・文 轟夕起夫)
──村川透監督は1972年、『白い指の戯れ』『官能地帯 哀しみの女街』『哀愁のサーキット』の3本の日活ロマンポルノを発表されています。2012年の「日活創立100周年記念 特別企画 生きつづけるロマンポルノ」では選ばれた32作品の中に『白い指の戯れ』が含まれていました。改めて日活ロマンポルノ時代の村川監督のキャリアをうかがえればと思っております。
村川 いいですよ。でもたったの3本だからねえ、話すことあるかな(笑)。
監督デビューは『白い指の戯れ』
──いえいえ、とても濃厚な3本ですから。まず、監督デビュー作でもある『白い指の戯れ』は、もともとは『スリ』というタイトルでしたね。
村川 ええ。でも俺はこの『白い指の戯れ』ってタイトルも好きだよ。スリをしている若者たちのことと、セックスのイメージを喚起するダブルミーニングになっていて。これは脚本を仕上げにクマさん(=神代辰巳)と伊東温泉に3、4日泊まりに行ったはず。
神代辰巳監督については、こちらに関連記事があります。
──村川さんがチーフ助監督を務められたロマンポルノ 『濡れた唇』(1972年)の監督が神代さんで、原形はすでに神代さんが書いていて、それを村川さんが自分流に直されたと。
『濡れた唇』のレビューはこちらにあります。
村川 第1稿がクマさん、2稿目が俺で、最後はクマさんと一緒にね。
キャスティングは荒木一郎と伊佐山ひろ子
──キャスティングのほうは?
村川 同時に進めていて、俺、1本目は「荒木一郎とやろう」ってことだけは決めてたんだ。付き合いがあってね、俺はとにかく荒木という存在が大好きだったんですよ。あの感性がね。ものすごい感性ですよ。ちょっと世間的にはハミ出しているぐらいのヤツじゃないと面白くない。荒木は音楽的な才能がほとばしっていたし、顔もファニーな魅力があった。閉所恐怖症のくせに、車には乗るんだよな。だけどどこか窓は開けておく。俺、ヘンな男が大好きなの。あいつも俺と気が合って。でもカネがない。払えるようなギャラがないんだ。製作費 700万程度で作ってたんだもん。エキストラ費用も含めてキャスト代は 100万ほどしかなかった。そこで仕方ない、俺の脚本代から出してくれ.……と、話をつけました。
──お〜! そしてヒロインの伊佐山ひろ子さんはどのように?
伊佐山ひろ子は、この『白い指の戯れ』と同じロマンポルノ映画『一条さゆり 濡れた欲情』の演技により、1972年度のキネマ旬報日本映画主演女優賞を受賞しています!
村川 伊佐山に関しては、『濡れた唇』にも出ている粟津號がよく言ってたんだ。「俳優座小劇場の養成所にヘンな女がいるんですよ」って。会って、俺はすぐに気に入ったね。さっそくスタッフみんなに喫茶店で紹介したんだけど、反対されてねえ(笑)。でも俺は全員反対だからこそ素晴らしいと思った。「絶対彼女だな」と決めたよ。
──彼女はのちに「ポルノ」(『海と川の匂い』所収)という小説で、このときの現場のことを記しています。小説だから当然フィクションも入っているんでしょうけど、これがすごいリアルで。彼女がシーンのつなぎを考えず、パンツを替えてきてしまい、撮影中に監督が買いに行ったみたいな話も。
村川 それ本当ですよ(笑)。とにかくね、フーテン娘がいきなり初めて人前で演技をすることになっちゃったわけだ。映画に出る自覚なんか何もないに等しい。「面白そうだからやってみるか」って感じで、でもそれでいいと思った。ただ撮影中、フラリとどこかに行ってしまわれては困る。酒を飲んだくれて次の日起きられないというのもマズイので、撮影の10日前ぐらいから、家には女房がいたんだけど強制的に住まわせて、毎日、箸の上げ下げに始まり、基本的な心得を叩き込んだ。
──そのときのことを、伊佐山さんは以前、インタビューで「監禁された」と表現されてました(笑)。
村川 うんうん、たしかにあれは彼女にとっては監禁だったろうな(笑)。
セリフと演出
──ヒロインは、荒木さん扮するスリグループの一員に惚れ、何度かセックスを経験していくうちに、ついに「私、女でよかった」と呟きます。このグっとくるシークエンス、セリフはどちらが書かれたんですか?
村川 あれはクマさんじゃないかな。
──セックス中、荒木さんがレイバンのサングラスをとらないのは?
村川 そこは俺の指示。でもね、優しさを表すシーンでは外すんだ。あそこで、ようやく2人が本気になっていくニュアンスを出したんだ。俺だってね、とことん奥のほうでは女性に対して優しいんですよ(笑)。
──浴場に男女入り乱れ、大量の泡で包まれ、乱痴気騒ぎになるシーン。あの泡は機械で出されたんだとか。
村川 これも俺の創作だね。クマさんにはああいう感覚はないですよ。でもそんなの必要なくて、だからこそクマさんなんでね。俺とは対極だった。だいたい俺は、クマさんみたいに女優をオンナという目で見たことなんかないからね、いっさい。でもそういう違う2人が組んだ良さがあったね、この映画は。
──本物のスリの人を探して呼び、撮影前にリハーサルをしたそうですね。
村川 ああ〜、やりましたね。
──荒木さん、マジックをやられるくらいですから手先は器用で。
村川 とても器用ですよ。2回くらいやったらすぐに覚えちゃった。
ーー全編、手持ちカメラで追いかけていくスリリングなスタイル。名キャメラマン・姫田真左久さんとは、助監督時代からのお付合いですね。
村川 舛田利雄監督の撮影現場でよく御一緒しました。
姫田さんとは長回しを通して、役者のテンションがずーっと持続していく面白さを追求したんですよ。実はね、ファーストシーン、幻のワンシーンワンカットのショットがあったんです。あれはロケ場所は渋谷の交差点なんですね。で、喫茶店の窓際の席でレッカー車をじっと見ているヒロインがいて、いろんなことが頭に浮かんできて涙ぐむカットにつながるんだけど、そのシーン、ずーっと手持ち長回しで撮っていたんです。ところが本番、助監督との連係がうまくいかず、1回しかチャンスがなく最終的にはカットを割らざるを得なくなったと。残念だったね。でもまあ、それがあっていっそう長回しの手法にこだわるようになったんですよ、俺的には。
映画の勝負は構成と繋ぎ
──ファーストシーンはスケジュール的には、いつごろ撮られたんですか?
村川 クランクインの日です。初日には荒木をストップモーションでとらえるラストシーンも撮りましたよ。短い期間でインパクトがあり、しかも臨場感のあるシーンにするためにね。俺は、ラストシーンだろうとどこから撮ったって全部繋げられちゃうんですよ。映画というのは構成と繋ぎ、コンティニュイティー、役者さんと物語をどう繋いでいくかが勝負なんですから。
『官能地帯 哀しみの女街』
──なるほど。ここらで滅多に観ることのできない『官能地帯 哀しみの女街』についてもお訊きしたいのですが。
村川 これはね、双子姉妹の話をやりたかったんですよ。シナリオライターの中島丈博さんと一緒に書いてみたんだけど、丈博さんの世界とうまく噛み合わなくて、それで別の名前(=江口楯男)で脚本がクレジットされているんです。なので作品的にはいろいろと描ききれなかった部分がありますねえ。
『哀愁のサーキット』
──3本目の『哀愁のサーキット』のストーリーラインは、歌手の小川知子さんと、1969年に事故死したカーレーサー・福澤幸雄さんとの悲恋が下敷きですね。
村川 とりあえずね(笑)。あと、僕は車が大好きなんですよ。
──主演の峰岸徹さん(出演時は峰岸隆之介)とは親交があったんですか。
村川 仲良かった。あいつの徹は、俺の“透”ですよ。1975年に芸名を変えるんだけど、俺の“透”をもじって付けたんだ。よく俺の家に泊まっていたからね。撮影前はヒロインの木山佳も一緒に遊びに来てましたよ。
音楽の選び方
──音楽は“ピコ”こと樋口康雄さん。シンガーソングライター、名コンポーザーとして知られる樋口さんの初の映画担当。1972年は傑作アルバム『ABC/ピコ・ファースト』が出た年でもあって、この時点で樋口さんを起用されたのは、スゴイの一語です!
村川 彼とも仲良かったんですね。それで音楽をお願いして。
──劇中、木山さん演じる歌手が披露する「海は女の涙」という曲では、村川監督、なんと作詞を手がけられています。これ、名曲ですね。
村川 画面上はロパクで、実際は石川セリが歌っているからね。昔は助監督って、裕ちゃん(=石原裕次郎)やアキラ(=小林旭)の曲が入る映画だと、監督やレコード会社の人たちと一緒に歌詞を考えたもんなんだよねえ。もちろん名前はクレジットされていないけど。当然、作詞家に頼むカネはなく、久しぶりにやってみたまでのこと。けっこう印税をもらいましたよ。
──石川セリさんのナンバーは他にも何曲か流れ、「GOOD MUSIC」のシーンでは御本人が出てきて歌うシーンが収められているのもレアです。
村川 この映画には樋口も顔を出してるんだよな。俺は音楽も大好きだから。後に『白昼の死角』(1979年)のときには、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童に音楽を頼んで、彼らにもジャズバンド役で出てもらったね。
石原プロのテレビドラマ
──1972年に一挙に3本発表し、この後、ブランク期に入られましたが。
村川 やっぱり“ロマンポルノ”という路線は、俺には違うなと思ったんだ。当時はとにかく、時代の変化を感じてトライしてみたんだけどね。俺はその頃、30代中盤で、それまでもやり残したものを探しながら生きてはいたんだけど、いっとき情熱が、音楽へと向かってね。映画をやめて郷里の山形に帰って、オーケストラ作りに励んでいた。兄が指揮者(=村川千秋氏)で山形交響楽団の設立運動に関わっていたこともあって。でもやっぱり映画に対する情熱は冷めず、もう1回現場に戻りたいと思っていたとき、石原プロからテレビドラマの演出に誘われたんだ。
──『大都会−闘いの日々−』(1976年)ですね、ドラマチックな人生だな〜。
村川 絶対来てくれと、舛田利雄さんや裕ちゃん、渡(哲也)が訪ねてきてくれて、それからは俺、また燃えに燃えて、現場に立つようになったんだ。そういえば『大都会』では、荒木の「君に捧げるほろ苦いブルース」を使った回があったよね。
──傑作揃いの中でも屈指のエピソード、いしだあゆみさんが中学教師役で出演された第16話「私生活」ですね。
村川 そうだ! 荒木が「いい曲作ったから聴いてくれ」って。「よし、これ俺にくれ」ってね。あの曲をいったん断片にしてバラして、ひとつの話の中でヒロインのテーマ曲にした。あれは楽曲そのものは、荒木がかわいがっていて亡くなった猫の話なんだけど。
ゴダール映画からのインスパイア
──『白い指の戯れ』や『哀愁のサーキット』にも顕著なんですけど、村川監督の映画は“音楽的”ですよね。つまり映像の流れ自体が“音楽的”。
村川 そこは目指しているところではありますね。当然、音楽自体にもこだわる。(松田)優作とやった『野獣死すべし』(1980年)では、ショパンの協奏曲の中から、いいフレーズをいろいろと探し、たとえば店の中で微かにかかるイージーリスニングにも気を配った。音楽監督のたかしま(まさあき)さんと、一緒にピアノを弾きながら「ここに入れてみよう」なんてやってました。『白い指の戯れ』のときは全部、俺が考えて、構成しましたよ。
あのときは映画のイメージがモーツァルトのクラリネット協奏曲に繋がるようにと。途中、風呂場のシーンで、ギターを弾くところは荒木が実際にやっているんだけどね。
──クラリネット協奏曲は、ゴダールの、かの『勝手にしやがれ』(1959年)でも使われていましたね。
村川 ハッキリ言えば、あれにインスパイアを受けました(笑)。
ジャン=リュック・ゴダール監督については、こちらの記事で解説しています。
フィルム・ノワール系監督の影響
──『白い指の戯れ』に出てくる若者たちは遊戯精神を持ち、アウトローでもありますが、このアウトロー志向は監督の本質でもありますか。
村川 常に、何かモノ足りなさを覚えて、飢餓感に追われている……たしかにそれは俺の本質の一部だね。
──同時代的な日本映画は、仕事をされながらご覧になっていたのですか?
村川 あまり観ていないです。黒澤明さんだったり、巨匠の作品はけっこう観てますけどね。
──では海外だと?
村川 うーん、ジャン=ピエール・メルヴィルだったり、ジャン・ベッケルだったり、フィルムノワールの系の監督の映画が好きだったなあ。
──そういう趣向は、今から考えてロマンポルノを作っているときにも反映されていたと思われますか?
村川 ありますね。やっぱりやりたい映画を作ることが生涯の目的だったので、無意識に入っちゃうよね。
松田優作との仕事
──公開時、お客さんの反応を見ようと、『白い指の戯れ』を筆頭に日活の上映館に行かれたことは?
村川 それはないです。他の映画でも。ただ1回だけ行ってビックリしたのは『蘇える金狼』(1979年)。優作と朝まで飲んでいて、一緒に行ってみるかという話になって、まだ6時か7時なのに、ずらーっと劇場にお客さんが並んでいたんですよね。あれにはビックリしたし、優作と喜びあいましたよ。
──先ほどから優作さんの名前をうかがっていて、ふと思ったのですが、レイバンのサングラスの似合う男の流れを考えたら、『白い指の戯れ』の荒木一郎さんと優作さんは繋がっていますね。
村川 あと柴田恭兵もね。優作は最初に『太陽にほえろ!』(1973〜74年)を観て、細くて、妙な顔をしてるなあって。
で、彼がゲスト出演をした『大都会』(第4話「協力者」)で仕事をして、「やっぱりコイツはスゴい奴だ」と確信した。世の中からハミ出ていて、突き抜けていて、時代を引っ張っていく力を持っていた。以後、俺は「優作を使えればあとは何も言わないから、やりましょうよ」と、知り合いのプロデューサーたちに言い続けて、やっとその気持ちをぶつけられたのが『最も危険な遊戯』(1978年)。それから何作も一緒に映画を作り、そうしてやがて優作は優作なりに別の“今”を模索し始めた。俺も別の“今”を求め、現在に至ると。後ろは振り向きません。まだまだ面白くできる。今、やっていることこそが素晴らしいと思うんでね。
──にもかかわらず今回は、往時を回顧をしていただき、感謝いたします!
村川 いや、いいんだよ、当時があるからこそ“今”もあるわけで。
テレビドラマと映画と
──現在は柴田恭兵さんとの『越境捜査』シリーズ(2008〜11年)、渡瀬恒彦さんとの『SP〜警視庁警護課』シリーズ (2011〜12年)ほか、テレビドラマ界で活躍されていますが、映画の新作もお待ち申し上げております。
村川 俺は好きなこと以外はやらないだけなんですよ。特に映画はね。やりたいものがないから仕方ない。「映画にも負けないテレビドラマを作ってやるぞ!」という気概で、目の前の作品に挑んでいくだけなんですよね。
のちに村川監督、シリーズ最終作『さらば あぶない刑事』(2016年)を監督されました!
映画秘宝2012年2月号掲載記事を改訂!
関連記事のご紹介!
松田優作については、関連記事がこちらにあります!