日本を代表する喜劇人、伊東四朗さん!
2004年の雑誌掲載インタビュー記事の復刻です。伊東四朗さんへのインタビューは、同年の出演作『NINXNIN 忍者ハットリくんTHE MOVIE』公開のタイミングで行われました。
映画のことのほか、デビューからの役者半生を振り返って語っていただいたインタビューとなります。
先日亡くなられた小松政夫さんとのコンビ芸が大流行したのは1970年代。その時代のことについても触れています。
なお、『NINXNIN 忍者ハットリくんTHE MOVIE』
は監督:鈴木雅之、主演:香取慎吾、原作:藤子不二雄(A)!
伊東四朗 プロフィール
伊東四朗 インタビュー
(取材・文 轟夕起夫)
浅草の軽演劇を皮切りに、てんぷくトリオでブレイク。盟友・小松政夫氏とのコンビを経て、今も三谷幸喜作品などでライヴな笑いにこだわるコント求道者・伊東四朗。
てんぷくトリオのメンバーは、三波伸介(みなみしんすけ1930年6月28日〜1982年12月8日)、戸塚睦夫(とつかむつお1931年4月20日〜1973年5月12日)と、伊東四朗の3人です。
小松政夫さんとは、共演のテレビ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」で生まれたお笑いソング「電線音頭」や、テレビ番組「笑って!笑って!60分」で生まれたキャラ「小松の親分さん」のギャグなどで、最強コンビとか黄金コンビなんて言われてました。
出演映画『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』については「血を流さずグロテスクにも走らず、それでいて緊迫したシーンを作っていて、これはなかなか」。節度を知る美学者から学ぶことは本当に多い。
藤子不二雄(A)作品への出演
小林信彦氏の著書のあとがきに、「日本の喜劇人の最後の一人」と記されたのは1996年。
伊東四朗さんは現在もそのユーティリティ・プレイヤーぶりで、ジャンルを問わずあらゆる世代から愛されリスペクトされる存在である。『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』出演も、監督(鈴木雅之)やスタッフ陣に熱望されての事であった。
鈴木雅之監督はフジテレビのディレクター。チーフディレクターとして「王様のレストラン」「HERO」など、映画では『マスカレード・ホテル』などを監督しています。
伊東 声をかけて下さって嬉しかったですよ。原作者の藤子不二雄(A)先生にも親しくしていただいてますし。藤子アニメの実写版、2本も出てるの、あたしくらいじゃないかしら。鈴木監督は『月曜ドラマランド』(1981〜1987年)って枠で彼が助監督だった頃からの知り合い。とても仕事のしやすい演出家ですね。
名フレーズ「ニンッ!」
以前、TVシリーズ『笑ゥせぇるすまん』(1999年)のときは、藤子氏の推挙で怪キャラクター「喪黒福造」を演じた。『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』では主人公・服部カンゾウ(香取慎吾)の父親役。いわば「ニンニン」と元祖「ニンッ!」の競演実現であるが、伊東さん、撮影前はそのことに気がつかなかったという。
ブラックユーモアが『笑ゥせぇるすまん』はアニメにもなりましたが、実写ドラマ化もされました。その主役を努めたのが伊東四朗さんでした。
伊東 インしてからですよ。スタジオで「あれれ?もしかして、これは」って思った(笑)。
ちなみに「ニンッ!」とは伊東さんが司会を担当していたクイズ番組『ザ・チャンス』(1979〜1984年)で使われ広まった名フレーズだが、こんな由来のあるものだった。
伊東 あれはね、森進一さんの(浅草)国際劇場でのお正月公演のときだったかな。時代劇のパートに出演させていただいて。長屋から戸を開けて出てくるシーンで、僕は浪人の役だったんですが、演出家の方に「何か(面白い出方は)ないですか」って訊かれ、「ニン!」とやったのがどうも最初みたいですね。そのあと『ザ・チャンス』で出場者カードを引くときにアクセントをつけて「ニンッ!」ってね。別に、流行り言葉にしようと思ってやってたわけではなかったんだけど、なんとなく皆さん、覚えてらっしゃるんですよね。
役者・香取慎吾との共演
『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』主演の香取慎吾さんと伊東さんをつなぐのは三谷幸喜作品。シットコム『HR』(2002年)の最終回ゲスト、そしてNHK大河ドラマ『新選組!』がある。
伊東 香取くんは三谷さんが買ってる方だからね。いいものをいっぱい持ってますね。SMAPというグループはみんな、感覚がいい。なんなんでしょう。持って生まれた才能があって、それがこの世界でさらに磨かれていて。私の若い頃と比べると、参っちゃいますね(笑)。
比べてみる。香取さんは現在27歳。その年代の伊東さんはというと(今は亡き)三波伸介、戸塚睦夫氏とコントグループ「てんぷくトリオ」で売りだし中だった。
役者と舞台
伊東 結成して数年ですかね。自分が何やってるかよく分かっていない時期ですよ。今の若い人はテレビを怖がってないよね。僕は怖かった。そのレンズの先に、何百万という人が観ていると思うと。しかもすべて生放送だったから追いつめられてやってただけ。撮り直しってものがないわけですから。
自分の笑いが分かるようになったのは43歳ぐらいかな。ある日、突然。ドラマの中で思わず出たアドリブに対し「あ、これかあ」って感じた。「笑いってこういうことなのか」とそのときにひとつ、何かを掴みました。でもそれ、言葉にも数式にもできないものなんです。あくまで感覚的な話。僕はその感覚をもっぱら舞台の仕事で培ってきました。舞台はお客さんの反応で自分の良し悪しがダイレクトに分かる。だから面白い。役者を志す人はぜひ、一度でもいいから舞台をやったほうがいいと思いますよ。これは本当。
喜劇役者の怖さと節度
テレビ、映画での活動と並行し、ずっと板の上の笑芸人であり続けている。2004年7月にも三宅裕司氏ほか気心の知れたメンバーと『伊東四朗一座〜旗揚げ解散公演〜喜劇 熱海迷宮事件』を下北沢・本田劇場でプレイした。
伊東 やっぱり、ナマでウケたときが一番楽しいですよ。ただし、笑いの質というのはどんどん変わってきてますからね。ある程度伏線があって、ワっと笑ってもらうのが僕は好きなんですけど、今、その伏線部分をお客さんが我慢できなくなってきている。そういう意味では難しい時代ではありますね。
市川崑監督との仕事
映画では数々のコメディをはじめ、コワモテなイメージを突出させた伊丹十三作品が有名だが、市川崑監督のこのエピソードも忘れ難い。まだ「てんぷくトリオ」時代の1968年、朝日新聞「今年の注目すべき人」のコーナーに、市川監督は「動きとセリフのタイミングが実に抜群だ」と若き伊東さんのことを書いた。
伊東 なんだか注目してくれていたんですよね。ずーっとのちに、『竹取物語』(1987年)や『天河伝説殺人事件』(1991年)に出させていただきました。
数年前ですか、主演片岡千恵蔵で有名な映画『赤西蠣太』(1936年)を、市川監督が北大路欣也さんでTV時代劇(1999年)にされて。それがとっても良かったので、思わず手紙を書いたんです。そうしたら「お褒めに預かり光栄。喜劇が撮れるようになったら一人前、という私の師匠の言葉を今、思い出しています」なんて返事をいただきましてね。嬉しかったですね。
「喜劇」の塩梅
喜劇っていうのは、舞台にしても映像の世界にしても、一番難しいものなんです。お客さんを笑わすという答えを出さなきゃいけない。『伊東四朗一座』なんかタイトルに「喜劇」って銘打ったので怖かったですよ。笑ってもらえないと詐欺なんですからね、いやホントーに。映画でも昔は『駅前』シリーズとかタイトルの頭に「喜劇」って自信をもってつけていた。あれは考えてみると凄いことでしたね。
かといってガムシャラに笑わそうという気は僕にはない。舞台で汗かいたりする熱演はイヤなんです。いいところでスっと止めるのが粋。東京人としてそういう風に思っているんですけどね。尊敬する三木のり平さんもそうでした。いくらでもウケるシチュエーションってあるし、喜劇役者ってどうしても押して押して笑いを取りたい性分があるんだけど、やっぱりね、いい塩梅のところってあるんですよ。それを超えると、いわゆる野暮。
笑いのダンディズム。冒頭の小林信彦氏の言葉が載る著書のタイトルを、改めて伊東さんに贈りたい。『喜劇人に花束を』である。
キネマ旬報2004年9月下旬号掲載記事を再録です
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