

都はるみさんのインタビュー記事を復刻します!

10代から国民的歌手として活躍していた都はるみさんが、ご自身の青春と恋愛を振り返って語ってくださった記事となります。

『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』にマドンナ役で出演した際も、その歌声で映画を彩っていました。

インタビュー時期は1996年(48歳)です。大スターが芸能活動を「休止」することが不可能だった時代、批判を受けながらも「引退」と「復帰」というワードを使ってご自身の活動をセルフコントロールした、いわば先駆的存在。

どんなドラマがあったのか、その一端が語られています!
都はるみ インタビュー
(取材・文 轟夕起夫)
時を経て、あらためてその出来事のなりゆきに驚かされることがある。
リアルタイムではついつい見のがしがちなことの本質。それがのちに明らかにされるというのはたびたびだろう。
「普通のおばさんになりたい!」
たとえばこの流行語、1984年の都はるみさんのある電撃的な引退劇もまた、そんな出来事のような気がする。
デビュー20周年、おりしも歌手として最高峰を登りつめんというときの突然の引退。36歳の一大決心であった。彼女はこのように振り返る。
36歳の「引退」
都 あれは別に、普通のおばさんになりたい、ということではなくって、歌手以外に別の仕事ができないかなって考えぬいた結果だったんですね。それまで自分の仕事に対し、どこか自信の持てない部分というのがつきまとっていて、ずっーとツラかった。
商店街で働く近所の奥さんなんか見ると、イキイキしていてね。皆さんの働く姿が美しく思えて、で、自分のやっていることはどうしてこんなにつまんないんだろうって。自分勝手ですよね。わがままです。
でもきっと、100%納得できて、リラックスしてできる仕事もあるんじゃないかと、それに40歳になったらもう遅い、何とかその手前で歌手であることを断ち切らなければと必死に考えた。歌をうたっている私とは違う。別の私がどこかに存在するんじゃないか、そう信じてたんですね。
10代でうたった大人の恋
歌手生活20年目の戸惑い──。
京都から上京したのが1963年のこと。翌年16歳でデビューし、2枚目のシングル曲「アンコ椿は恋の花」がミリオンセラーを記録。それを皮切りにスター街道を歩いてきたその20年の歳月を、はるみさんは「あまり美しくなかったんですよね」と言い切った。
特に10代の彼女にとって、大人の恋の歌詞はリアリティを感じられず、当時からよく観ていた洋画、例えば『慕情』『シェルブールの雨傘』『ひまわり』といった愛の名画シーンを思い浮かべながら、はるみさんは「涙の連絡船」や「好きになった人」をうたっていたのだとか。
「ずいぶんトンチンカンなコトやってたなあ」と彼女はニガ笑いした。
歌詞にリアリティを感じるまでにはかなり時間がかかったという。
歌とプライベートの接近
都 そうですねえ・・・「北の宿から」をうたっている頃からですかねえ。自分の想像力と歌詞の内容とがなんとなく一致しはじめたのは。仕事ばかりしてきましたから。高校の同級生の友達が結婚していくでしょ。早い人は22か23でね。私にはそういう恋愛を謳歌する時間などなかった。
だから一致したといっても歌詞の中の、“着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます”なんて、私自身、そういう女性像では全然ないんです。ただ、なんだかこう、自分もたまにはそんな言葉を堂々と言ってみたいものだなあとは思っていました。
歌とプライベートの感情が接近してきたのが29歳の頃。けっこう遅いんですよ。それまでは歌の内容、よくわからないままにうたっていたんですから (笑)。
17歳で新宿2丁目のバーに通う日々
うたうことは好きだったが、仕事としてうたわされることは嫌いだった彼女。しかし日本レコード大賞新人賞を獲得し、また、家族の生活のためにも、この新進流行歌手に待っているものはといえば、来る日も来る日も仕事でしかなかった。
ただそれでも、青春も捧げつくす多忙な彼女にも、唯一つかのま解放される場所があった。そこは意外なことに新宿2丁目のバーだった。
都 いやあ、一所懸命通っていましたねえ(笑)。東京では仕事が終わるともう、ほとんど新宿2丁目で降ろしてもらって、お酒を飲んでました。時効ですよね(笑)。よく飲んでいたのがコークハイ。ちょうどコーラの出始めで、いまのよりシュワっと炭酸効いたのがたまらなくよかった(笑)。あとはジンライムにバイオレット・フィズとか。そこでは年齢なんて関係ないんですよ。
ゲイボーイの人たちが「はるみちゃん、また来たのー!」って。朝まで飲んでは、そのまま仕事場へ通う毎日。家みたいなものでした。よくやってたものです。そこに行くと自由があるというか。
男も女も年も関係なく、17の子供が行っても大人扱いしてもらえて、ちょっと背伸びしたような自由が楽しかったんですね。いまは2丁目もずいぶん健康的になっちゃいましたけど、昔は秘密の場所に行くみたいなスリリングな匂いがありました。
中上健次が綴った都はるみ
新宿2丁目というと、彼女が引退後、いまは亡き作家・中上健次氏と何度となく酒を酌み交わした思い出の場所でもある。そこで熱烈なファンであった氏の「天の歌 小説都はるみ」(毎日新聞社刊)に目を通すと、新宿2丁目で恋人と逢瀬を重ね、失われた青春を必死に回復しようとする健気な彼女の10代の頃が描写されてあった。
都 そうでしたねえ。普通、10代のデートというと映画観たりするんですけど、そういうの、あまりなかったですねえ。だって最初から新宿2丁目で始まってるわけですから(笑)。彼とはよくそこで逢いました。でも付き合ううちにだんだんと男の人のペースになるじゃないですか。いつしか彼の家の近くのスナックなんかでデートをするようになって、新宿2丁目からも足が遠のいてしまいましたねえ。
「今ではたまに、なじみの店に行くこともあるのよ」と彼女は言った。ポンポンと小気味良く、間を置かずに答えが返ってくる。
結婚への決意と離婚
ところで、結婚の方の話だが、結局はあの「北の宿から」が大ヒットした1978年に紆余曲折を経て実現したのだそう。
都 うーん、ずいぶんかかりましたねえ。結婚式は30歳の2週間ほど前だったかなあ。私たちの頃って、結婚とか男性との交際が大変スキャンダルになる時代でしたから。ずいぶん週刊誌には尾行されたり泣かされましたよ。いまの写真週刊誌よりもキッかった。
なんだか私、悪いコトしているような気持ちにさせられてね。もう、笑って許せますけどね。でも当時はスキャンダラスに報道されればされるほど「絶対に別れないぞ!」って思った。かえってそれがよかったのかも。だからあんなにも年月が経っても結婚までたどりつけたのかもしれませんよね。ただ結婚して、そのあとにすぐ別れましたが…。そういうもんですよね、人生って(笑)。
一生、共にしたいなあと思ってたんですけれどねえ…。人間の縁っていうのはホント、不思議よね…。
そうつぶやかれた言葉は過ぎ去りし時を見つめているように思えた。だがときおりブルーに美しく反射する瞳は決して伏せることをしなかった。過去ではなく、真っ直ぐ未来へと伸びゆく視線。それを遮るものなどなにもない。
かつてイヤだったはずの仕事
あの17年目のエンディングとは、彼女にとって40代の新たなオープニングを迎えるための幕開けでもあった。はるみさんは悠々と語り始めた。
都 女もね、30歳になるとある程度自分の生き方が決まってくるもんじゃないですか。10代から20代まではそんなに意識してないんですよ。適当に流して生きている。でも20代から30代になるときは、ある程度、子供を産まなきゃいけないとか、何々しなきゃとか、決めなきゃいけないことが、女としてたくさんあるんですよね。
私はどちらかというと子供を産みたいとは思っていなかったし、仕事のほうもある程度自分のペースで進めていけて、ま、楽しいかなって思える30代でした。
どうも私って、安定感のある生活はしたくないみたいなんです。で、いったん決めちゃうと今度はそれをこわしたくなるの。もっと冒険してみたくなるのね。ある場所を確保したらそれを守っていかなきゃいけないっていうのは私にはできないこと。そんな場所、なくなってもいい。また探せばいいわけだし、たまに自分からなくしてしまったりとかね(笑)。
わがままかもしれませんけど、やっぱり仕事をやっていたのが大きかった。じゃなければそ
んな考え、起きなかったかもしれないですしね。
たしかにいちばん迷ったところではありました。女として、家庭の主婦として、そして仕事人として、この3つの中のどれを選ぼうかって、でも結局、イヤで仕方なかったはずの仕事を選んじゃっていたんですよね。
引退劇から「復帰」へ
しかし、そうして選びとった仕事も、すでに記したとおり、彼女はあの1984年の電撃的な引退劇で手放してしまう。20年間自分を拘束してきた世界からも解放され本名の北村春美としての生活が始まった。平穏な日々が続いた。
だが、ことあるごとに「復帰はありません」と繰り返していたコメントをある日、彼女はくつがえす。
1990年5月10日、NHKホールを埋めつくした人々が、いや、日本中のファンがこの瞬間を待ち望んでいた。この日、正式に都はるみは復活した。
都 人間って、過去のことを引きずりながら生きてかなきゃいけないんだけれど、私はすぐに忘れちゃう。前しか見えない。ホントにそういう性格なんですよね(笑)。だから目の前のものも捨てることができる。で、捨ててもついてくるんですよ。捨てれば捨てるほどついてきちゃう、だから捨てがいがあるんですよ。
そしてついてこないものはホントに捨てていいものなんだと思う。そうやっていったら前へ前へと進めると思うんですよね。
正直な方である。彼女の口から何度かこぼれたのが「わがままですから」という言葉だったが、たしかにわがままな生き方ではある。先の復帰に関しても批判は多かった。彼女だってそれは認めている。だが、わがままな生き方ではあるが、これだけ自分の気持ちに正直に生きている人もいないのではないか。
それはいってみるならば、前進するためにいまの自分を否定していく厳しい人生の連続であった。
実際、電撃的な引退劇、それは歌手都はるみの幕を引き、そして現在「歌屋」として新たに羽ばたいている都はるみの誕生を意味していた。
都はるみ商店という歌屋
「歌屋 都はるみ」(有田芳生著・講談社刊)にはこんな一節がある。
「歌屋」──それは二十年間歌いつづけてきた都はるみと一人の女性である北村春美が一体となりうる唯一の職業だった(第6章242ページ)。
歌手ではなく歌屋。商店街の八百屋や魚屋と同じ屋号。職業はときかれたら彼女は「歌屋」と答えるという。
都 ええ、都はるみ商店という歌屋だと思っていますから。歌屋ってことはね、うたう歌にジャンルなんかないんですよね。都はるみワールドの中にはいろんな商品があってもいいんじゃないですか。それをいちいち演歌だ何だってね、ジャンル分けすることは意味がないと思うし、またされることはイヤですね。
「歌屋」として復帰してからの彼女は大きく変わった。それはこんな告白にも如実にあらわれていよう。
運命と、ドロドロした女の血と
都 よく、舞台の上で死ねれば本望、とかいいますけど、私は、そういう言葉が大キライだったんですよね。冗談じゃないと。でもいまはそれもわかるような気がする。母のお腹の中にいるときからきっと歌い手になるようにできていたのかなあって、ちょっとおこがましいですけど、思っているんです。私の職業は歌手だけ、最初からそういう運命だったのよって、いまやっと納得できるんです。まあ、そう納得しないとまたやめたくなったりするからなのかもしれないけれど(笑)。
復帰してから、男だ女だって分けるのはおかしい、私は人間なんだ、なんてけっこう偉そうなこと言ってた時期があるんですよ生意気にも(笑)。でも最近はそうは考えないんです。やはり人間の女として生まれてきたことを意識するんですね。その血はどんな年代になっても流れている、明らかにドロドロした女の血が流れているんだってね。
そんな私の思いをわかってくれる作詞家といま出会いたいんですよね。ホント、自分で作詞ができないのがもどかしいんですよ。
未来へのエネルギー
穏やかで優しい雰囲気を醸しながら圧倒的にポジティブな気、でその場を満たす。とても華奢なこのカラダの一体どこに、そんなエネルギーがひそんでいるのか。5年ぶりの日生劇場でのロングコンサートでは、彼女の過去、現在、そして未来をテーマに、熱唱という形でその気が放射される。
都 未来なんて誰にもわかんないんですからねえ。ただ、先ほども言ったように安定だけを望む生活はしたくないんで、いつも切羽つまった生き方をしていればどんなカベにも突進していけるかなって思っています。いつも崖っぷちにいたいんですよ。きっとこんなこと30代には言ってなかった。40代も後半だから言えるのかなあ。あと何年できるかなあ、そんな生き方。1年でダメかもしれないけど(笑)。できる限り挑戦していきたいですね。
「こんな人生、参考にもなんにもならないでしょ」
謙遜気味に彼女が言った。確かにそれは当たっていた。決していまの自分に安住しないその生き方は、そうそうたやすくマネできるものではないからだ。

都はるみさんのこの1996年のインタビューから2年後の1999年、出演した映画が公開されています。井筒和幸監督の歌謡コメディ映画『ビッグショー!ハワイに唄えば』。
出演はほかに室井滋、尾藤イサオ、加藤茶、大森南朋、原田芳雄、竹内結子、山本太郎、武田久美子、久米宏、久米明…。って、すごい出演陣ですね。
都はるみ 年譜
1948年2月22日、京都市上京区に生まれる。本名・北村春美。幼少の頃から歌がうまく、1963年、高校1年でコロムビア歌謡コンクールで優勝。デビューのため上京する。
1964年、都はるみとして「困るのことョ」でデビューする。「アンコ椿は恋の花」が大ヒット、日本レコード大賞新人賞に輝く。同名映画にも出演し一躍スターに。
1965年、「涙の連絡船」大ヒット。紅白歌合戦に17歳の最年少で初出場。以来、1984年の引退(のちに活動再開)まで連続20回出場を果たす。1968年「好きになった人」がミリオンセラーに。
1974年、NHKホールにてデビュー10周年記念のリサイタルを開催。1978年、大ヒット曲「北の宿から」で日本レコード大賞・日本歌謡大賞をともに受賞。
1980年、「大阪しぐれ」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞、レコ大史上初の三冠王を達成。1982年離婚。1983年『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』にマドンナ役で出演。
1984年、紅白歌合戦の「夫婦坂」をラスト唱に引退。1987年より音楽プロデューサー活動開始。1989年、紅白で「アンコ椿は恋の花」を特別にうたう。翌1990年、歌手復帰宣言。
1991年、「小樽運河・千年の古都」を発表。全国ツアーのかたわら熊野神社、三里塚、WOMAD91横浜で野外ライブにも挑戦し、日生劇場ロングコンサートも大成功。
1994年、デビュー30周年コンサートツアー。平安建都1200年祭として京都上賀茂神社で野外コンサート。大変な盛り上がりをみせた。
1996年、「もういちど・アジア伝説」発売。
2005年、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2010年、紫綬褒章を受章。

pink1996年11月号掲載記事を再録です