蔵出しインタビュー/高田文夫が語る【三木のり平】芸ごとの神様!

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館理人
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三木のり平さんは、俳優、コメディアン、演出家。1900年代にエンタメ界を駆け抜けたエンターティナー。1999年に74歳で亡くなりました。

館理人
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この蔵出し記事は、三木のり平さんと親交のあった高田文夫さんが、三木さんの追悼記事用に応えてくださった時のものです。ですので1999年時。

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三木のり平さんがどんなエンターティナーだったかがよくわかる内容です。

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三木のり平・プロフィール

みき・のりへい 本名=田沼 則子(たぬま・ただし)
1925年、東京生まれ。
日大芸術学部卒業後にNHKラジオ「日曜娯楽版」に出演するかたわら舞台で活躍し、アチャラカ史を代表する名作コント『最後の伝令』「玄治店」は特に有名。
映画は、『無敵競輪王』(1950年)で初出演し、『へそくり社長』(1956年)をはじめとする『社長』シリーズ『駅前温泉』(1962年)から始まった『駅前』シリーズなどの喜劇から、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞した『香華』(1964年)、『犬神家の一族』(1976年)などの『金田一』シリーズ、今村昌平監督の『ええじゃないか』(1981年)、『女衒』(1987年)、『黒い雨』(1989年)、などのシリアスものまで幅広く出演した。また、晩年は『放浪記』などの舞台演出も手掛け、1991年には菊田一夫演劇賞を、1994年には読売演劇大賞を受賞。
桃屋のCMでのアニメーションキャラクターとしても親しまれた。1999年1月25日、74歳で死去。

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高田文夫さんのコメントのみで構成したインタビュー記事となります。ではどうぞ!

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高田文夫が語る、三木のり平

(取材・構成 轟夕起夫)

「よく遊んでもらってたんですよ」

 ここ2年くらい、よく遊んでもらってたんですよ、気が合うってんで。お酒飲みにいってね、二人してカラオケで五木ひろし唄ったり。ほら、のり平先生、五木さんの舞台演出も手がけてたでしょ……よく唄ったなぁ。

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しつこいようですがもういちど! このインタビューは1999年に行われたものです。ご承知おきくださいませ。

「ずーっと尊敬してたんだよね」

 物心ついて、最初に好きになった人がのり平先生。それからずーっと尊敬してたんだよね。ガキの頃、『雲の上団五郎一座』の十八番、八波むと志さんとコンビを組んだ「玄治店」げんやだなをテレビ中継で観て。この世にこんなに面白い人がいるんだ、って驚いた。

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「雲の上団五郎一座」とは、1962年公開の映画で、テレビで放送された舞台でもあります。旅一座の劇中劇と、旅先のドタバタを描いたコメディ。

 あと色気がね、子供心にカッコイイなあって。身のこなしとか、男の色気がプンプン出てて。あれは勉強して出せるものじゃあない。やっぱり生まれ育ちが花柳界、色街だからさ、自然に匂ってくるんだよね。

 いつまでも昔の東京の匂いがする……居るだけで三味線の音色が聴こえてきそうな、オツで粋な方でした。

「玄治店」は、ボケの切られ与三郎とツッコミの蝙蝠安こうもりやすが繰り広げるお笑いの古典なんだけど、与三郎役ののり平先生が、もう自在に動くんだよね。やるたびに毎回ボケが違ってた。

 映画『雲の上団五郎一座』(1962年)にダイジェストで収録されていて、雰囲気だけは感じることができるかな。完璧にはやってないからね。いやあ、与三郎と蝙蝠安、ふたりのカラミを初めて観たときは、次の日までハラ痛かったもん(笑)。あんなに笑ったことないもんなあ、ホントにいままでさ。

「マスコミの評価があまりに低すぎた」

 戦後の喜劇史というと、必ず森繁(久彌)さんから記述が始まるでしょ。オレは違うと思うんだな。のり平先生がいちばん偉いと思うんだ。だから以前、雑誌「東京人」で“東京の喜劇人”の企画・編集をやったとき最初に登場していただいたんだよね(のちに単行本「江戸前で笑いたい」に採録)。

 対談集「笑うふたり」(中央公論社)にもどうしても入ってほしかった。照れ屋で、取材とかあまり受けない人だったから。

 晩年、対談に出るなんて珍しいことではあった。どうしても記録に残しておきたかったんだよね。マスコミの評価があまりに低すぎた。あの飄々とした軽さの良さがわかんなかったんだ。普通、歳とったらもっと重くなるのにストーンとね、最後まで重厚感のまったくないあの素晴らしさがわからなかったんだなあ。今頃になって資料がない、って言ってもあとの祭りだよ。

 最後の舞台は、別役実さんの戯曲「山猫理髪店」。俳優座に観にいって、終わってから飲んでたの。そうしたら偶然、のり平先生もそこで打ち上げで飲んでてね。言われたよ。「これ、コントじゃないんだから。新劇だよ。観にくんじゃないよ、難しすぎるから、別役実の芝居なんて、お前にはわかんないだろ」って。可笑しいんだよ、言い方が(笑)。江戸っ子らしい、そんな愛情ある言い方をするんだな。

「のり平先生だからできること」

 じつに多才な方だったからね。別役さんとは「はるなつあきふゆ」もあった。たまたま最後が別役さんの芝居であって、それも“三木のり平”を語るうえでのひとつのパートでしかない、とオレは思う。それだけ芸の引き出しがあった人だから。でも腹ン中ではやっぱりアチャラカ、やりたかったんじゃないかなあ。舞台でアチャラカをね。

 昔っから台本見ないし台詞を覚えない。同じことを二回言えない人だった。人間、朝起きたら昨日と考え方も喋ることも違うじゃねえかと。だからアドリブで作ってくんだよ、と。非常に正しい理論だと思うよ。そのほうが新鮮だし、相手のリアクションも引き出せるし。わざと違うこと言って、相手の驚く顔を引き出す。ま、のり平先生だからできることなんだけどね。

「構築しているものをポンと壊してしまう」

 そういう人だから、映画は大キライだって言ってたよ。ウンコだって。一度出しちゃったものを観るバカが、どこにいるかって。やっぱり舞台人なんだよな、ナマで舞台の上で客前で毎日やっていたいんだ。映画の話するとイヤがってました。

 個人的にはやっぱり『社長』シリーズなんか好きでしたよ。のり平先生が出て来て一言「パーッとやりましょ、パーッと」って云うと、画面全体がパアーっと明るくなって、しかも妙にグチャグチャになるでしょ。ああいうの可笑しかったよね。

 昔、NHKで「若い季節」ってTVドラマをナマでやってたんだけど、みんながちゃんと芝居やってるのに出てきた途端、やっぱりメチャクチャになってた。ときめくんだよな、のり平先生が出てくると。何か違うことが起きるぞ、って。イタズラを仕掛けるっていうか、やんちゃ小僧だね。みんなが構築しているものをポンと壊してしまう……あれがスリリングだった。

「芸ごとの博物館、いや神様、芸神だね」

 で、コメディアンとしてスゴい人だったんだけど、同時に演出家としてもスゴかったんだ。役者さんに全部自分でやって見せちゃってさ。だから「のり平先生」なんだ。

 もともと日大芸術学部で美術やってたんだよね。演劇じゃなくて。あっ、日芸といえば、それでオレも入ったんだ。どうしても後輩になりたくて(笑)。お葬式のときにも飾ってあったけど絵も上手かったね。有名な桃屋のCMのキャラクター、あれも自分で描いてたんだな。全部自分でやるからね。喋りから何からまで。それで日本演劇史上最長記録、森光子さんの「放浪記」の演出だろ。こんな人、二度と出ないよ。

「歌舞伎、能、狂言、落語……すべてがカラダに入っていた」

 ……死に顔はね、キレイでしたよ。最後まで役者だったね。ちょっと笑ってんだよ。見栄切って、どうだい、いいカタチだろ、って。息子さんの則一(のりかず)と、焼くの惜しいね、なんて言ったりして。それでちょっとつっついたりなんかもしてさ (笑)。最後まで、「カタチがいい」んだよね、江戸っ子で言うところの。スーっと舞台を歩くだけの、その動きのカタチがじつにイカしてた。

 とにかく芸ごとで、知らないことがなかったからね。歌舞伎、能、狂言、落語……すべてがカラダに入っていた。サーカスの演出もやってたよ。大衆芸能の博士だよな。(古今亭)志ん朝師匠もお通夜のときに言ってました。「身振り手振りで教わった」って。師匠の「文七元結」を観ると、のり平先生の“カタチ”が入ってるからね。(中村)勘九郎さん(のちの十八代目中村勘三郎)もいろいろ教わったって。落語と歌舞伎、現代の名人二人にのり平先生の芸が継承されている。

 ハンパじゃないよね。芸ごとの博物館、いや神様、芸神だね。ホントにスゴイ人をなくしちゃったよねえ。

轟

キネマ旬報1999年4月上旬号掲載記事を改訂!

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そんな三木のり平さん、ご子息の著作「何はなくとも三木のり平: 父の背中越しに見た戦後東京喜劇」が刊行されましたヨ!

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