蔵出しロングインタビュー【中村勘三郎】シネマ歌舞伎とエンタテインメント論

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Photo by Matt Artz on Unsplash
館理人
館理人

2012年に57歳の若さでこの世を去った十八代目 中村勘三郎さん。その4年前、2008年に行われたインタビュー記事を復刻です。

山田洋次監督と中村勘三郎さんとのコラボで生まれたシネマ歌舞伎2本が公開されたタイミングでした。

中村勘三郎さんが追及したエンタテインメント、そのルーツと姿勢が見える激アツインタビューです。

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中村勘三郎・プロフィール

中村勘三郎(18代目)
1955年5月30日ー2012年12月5日。
東京都生まれ。十七代目中村勘三郎の長男。
1959年、五代目中村勘九郎を名乗り初舞台。以降、圧倒的な芸の力で観客を魅了する名優に。2005年に十八代目中村勘三郎を襲名。伝統を守りつつ、多ジャンルに挑戦、活動の場は海外へと広がっていった。

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中村勘三郎・インタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

 どのジャンルにも「ああ、この人と同時代を生きることができて良かった!」と、心底感じさせてくれる人物がいる。歌舞伎界、そしてエンタテインメント界の至宝、十八代目中村勘三郎もそんなひとりだ。

 伝統を大切にしながら慣習にはとらわれず、21世紀の演劇家として「歌舞伎の新たな可能性」を模索し続ける生き方。

 旺盛なその活動力は、脱領域的に数々の才能と交流を結んできたが、これから劇場公開されるシネマ歌舞伎『人情噺文七元結にんじょうばなしぶんしちもっとい』では、かの山田洋次監督との初の共作が実現した。

山田洋次監督への依頼

中村 人との出会いと運……これに自分はホント、支えられているんですけどね。今回の『人情噺文七元結』の成り立ちもそう。『隠し剣 鬼の爪』のプロモーションで山田監督がニューヨーク国際映画祭に訪れた際、たまたま、そこで上映されていた『野田版・鼠小僧』を御覧になり、シネマ歌舞伎に興味を持たれたんだそうです。

館理人
館理人

『野田版・鼠小僧』は2003年8月、歌舞伎座で大ヒットとなった野田秀樹演出、中村勘三郎主演の舞台を収録した「シネマ歌舞伎」です。

帰国した監督にお会いして、「ぜひ、今度やります『文七元結』を撮ってください」って、お願いしちゃった俺は相当図々しいんだけど(笑)。山田監督は快諾してくださった。『かあべえ』の撮影が終わって、運よくスケジュールが空いていたんだね。とまあ、とんとんとんと実に上手くコトが運んでいったんだ。

山田洋次監督の歌舞伎演出

山田監督は、歌舞伎『文七元結』の補綴(台本改訂)を自ら行い、演出に挑んだ。2007年10月、新橋演舞場での公演のうち、千穐楽を含む3日間を撮影、最新HDカメラ8台を駆使した。ちなみに『文七元結』の主人公・長兵衛は、“勘九郎”時代から演じている馴染みの役だ。

中村 100年後、いや半永久的に残るわけだから、有難さと共に怖さもある。しかも舞台はナマだから映画とは違って、消えていく良さっていうのもあるじゃないですか。冒険ですよね。何だかいろんなことを感じましたよ。一緒に時間を共有した、劇場で泣いたり笑ったりしてくれたお客さんの熱気も映っている。観客の息遣いまでも撮って残していくっていうのは新しい試みですよ。それからラストの展開は最初、違和感があったんですね。自分でやってるのとも、うちの親父(十七代目勘三郎)のものとも違う。長兵衛がなかなか事の次第に気づかない。大ボケ過ぎているけど、いいんだろうかってね。でも完成作を観たら、こういうことだったのか、とビックリしましたよ。自分の姿を映像で観て、笑ってしまうなんて、(明石家)さんまちゃんみたいだけど(笑)。いや、本当に笑っちゃったの。こいつ馬鹿だねえって。ありえない馬鹿……そう、寅さんみたいだった。山田監督の頭の中でちゃんとコンテがつながってたんだろうね。ワザとらしくないんだ。中村屋の『文七元結』は以後、この演出でいこうって決めました!

コクーン歌舞伎、平成中村座、海外公演

 3才11ヵ月で中村屋の屋号を背負い、名優と呼ばれるまで縦横無尽に走り続けてきた。変わらぬこだわりは、現代を生きる歌舞伎俳優にとっての理屈抜きの面白さ。1994年、渋谷シアターコクーンにて、古典歌舞伎を再構成、新演出を施す「コクーン歌舞伎」をスタートさせた。

館理人
館理人

「コクーン歌舞伎」は若者の街・渋谷にある劇場シアターコクーンにて公演される歌舞伎のこと。

古典歌舞伎の演目を新たな演出で上演。石野卓球や、椎名林檎といったミュージシャンの楽曲を使用したり、20トンの水の入ったプールを設置した大立ち回りなどが話題となった。

2012年以降は隔年で開催されています。

 さらに2000年からは「平成中村座」が。2004年には海を渡って、ニューヨークのリンカーンセンターに「平成中村座」の芝居小屋は建っていた。もちろん初めての試み。演目は十八番の『夏祭浪花鑑』。9日間の公演で、ラストは日本での趣向をアレンジし、舞台奥の壁が取っ払われるや、逃げる団七と徳兵衛を取り囲んだのはニューヨーク市警の警官役数名。「フリーズ!」と銃を突きつける奇想で、あっと驚かせた。

館理人
館理人

「平成中村座」とは、江戸開府&歌舞伎400年の節目2000年に、浅草に仮設劇場として小屋を設置し初演された歌舞伎公演のこと。

以降、劇場を移しつつ「平成中村座」と冠した公演が行われ、中村勘三郎さん亡き後も不定期で開催されています。

中村 19才のとき、アングラ演劇の鬼才・唐十郎さんのテント芝居に心揺さぶられた。『蛇姫様』という書き下ろしの舞台で、江戸時代の歌舞伎ってこうだったんじゃないかなって思えるような、猥雑なエネルギーに満ちていて、得も言われぬ感動とショックを受けたんですね。そのときの原体験が「平成中村座」につながっていった。『夏祭浪花鑑』のラストはもともとは、偶然の産物だったんですよ。舞台稽古のときに後ろの壁が開いて、搬入トラックが突っ込んできたらスタッフ、キャストみんながギャーって驚いて、これは面白いぞと思って。そこからパトカーを出そうってことになった。ニューヨーク公演は別バージョンで、場所によっていろいろアレンジしています。それから、『三人吉三』の大詰めで雪が降るでしょ。裏を明かせば、綱元の職人さんが間違えて降らせちゃったのが面白くて、毎回やることにしちゃった。不測の事故というか、芝居の神様が降りてきたのかな。

面白いと思ったことは、何でもやってみたほうがいい。歌舞伎俳優にもいろんなタイプがいて、型から入る人もいる。でもうちの親父は「型なんかどうだっていい。役になりきっていれば逆立ちしようと何しようと構わない」って教えを授けてくれた。それは有難かった。逆をいえば難しいんですけれどね。……創意工夫が。

十七代目中村勘三郎の背中

 十七代目勘三郎は、生涯に800以上の役を勤め、ギネスブックにも登録されている巨人。初代勘三郎は1598年、慶長3年に生まれたとされている。脈々と受け継がれきた中村屋の歴史。

 山田洋次監督はもう1本、そのかけがいのない歴史を記録するシネマ歌舞伎を撮り終えている。歌舞伎舞踊の人気演目のひとつ『連獅子』。十八代目勘三郎と長男・勘太郎(現・六代目勘九郎)。次男・七之助との共演が観られる!

中村 かつて『連獅子』で子獅子だった頃、うちの親父の背中を見ながら舞台に出ていってたんですよ。ところが親父が亡くなって(=1988年)、今度は俺が親になって、子供に背中を見せるとき、ぞっとした。震えましたね。初日。忘れもしない。ガタガタガタって。あれはね、俺の人生まるごと、子供が見ている怖さでした。子に背中を見せるっていうのは大変なこと。今はもう大丈夫だけども。親獅子になると、違った風景が見える。やっぱり心配なんです。子獅子が自分の後ろに下がると。まだ年端がいかないからね。うちの親父もきっとそういうふうに俺のことを思ってくれてたんじゃないかと想像したし、お客は親獅子ではなく、ほとんど子獅子のほうを見ているんだなあってことも立場が変わって初めて分かった(笑)。

これは息子たちが親になり、『連獅子』をやるようになったときに、継承されていく気持ちなんだろうね。あとフシギなのは、うちの親父が足をポンと踏む微妙な間、息子たちには教えていないのに同じ“間”で足を踏むんだな。DNAのスゴさだね。気持ち悪いくらい(笑)。しかも今回は三人で踊る連獅子。でも合うんですよ。ちょっとビックリした。“毛振り”も3人ともピタっと合ってますからね。自分で言うのもヘンだけど、あんなに合うのはうちだけです。俺を通して、うちの親父の“間”を子供たちが踏襲している。それを山田監督が撮ってくれた。しかも舞台に上がってカメラをグっと寄せて。このシネマ歌舞伎も画期的なものになってますよ。

六代目尾上菊五郎の記録映画

 映画は歴史を記録し、記憶していく装置。実はこんな興味深いエピソードもある。勘九郎時代、十七代目勘三郎と初めて『連獅子』を踊ったのは1969年のこと。翌年、その稽古の様子を映画で撮影したのだが、しかし残念ながら、手違いで全てが消えてしまったのだという。さらに映画をめぐってはこんな逸話も──。

中村 うちのおじいさん(=六代目尾上菊五郎)がね、まだテレビのない時代、昭和10年(1935年)に小津安二郎監督……日本が世界に誇る巨匠にお願いして、今でいうとコラボレーションですかね、小津さんに『鏡獅子』の記録映画を撮ってもらってるんです。フィルムは現在も残っているんですが、六代目のおじいさん、撮り終えて、その完成作を観て、初めに言った言葉は焼き捨ててくれ、だったそうで(笑)。きっと、おじいさん、自分の顔を観るのがイヤだったんだと思います。僕も自分の出ているものを観るのはあんまり好きじゃない。でも今回は、どういうふうに撮ってるんだろうって興味がある。普通には撮ってないんだろうなっていうね。それが楽しみ。ただの記録映画じゃない。山田監督の思いが入っているはずだからね。

 2007年は、3年ぶりに「訪米歌舞伎ニューヨーク・ワシントン公演」を行った。破戒僧の法界坊が活躍する『隅田川続悌』では、英語のセリフも取り入れた。コクーン歌舞伎、平成中村座、シネマ歌舞伎……新たな試みは続く。

希代の才能たちとのマッチアップ

中村 目新しいことがしたいってわけではないんです。むしろ、古くに戻りたい気持ちのほうが強い。つまりは歌舞伎の根源に戻る。根本に返りたい。だから平成中村座もそうなんですよ。もっと昔の、純粋に娯楽だった時代に戻ってみようっていう旅なんです。その場所がニューヨークであるだけでね。海外公演は、わりとウケてくれているからいいけれど塀の外ではなく、中のほうに落ちてしまったらアウト。いつも綱渡りみたいなことをやっている、今のところは運がいいのかな。台本ももっと古いものにこだわりたいが、同時に、「今、生きている才能」とも出会いたい。野田秀樹みたいな人とモノ作りができるのは、とても楽しいね。

 希代の才能たちとのマッチアップは続く。2007年のニューヨーク公演では、西川美和監督と出会った。これがきっかけで、彼女の新作映画『ディア・ドクター』に出演することとなった。


中村 いいよねえ、西川監督。『ゆれる』って映画が好きだったんです。

初対面だったんですが飲んだ席で、今度、過疎地の医者の話を書くんですって話してくれて、「面白そうですねえ」なんて言ってたら、アテ書きで外科医の役をお願いされて、主役が鶴瓶ちゃんだっていうから、一も二もなく「出る!」って。西川監督、ニューヨークで初めて観て、「歌舞伎にハマった」って。嬉しいですね。そうやって出会いが広がっていく。

十八代目中村勘三郎の流儀

 2008年5月には欧州公演(ベルリンとルーマニア)を敢行。「いつか海外の演出家に歌舞伎の演出をやってもらいたい」とも言う。 中村勘三郎は、エネルギッシュに活動を続ける。

中村 失敗するかもしれないけど、やってみたい。たとえば今は三味線は、いわゆる古典の楽器として当たり前だけど、江戸時代、歌舞伎に最初に三味線を入れたときは、ブーイングされたんです。でもそうやって変わってきた。ギターが江戸時代にあったら絶対使ってると思うな。歌舞伎俳優って貪欲だからね。その精神は忘れたくない。のるかそるか。その繰り返し。やってダメだったらゴメンなさいって言って、後ろ向いてべ口を出す(笑)。このしたたかさもないとね。怖がって、やらないよりは挑戦する。これが今の俺の流儀かな。

轟

ぴあ2008年10月23日発売号掲載記事より