清水次郎長を描いた1950年代の映画『次郎長三国志』シリーズが今も人気! アマゾンプライムビデオなど動画配信サービスでも観ることができます(2020年6月現在)。
再評価のきっかけとなった2011年のDVD-BOX化では、ジャケットイラストを「ONE PIECE」の漫画家尾田栄一郎が、題字をスタジオジブリの鈴木敏夫が担当しています。
森繁久彌はこのシリーズで大スターに!
レビューをどうぞ!
音楽的躍動感あふれるエンタメ時代劇に作り変えたマキノ雅弘監督の演出
義理にゃ弱いが喧嘩には強い“東海道の暴れん坊”こと、次郎長親分のもとに集ったのは、大政、小政、法印大五郎、桶屋の鬼吉、関東綱五郎、大野の鶴吉、そして森の石松といった個性豊かな子分たち。
この清水港の「次郎長一家」の物語は、何度となく映画の題材になってきた。それをマキノ雅弘が「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声も楽しい、音楽的躍動感あふれるエンタメ時代劇に作り変えた。
清水次郎長は実在した人物です。
冒頭から広沢虎造のソウルフルな浪花節がフィーチャーされる「次郎長賣出す」を皮切りに、ストーリーは基本、明朗快活なタッチで進んでいくのだが、時にメロウな男と女の機微を盛り込んでマキノ監督は、どのキャラクターも自分色に染め上げていった。
虚実混合で語られていた清水次郎長の物語を、浪花節に変換しエンターテイメントとして物語ったのが、浪花師、2代目広沢虎造。これがラジオから人気が出てブームにもなりました。
広沢虎造の浪花節「清水次郎長伝」は今でも人気!CDやストリーミングでも聞くことができますヨ。
とりわけキャラが立ったのは、森の石松。当時はまだスターではなかった森繁久彌が自ら「ぜひ演じさせてほしい」とアプローチし、それに応えてマキノは、数々の名シークエンスを用意した。
言うなれば峰不二子的な女侠、妖艶なお仲(久慈あさみ)と石松が酒場でデュエットする第三部『次郎長と石松』は、マキノ節の見本市だ。
あるいはマキノ節の真骨頂は、第六部『旅がらす次郎長一家』で妻・お蝶が病で死んでゆく場面とも言える。床に伏せたお蝶が、次郎長一家のひとりひとりに声をかけていく。
ところが法印大五郎だけはなかなか声がかからず、ヤキモキする。そこでそうやって一回笑いを入れてからギュッと一挙に泣きに持っていく呼吸が見事!
マキノが森繁のために脚本を書いた、オリジナルな番外編、第八部『海道一の暴れん坊』も傑作の誉れ高い。
お蝶の法事を終えた次郎長から、愛刀を讃岐の金比羅様へと納める役を仰せつかった森の石松。だがその帰途、吉兵衛一味の闇討ちが待っていた……マキノ自身が「石松開眼」というタイトルを付けようとしたとおり、隻眼の石松は最後、無念ながら片目が開いて死んでゆく。
情感に裏打ちされた斬新な演出。そして緩急自在の語り口の上手さ。それこそがマキノ節と呼ばれるものだ。
シリーズを支えた敏腕スタッフ
マキノ曰く「あの写真は、裏方も役者も、寄せ集めでしたね」ということだが、『次郎長三国志』シリーズの成功は、豪華なスタッフワークの賜物でもある。
まず序盤、第一部と第二部は、原作者の村上元三がアクション物の名手・松浦健郎と共に脚本に名を連ね、第三〜七部の構成は、マキノとは戦中からの仲、黒澤明監督とのコラボでもお馴染みの小國英雄が担当した(ただし、ほとんど何もしていなかったらしいが……)。
以下、カッコ内の数字はシリーズ第何部かを示す。
撮影は『無法松の一生』『野盗風の中を走る』など稲垣浩監督とも名コンビだった山田一夫(1〜4、9)、『日本一の若大将』『ニッポン無責任野郎』の飯村正(5〜8)の2人。
音楽は鈴木誠一で、マキノの妻であった轟夕起子主演の『ハナ子さん』の主題歌、「お使いは自転車に乗って」を作曲したりした、流行歌の世界でも知られる才人だ。
美術がまた、いいメンバーが集結した。成瀬(成瀬巳喜男監督)組で知られる中古智(1〜2)。戦争特撮映画や『ゴジラ』シリーズと、円谷プロとの仕事が多かった北猛夫(3〜7)。
市川崑監督や岡本喜八監督との諸作に参加し、そればかりか日本の曲芸や軽業の興行の研究家でもあった(小学館より「逆立ちする子供たち–角兵衛獅子の軽業を見る、聞く、読む」を出している!)阿久根巌(4)。
さらに『社長道中記』や『江分利満氏の優雅な生活』の浜上兵衛(5〜7)、北猛夫の弟で、後に『空の大怪獣ラドン』『吼えろ脱獄囚』ほかを手がけた北辰雄(8〜9)も。
特筆すべきは、第八部までチーフ助監督で就いた岡本喜八だ(第四部までは本名の「喜八郎」名義)。
マキノは撮影前、脚本が気に入らないと徹頭徹尾、書き直した。むろん、改変するのはいいのだが、その字は乱筆で崩されており、判読するのに一苦労であった。それを現場で見事にこなしていたのが岡本喜八である。
岡本は、他の助監督から「どうもマキノさんのセリフが分からない、通訳してほしい」と頼まれもした。
例えば「アコでアレが御用をバッと斬るやろ」と代名詞がやたらと多く、マキノの独特の感覚を日頃から掴んでいないと、とても把握するのは無理だった。
撮影前に、脚本をどう変えるか口頭で伝えてくる場合もあり、すべてを整え清書して渡し、翌朝、再びマキノからナメクジの這ったような字で手を入れたものが返ってきて、岡本はもう一度清書し直し、その写しをスタッフや出演者に配布、そうしてやっと午後から撮影は始まった。
それでも一日分、撮りきってしまうところがマキノ雅弘のスゴさで、岡本は単なる風景カットではなく、時に芝居場のシーンの撮影も任されたそうだが、つまりは「いかにマキノ組のペースは早かったか!」という話である。
映画秘宝2012年1月発売号掲載記事を改訂!
鈴木敏夫氏による熱い『次郎長三国志』語りのインタビュー記事もどうぞ!