『仁義なき戦い』シリーズ、『バトル・ロワイアル』シリーズ。ほかにもたっくさんあります、深作映画。デビューからの軌跡を辿って、監督・深作欣二を解説です!
深作欣二(ふかさくきんじ)は1930年7月3日茨城県生まれ。1953年に東映に入社し、1961年に『風来劫探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。
1973年にスタートした『仁義なき戦い』シリーズで映画界に旋風を巻き起こしました。その作風は、海外の監督にも多大な影響を与えています。2003年1月12日永眠。
『仁義なき戦い』シリーズについては、こちらで解説記事があります!
では監督語り、レビューをどうぞ。
敗戦の体験
はじめに。仁義なき戦い=バトル・ロワイアル (大乱戦)。深作欣二監督の映画を端的に表わすならこれだ! 逆に言えば、この世には“仁義ある戦い”など、ないに等しいということ。それは彼のカラダに刻まれた、こんなエピソードが物語っている。
太平洋戦争末期。地元・水戸の軍需工場にかり出された14歳の皇国少年は、米軍の艦砲射撃により学友たちが吹っ飛ばされるのを目撃、無数の遺体を片付けた。
そして翌年には敗戦を経験、“仁義ある戦い”が1日にして無為なものになり果てていくのを見た。偉そうな物言いをするヤツラが信じられなくなった。反骨の魂はそのとき生まれた。
世界は“仁義なきバトル・ロワイアル”だらけ。では人は一体どうすべきなのか。残念ながら戦うしかないようだ。仁義があろうがなかろうが、戦いは戦い………深作欣二はそうしてきた。
彼の軌跡を駆け足で追ってみよう。
監督デビュー
監督デビュー作は1961年の中篇『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(『風来坊探偵 岬を渡る黒い風』と2本撮り)。ここからすでに理不尽な戦いは始まっていた。
『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』は…
風来坊探偵の西園寺が、セスナ機で墜落死した社長の本当の死因を調査するため赤岩岳山麓の村にやってくる!
小林旭主演の人気作、日活無国籍アクション『渡り鳥』シリーズのマネをしろ、と会社に命じられたのだ。
『渡り鳥』シリーズは無国籍なタッチのアクションドラマ!
何たる屈辱。だが深作は腐らず、当時売り出し中の千葉真一を主役に抜擢し、ウィンチェスター銃を操らせて、小気味のいい作品に仕上げた。
千葉真一とは続いて『ファンキーハットの快男児』(またもや『ファンキーハットの快男児 二千万円の腕』と2本撮り)でも組み、こちらはジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』に衝撃と影響を受けて手持ちキャメラを使用、”東映ヌーヴェル・ヴァーグ”とでも名づけたい快テンポの青春活劇を生み出した。
『ファンキーハットの快男児』は…
探偵もののアクションドラマです。
ヌーヴェル・ヴァーグについてはこちらで解説記事があります!
この1961年は5本目にして初の長編『白昼の無頼漢』も手がけた。
主人公(丹波哲郎)が、アメリカ人、韓国人、黒人兵、混血少女らを集め(足を引っ張りあいながら)米軍基地へと向かう現金輸送車を襲撃する物語ゆえ、いまでこそ人種混交バトル・ロワイアル的傑作と認められているが、当時興行的には惨敗、まだまだ一部に注目されるのみであった。
俳優・丹波哲郎については、こちらに記事があります!
1962年、鶴田浩二主演で武器ブローカーとCIAの暗躍にひとりの記者が迫っていく社会派サスペンス『誇り高き挑戦』を発表。
批評家筋に絶賛されるが、会社には不評を買い、『ギャング対Gメン』、1963年には『ギャング同盟』と、アクション方面に活路を見いだそうとした。
やがて、北海道を舞台に丹波哲郎と高倉健の対決が光る『ジャコ萬と鉄』がヒット、1964年、満を持して「野良犬同然に牙をむいて生きる主人公たちに感情移入していた」という『狼と豚と人間』に取り組む。
俳優・高倉健についての記事はこちらにあります。
スラム育ちの3兄弟(三國連太郎、高倉健、北大路欣也)が、食うか食われるかの仁義なきバトル・ロワイアルを展開! しかし映画はコケて、1年半ほど干されるはめに。
干されたあとの任侠映画
復帰した1966年、『脅迫(おどし)』『カミカゼ野郎 真昼の決斗』『北海の暴れ竜』の3本を経て、それまで避けてきた“任侠映画”にチャレンジする。
『北海の暴れ竜』は…
オホーツクの荒波を背景にした広大なスケール感で、ダイナミックなドラマとスリル、焼き討ち、闇討ち、ライフル乱射といったアクションが展開です。
深作は、着流しやくざの美学というヤツが好きになれなかったのだが、任侠映画ブームに押される形で、1967年『解散式』、1968年『博徒解散式』を作った。
刑期を終えて出所した昔カタギの渡世人 (鶴田浩二)が、近代化したやくざ社会に“否!”を突きつけるパターン。が、『解散式』ではドスで斬り合う背景に石油コンビナートを選んだりして、いわゆる“任侠映画”に反抗することをやめなかった。
また1968年は東映を離れフリーとなり、松竹で、丸山(現・美輪)明宏と三島由紀夫が競演する『黒蜥蜴』、松方弘樹を起用してチンピラの犬死を描いた『恐喝こそわが人生』を連発したかと思えば、東映で日米合作の子供向けSF『ガンマー第3号宇宙大作戦』も。ちなみにこれは、のちにクエンティン・タランティーノが来日した際、LDジャケを持参して深作にサインをねだったカルト作である。
1969年、松竹『黒薔薇の館』で再び美輪明宏を妖しく撮り、東映では『日本暴力団 組長』に着手。主演は鶴田浩二だったが、菅原文太との出会いを用意して、その勢いを加速させた。
俳優・菅原文太についての記事はこちらにあります。
新たなる飛躍の予感をはらみながら迎えた1970年、『血染の代紋』でスラムへの偏愛をまたも謳い上げ、独立プロでは石立鉄男と前田吟が反目し合う青春群像『君が若者なら』、黒澤明が途中降板した曰くつきの超大作『トラ・トラ・トラ!』にもB班監督で参加してフル稼働。
1971年の『博徒外人部隊』は、返還直前の沖縄を舞台に極限状況下のバトル・ロワイアル演出に磨きをかけ、1972年には自ら原作権利を買い取って、『軍旗はためく下に』を映画化。戦時中の上官謀殺の真相を探っていくという、言うなれば深作版『ゆきゆきて、神軍』でキネマ旬報ベスト・テンの2位にも輝いた。
そんな折、仁義なき殺戮の極致、連合赤軍による“あさま山荘事件”が起こる。一部始終をテレビ中継で見た深作は、任侠路線の限界を骨の髄まで感じ、今後は“美学”ではなく“悪学”を追求しようと心に誓う。
美学ではなく悪学へ
その実践が、菅原文太の荒らぶる魅力爆発の『現代やくざ 人斬り与太』と『人斬り与太狂犬 三兄弟』だ。
ここでのホップ&ステップを経て、1973年、『仁義なき戦い』で大ジャンプ。
『仁義なき戦い』シリーズとは
暴力世界に生きる若者の青春像を、戦後史を絡めて描いた傑作。荒々しい手持ちカメラで撮られた暴力描写に注目!
戦後の群雄割拠された広島にて、赤裸々な欲望、駆け引き、裏切り、報復合戦が生々しいバイオレンスとともに綴られていき、“実録路線”と銘打たれた当シリーズは大ヒットを記録、文太とのコンビはマーティン・スコセッシ監督とロバート・デ・ニーロのそれにも匹敵するものとなった。
また、無頼の徒、血気盛んな若者たちが縄張り争いに利用された挙句、のたうちまわって絶命するのがシリーズの常であったが、中から川谷拓三がジョー・ペシのごとく頭角をあらわした。深作映画はバイプレイヤーの宝庫だった。
1975年、『仁義の墓場』が完成。同じ水戸出身のやくざ・石川力夫の不可解な生涯を、不可解なまま叩きつけた。親分兄弟分、周りの人間を巻き添えにし、“妙ちくりんな地獄図”の、不幸の淵へと人を誘いこむ疫病神のようなこの男に深作はなぜか魅かれた(1994年『忠臣蔵外伝 四谷怪談』の主人公・民谷伊右衛門もそう!)。
破壊衝動とアナーキーさ
旺盛な創作意欲は止まらず、男泣き必至の『県警対組織暴力』や『資金源強奪』、1976年には、『暴走パニック 大激突』(1992年『いつかギラギラする日』の原型)、『やくざの墓場 くちなしの花』、さらに1977年『北陸代理戦争』『ドーベルマン刑事』と、その作風は破壊衝動とアナーキーさを増していった。
分岐点となったのは1978年。集団抗争時代劇『柳生一族の陰謀』『赤穂城断絶』、そしてあの『スター・ウォーズ』に先駆けた(というか出し抜いた)『宇宙からのメッセージ』。
大作が続き、いよいよ円熟期に突入かと思わせたが、器はそうでも、本質は何ら変わらなかった。上記3本が江戸版、はたまた宇宙版『仁義なき戦い』だったように、1980年、製作期間3年、約25億円をかけて、海外配給もされた『復活の日』も国際版バトル・ロワイアルであった。
『復活の日』は…
アメリカの細菌兵器により人類がほぼ全滅。わずかながら南極に逃れて生き残った人々の運命を描く近未来サスペンス。
原作はSF小説界の巨匠・小松左京。何しろ細菌兵器のために絶滅に瀕し、“氷の大陸”に閉じ込められたひと握りの人間たちのサバイバル物語なのだ。
メインとなる南極と、南北アメリカ大陸およびヨーロッパのロケを実現させ、日本とハリウッド の豪華キャスト(グレン・フォード、ジョージ・ケネディ、オリビア・ハッセー、ロバート・ボーン、ボー・スベンソン、チャック・コナーズら)を意のままに動かした。
続けて1981年『魔界転生』、1982年『蒲田行進曲』、1986年『火宅の人』と話題作に事欠かず、1990年代まであらゆるジャンルに挑んだ。
原点回帰の闘い
そうして2000年、国家を頂点に男と女、親子関係さえもが壊れた世界を描いた『バトル・ロワイアル』で原点回帰。パート2製作発表の場でがん告白したときもすごかった。「たとえこの闘いで生涯を終えようとも、私には一片の悔いもない」と檄を飛ばし、病魔により監督を全うできなかったが置き土産として予告編で、都庁を爆破していった!
深作欣二。常識破壊者。しかし、“仁義ある戦い”を続けた希有なカツドウ屋だった。
月刊スカパー!2003年7月号掲載記事を改訂!
関連記事のご紹介! 『バトルロワイヤル』を監督した深作欣二監督が、初期を振り返って語ったインタビュー記事、こちらにあります。