俳優語り【高倉健】ロマンやファンタジーを仮託できる特別な存在。劇場をライブ空間に変えてしまった希有なアクター

館理人
館理人

「高倉健主演作!」で大勢の観客を集めることができた大スター! 高倉健の出演作をピックアップして、その役者人生をざっとご紹介です!

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長い不遇の時期から、敵陣に殴り込むやくざ役で光明をつかむ

 その人が出ているだけで作品が成立する。そしてたくさんの観客が集まる。それがスターの基本的な条件だが、スクリーンに向かって観客席から思わず掛け声かかかり、劇場をライブ空間に変えてしまう希有なアクターがいた。

 高倉健。映画がかき立てるロマンやファンタジーを仮託できる、特別な存在だった。

 1955年、ニューフェイス第2期生として東映に入社。1カ月半後、主演に抜擢され『電光空手打ち』(1956年)で映画テビューを飾る。

 だが、そこからヒット作に恵まれない、長い不遇の時期を過ごした。

 演技者として脱皮する機会を得たのは、アイヌの青年を演じた『森と湖のまつり』(1958年)で、監督の内田吐夢に語り草となるほど厳しくしごかれた。

 『花と嵐とギャング』(1961年)で出会った石井輝男も重要な監督のひとり。

 ソフト帽にスーツ姿がイカした殺し屋役で強烈な印象を残した石井監督作『ならず者』(1964年)は後年、影響を受けたジョン・ウー監督が『狼 男たちの挽歌・最終章』(1989年)をつくった。

 大きな転機となったのは1963年。小林恒夫監督の『暴力街』で背中に刺青をまとい、我慢に我慢を重ねたラスト、槍の穂先にサラシを巻き、手にして敵陣に殴り込むやくざ役で光明をつかむ。

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任侠路線からアウトロー・ヒーローで時代の寵児に

 続いて助演だが着流し姿の侠客がびったりとハマった、沢島忠監督の『人生劇場 飛車角』(1963年)が大ヒット。

 以後、東映に任侠路線が確立し、主演作『日本侠客伝』(1964年)でマキノ雅弘監督が堅気の職人役をあてがい、粋でいなせなキャラクター像を創出。

 さらに佐伯清監督の『昭和残侠伝』(1965年)は、恩讐を越えて助っ人となった池部良と肩を並べ、死地へ向かう道行きの様式美を完成させた。

 これに石井輝男監督と組んだ痛快活劇『網走番外地』(1965年)を加え、1970年代前半まで続いた3大シリーズは高倉健をアウトロー・ヒーローに、そして、時代の寵児にした。

 劇場をライブ空間に変えてしまったのはこの時期なのだが、高倉健の大ファン、グラフィック・デザイナーの横尾忠則はヒップで豪華な写真集をつくり、独自のイラストで『新網走番外地 さいはての流れ者』(1969年)のポスターを描いた。

館理人
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横尾忠則版ポスターは上記写真版とは別バージョンとなります!

 また、寺山修司は監督を手掛けた『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)で、挿入歌「健さん愛してる」を作詞し、1968年から連載が始まった漫画「ゴルゴ13」の主人公のモデルに原作者さいとう・たかをは高倉健を選んだ。

 しかも1973年、本人主演の映画化が実現。そんなポップなスターはそれまでいなかった。

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ハリウッド映画出演から、大作映画の顔へ

 1970年にはロバート・アルドリッチ監督の『燃える戦場』でハリウッド映画へ進出、英語のセリフも見事にこなし、その後の国際的な活躍の道を拓いた。

『新幹線大爆破』(1975年)以降、70年代後半は大作映画の顔となり、1976年には東映を退社。

古巣に19年ぶりに戻った『鉄道員(ぼっぽや)』 (1999年)の監督は、「高倉健映画」最多登板の降旗康男で、劇中、過去作のイメージを繊細に上書きし、改めて彼の神話性を構築した。

 そうして、最後となる『あなたへ』(2012年)まで、降旗監督(と撮影・木村大作のコンビ)と共に歩んできた高倉健は、希有なアクター人生をまっとうしたのである。

轟

DVD&ブルーレイでーた2015年3月号掲載記事を改訂!

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