植木等さんがどんなエンターティナーだったかについて、高田文夫さんが語ったインタビュー記事を復刻です!
植木等さんが亡くなった2007年、雑誌での追悼特集に掲載のため語っていただいたインタビューとなります。
植木等・プロフィール
うえき・ひとし
1927年2月25日三重県生まれ
1950年、東洋大卒業後、自身のバンドやフランキー堺が率いるシティ・スリッカーズを経て、1957年ハナ肇とクレージーキャッツに参加。
1959年に放送が始まった「おとなの漫画」にグループで出演して注目を集め、1961年にスタートした「シャボン玉ホリデー」では“お呼びでない”など数々のギャグを生み人気を得る。
また、青島幸男作詞の「スーダラ節」が大ヒット。続いて「ドント節」「無責任一代男」などヒット曲を連発する。
映画出演は、グループで出演した1958年の『裸の大将』などを経て、1962年『ニッポン無責任時代』で主演。大ヒットし、以後、東宝の看板シリーズとして『ニッポン無責任野郎』(1962年)、『日本一の色男』(1963年)、『クレージー作戦 先手必勝』(1963年)などメインで活躍する主演作からメンバーの出演作までクレージー映画として1971年までハイペースで製作された。
その後、1977年の舞台『王将』の高評を得て性格俳優の道を進む。その代表作として黒澤明監督『乱』(1985年)や『新・喜びも悲しみも幾歳月』(1986年)などがあり、後者ではキネマ旬報、毎日映画コンクールの助演男優賞を受賞した。
1990年には、かつてのヒット曲をメドレーにした「スーダラ伝説」が大ヒット。
人気が再燃して、NHK紅白歌合戦に出場するなど話題となった。
1993年に紫綬褒章、1999年に勲四等旭日小綬章を受章。
2007年3月27日死去。享年80。映画『舞妓Haaaan!!!』が遺作なる。
インタビュー記事はひとり語り仕様です。ではどうぞ!
高田文夫が語る【植木等】
(取材・構成 轟夕起夫)
「植木さんは、力道山や長嶋茂雄と並ぶ存在でしたよ」
僕が小学校5年のときかな、昭和34年、フジテレビで「おとなの漫画」(1959〜64年)が始まったの。月曜から土曜まで、毎日5分間の時事風刺の生放送番組で、それを見るために昼休み、いっぺん家に帰って、バーッと見て、またダッシュで学校に戻って(笑)。
衝撃的だったね。その日のニュースをネタに、青島幸男さんが構成を手がけ、“ハナ肇とクレージーキャッツ”の面々がコントを演じていたんだけど、ニュースをネタに、テレビでライブでコントをやるなんて、それまで誰もやってなかったことだった。そこで見た植木さんが最初です。
青島幸男さんと、「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバーでもある谷啓さんとの対談記事、こちらにあります。
とにかくスゴイな〜と思ったね。僕ら、ラジオで落語や浪曲を聴いて育ち、テレビの創世期も知っている世代なんだけど、植木さんは、力道山や長嶋茂雄と並ぶ存在でしたよ。視覚的なインパクトの強さがあって、テレビ時代の申し子ってカンジがした。
「体技とテクニックの合わさった音楽ギャグは本当に素晴らしかった」
やがて僕が中学生になると、日本テレビのバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」(1961〜72年)がスタートし、コミックソング「スーダラ節」や東宝の映画『無責任』シリーズも大ヒットして、植木さんは国民的スターになっていく。ブレーンだった天才・青島幸男の作った「無責任男」というコンセプトがまたキャッチーでね。
ま、植木さん本人は真面目な方だから、困惑しつつ、無責任男をやっていたんだろうけど。
高校時代には、日劇の、クレージーキャッツのショーに通いつめてました。テレビや映画の植木等が有名だけど、僕にとってはライブの人でもある。舞台上で、演奏しながらコケたりハズしたり、体技とテクニックの合わさった音楽ギャグは本当に素晴らしかった。
それまで喜劇や笑いに携わっている人っていうのは、ほとんどは寄席か浅草出身で、面白いんだがちょっぴり泥臭かったんだよね。そうしたら、寄席や大衆演劇、劇場ではない、ジャズ喫茶って場所からクレージーキャッツがいきなり出てきた。
植木さんはギタリスト。クレージーの前は、フランキー堺とシティ・スリッカーズに所属。メンバー全員そうだったけど、楽器をやりながら音楽コントができるっていうのがカッコ良かった!
「要するに、カッコイイ笑いだったんですよ」
植木さんの卓越しているところはやっぱり、本質的にミュージシャンであるってことだろうね。音楽センスというか運動神経というか、あらゆるパフォーマンスのリズム感が素晴らしい。で、植木さんはルックス的にも二枚目ですからね。それまでの日本の喜劇人は、三枚目がふざけた顔をしたりする道化芸が中心で、だから少し蔑んで低く見られていた部分もあったんだ。
ところが二枚目がトンデモないことをしでかす面白さ。ジトッとしてなく、カラッとしていて、スコーンと抜けたおかしさがあった。その突き抜けた感じがまた新しかったんだな。要するに、カッコイイ笑いだったんですよ。
おまけに歌がめちゃくちゃ上手い。そして、あの笑い声だよ。あのカカカッと突き抜けた、青空みたいな笑い声! あれは1960年代の自由というか明るさを象徴していたね。青島さんの歌詞も「そのうち何とか、な〜るだろう〜」(『だまって俺について来い』)なんてさ。聴くと意味もなく何とかなると思ったもん(笑)。
「しがらみとか伝統みたいなものとは関係ない」
で、あんなに高笑いした喜劇人っていないんですよ。エノケン(榎本健一)だってロッパ (古川緑波)だって(柳家)金語楼だって、あんなに底抜けには笑わなかった。植木さんはもう、ハハハッ、カカカッてやるじゃない。喜劇人は笑わない、という昔からのセオリー、しがらみとか伝統みたいなものとは関係ない。ミュージシャンだからできたんだと思うな。そこも画期的だったんじゃないかな。
1970年代後半から80年代は性格俳優として映画やテレビ、舞台で活躍されていたけど、1990年に突如、それまでのヒット曲をメドレーにしたCD「スーダラ伝説」でクレージー時代の植木さんが復活した。
「還暦を越えてのあの数年の活躍ぶりは語り草です」
ミュージシャン・大瀧詠一さんの長年の地道な布教活動も大きかったね。アンソロジーを編んだり、1986年には結成30周年記念、青島さんが作詞、大瀧さんの作・編曲で、クレージーが15年ぶりに全員で吹き込んだ『実年行進曲』まで作っちゃった。
「スーダラ伝説」では植木さんも本気を出して全国でコンサートもやって、1967年以来の紅白歌合戦出場まで果たし、歌手別最高視聴率も叩きだしたんだ。あのときは嬉しかったね。
TBS系列のバラエティ番組「植木等デラックス」(1991〜92年)のホスト役も人気を呼び、還暦を越えてのあの数年の活躍ぶりは語り草です。
植木さんが偉かったのは、晩節を汚さなかったこと。晩年になっても舞台俳優として勢力的に仕事をされ、しかも映画の遺作が『舞妓Haaaan!』だった。これ、脚本がクドカン(宮藤官九郎)で、主演の阿部サダヲのキャラクターがちょっと、「無責任男」を彷彿とさせるんだ。
これから先、何十年と喜劇をちゃんと作っていくのはクドカンだと、僕は思っている。その作品にちゃんと最後に出て、バトンタッチして足跡を残していったのがね、何か因縁というか、やっぱり植木さん、キチンとしているなあって。
青島幸男から始まって、宮藤官九郎で締め括った。戦後の日本の喜劇史を見事にひとりで背負っちゃった。スゴイですよ。まったくの偶然なのかもしれないけれど、でもファンとしては、とても嬉しいんですよね。
キネマ旬報2007年6月下旬号掲載記事を改訂!
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