復刻ロングインタビュー【大屋政子】阿修羅の人生を語る「何度も死のうと思ったわ」

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館理人
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大屋政子さんの雑誌インタビュー記事を復刻です。

館理人
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インタビューは1996年、大屋さんが76歳の時に行われました。大屋さんが亡くなったのは、この2年後の1999年1月でした。

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歌手としてキャリアをスタートした大屋さん。世界的セレブならではのダイナミックなエピソードトーク、底抜けに明るくポジティブなキャラクター、お人形が着るようなピンク系超ミニスカファッション、独特のハイトーンボイス。現れるだけでその場が和む(ある意味破壊力ある!)個性がバラエティ番組にハマって大人気となったのは40歳を過ぎてからでした。夫・大屋晋三氏を「おとうちゃん」と呼んでラブラブに語る様は、とってもキュートでした。

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そんな大屋さんが、「阿修羅の人生」だという自らの青春、仕事、恋愛、挫折を振り返り語ってくださったインタビューとなります。

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大屋政子 インタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

 大阪は阿倍野の高級住宅地で一段と目をひく大屋政子さんの豪邸にお邪魔したのは、去る(1996年)10月16日のことだった。おりしも1週間とあと少しで、彼女は76歳の誕生日を迎えようとしていた。

 長い廊下を進み、客間へ通されると、そこはまるで迎賓館か大使館のきらびやかな応接間のようだった。歴史の重みがある。壁には、幅広い交遊録を示す記念写真が一面に飾られていた。

 部屋からは、テレビでもおなじみの「政子チャン」の独特の甲高い声がした。

一年の半分は海外暮らし

大屋 あのねー、シャトウにな、オープン7周年記念で行ってたのよ。

 パリのド・ゴール空港から車にしてわずか30分、敷地30万坪、ゴルフ場もまた有名な、ルイ14世の古城を改装した〈シャトウ・デュミエール・マサコ・オオヤ〉。もちろん彼女がオーナーを務めるホテル&レストランである。

大屋 ゴルフ? してるわ。これが飛ぶんよ。どんどん飛ぶ。苦しいことがあるとよけい玉が飛ぶの。

 先ほど「迎賓館」「大使館」という言葉を使ったが、それは大屋さん自身を表現する場合にも、あながち外れてはいないかもしれない。実際、彼女はビジネスばかりでなく、民間外交官として世界の要人と交流を深め、世界中をいまでも駆けめぐっているからだ。

大屋 4、5年前までは、まる4日間夜しても平気だったのよね。それが最近2日徹夜したら3日目は眠たい。そしたら孫が「あ、おばあちゃん、フツーの人になってきた」って言った(笑)。

 1年の半分は海外暮らし。この世界的レディの語ってくださったお話の数々は、スケールが大きくて感心しっぱなし。しかも、テレビでの愉快なタレントぶりからは予想もしなかった、いく度も修羅場をくぐった女の半生にも驚かされた。

 この一文を最後まで読んだとき、あなたの抱いていた「大屋政子」のイメージは少なからず変わっているはずだ。

 では、何の話から始めようか……。やはりまず、大屋さんを語るうえで切っても離せぬ「おとうちゃん」こと最愛の夫、大屋晋三氏との有名ななれそめの話からスタートをしよう。

「おとうちゃん」こと大屋晋三氏とのなれそめ

大屋 あのね、私はね、1年間イヤやって逃げてたの。おとうちゃんが故・鳩山一郎元総理の紹介状を持って朝8時に母に会いにやって来て、その日の夕方4時にもう一度私に、「結婚してくれー」ゆうてね、入ってきはったの。おとうちゃん51歳で私が24歳のとき。それで母は絶対反対やし、私もそんな27もトシが違うし、3番目の後妻になるのもイヤやしで「ノーノー」ってゆうてたんだけど……。

 補足が必要だ。ときは1945年末のこと。当時、大手繊維会社帝人常務の晋三氏は政治家になろうという気概に燃えて、ある日森田家を訪ねた。亡くなった衆議院議員・森田政義氏の選挙地盤を引き継ぎたいとのお願いにあがったのだ。

 そして彼は、森田家のひとり娘に一目ぼれをした。旧姓森田政子さん、すなわち彼女に、である。

 それにしても初対面にもかかわらず半日のうちでプロポーズに出るとは! しかもまだ妻のある身でだ。何という決断力とバイタリティ!

 だが晋三氏の行動力はそれだけでは終わらない。

246通のラブレターから駆け落ちへ

大屋 毎日毎日おとうちゃんから、全部で246通のラブレターが来たのよ。

 そしてさらに、3日おきにかかってくる電話での熱烈ラブコール。やがてふたりは駆け落ちをする。

大屋 その前にね、伏線があるの。ホントは許婚がいたの。親が決めた人。海軍軍医中佐でね。で、八卦で占いをしてみたら「許婚とは絶対に添い遂げられない、おとうちゃんのほうこそホントのご主人になる人だ」って言われたのよ。そしたら許婚はソロモン沖で戦死しちゃった。昔は占いなんて迷信やって信用してなかったんやけど、ゆうたことが全部当たっちゃったのよ(笑)。

 ホテルなんてそうない時代、50年来おつき合いしている婦人会の会長さんのお宅にかくまってもらったふたりの駆け落ちは1日だけの出来事に。

 ラブレターは、いまもどこかに大切にしまわれているんですか? 目の前の大屋さんにたずねてみた。

大屋 教えない。見せろゆう人がでてくると困るからうかつには言えないわ。

 微笑みながらも真剣にそう言った。帝人社長、参議院議員から商工大臣と活躍された情熱の人、大屋晋三。

「おとうちゃん」の愛人発覚

 しかし氏は1980年3月9日、彼女を残して惜しくもこの世を去った。

大屋 いまだにおとうちゃんのステテコをはいてるし、シャツも着てるよ。

 最愛の夫の遺品を身につけ、御守代わりにしている純な大屋さん。さぞかしその青春時代はバラ色でいっぱいだったのだろうと思いきや、

大屋 アンタそんな風に思ってるでしょうけどね、私、何度も死のうと思ったわ。

 意外な言葉が返ってきた。

大屋 まずな、おとうちゃん、結婚したらいっぱい愛人さんがいたのよ。それで自殺しようと思った。それで愛人さんから何から何まで養うためにお金いるから働きだしたわけよ。おとうちゃんに「後妻の虚栄心」なんてよく言われたなあ。でも帝人社長夫人って呼ばれても、ウチ、おとうちゃんからお金もらったことなかったし。働かなアカンと思ったんや。

ビジネスでのいじめと裏切り

そしたら日本は男性社会。いじめられていじめられてな。男の人だけやないよ。女の人にも足を引っ張られて。1959年に一度会社の乗っ取りが来たんや。それはある人に頼んで助かったんやけど、そのときも自殺しようと思ったな。昼間はニコニコ応じてたけど、夜ひとりになって、枕ビチャビチャや、涙があふれてきて悔しゅうて。悲しいんじゃなくて悔しいんや。おとうちゃん死にはってからも4回ほど自殺図ろうとした。生きてるときはペコペコしてたのに、手のひら返して裏切った社員がいてな。何十億もの借金を私にオッかぶせたんよ。

 一気呵成に言葉が続く。先ほどまでの温和な彼女はそこにはいない。それもそうだろう。結局、そのとき大屋さんは現金と資産と税金を払ったお金が25億、資本金も含め30億あまりの大金を、まったくいわれのない負債に当てねばならなかったのだから。つい昨日のことのように怒りを隠せない形相。その口もとは小さくこうつぶやいた。

大屋 激しい人生生きとんのよ。阿修羅の人生を、76歳のいまでも闘こうとる。

自分のめんどうは自分でみる

 阿修羅道とは怒りや争いの絶えない世界のことである。大屋さんはそんな世の中を孤軍奮闘してきた。事業家として早くから才能を発揮し、ゴルフ場を国内に36ホール (奈良)、海外に3か所 (フランス、イギリス、ブルガリア)持っている。会社社長、政治家の妻として一所懸命つくしながらも彼女は、「自分のめんどうは自分でみる」というスピリッツをかきたてて生きてきたのだ。これだけパワーのある人だから、当然こんなことも起こるはず。

大屋 あのね、私を裏切った人のうち7人死んでるんや。それも妙な死に方してるんやよ。一晩の患いで死んだりして。それ、死んだおとうちゃんがバチ当てはったんかもしれんけどな(笑)。

 修羅につぐ人生が、大屋さんの人間を見る目を変えたのは確かだ。しかし根のところでは信じずにはいられないのがその性分のよう。それは、彼女の1冊の著作のタイトルが雄弁に示している。すなわち「会う人はみんな財産」(講談社刊)という風に。

大屋 うーん、その人が信用できるかどうか、そんなことを見極められたら苦労せえへんよなあ。1年中だまされてんねん。なぜいうたら、人を疑うことを教育されなかったわけよ、子供のときから、娘の頃からな、フワーっとそのまま大きいなってるから(笑)。

出自はセレブ家庭のお嬢様

 大屋さん、正真正銘のお嬢さま育ちである。育ちの良さゆえのおおらかさ、そこがまた彼女の魅力でもある。子供時分、家には2台の外車があり、父親はシボレー、母親はウズレーに乗っていたのだと。大正9年当時、車のある家は大阪で5軒ほど。2台ある家など関西には1軒もなかったという。

大屋 よく母がそう自慢してたわあー。

 懐かしそうに大屋さんは笑った。ふと手元に目をやると、上品に輝く大きな指輪がそこにあった。

大屋 あ、これな、私のラッキーストーン。1959年に自分で買うたのよ。リオデジャネイロでね。その頃安かったの。アクアマリンなんて、まだ宝石じゃあなかったのよね、輝石ゆうて。それがこの頃宝石になって、もう莫大な値段になってしもうてなあ。

アイゼンハウアー大統領とのディナー

 幼少のみぎりからオペラとバレエに親しみ、晋三さんと出会うまでは歌手としても活躍されていた彼女。人生の大転機を経て、いっそう華々しい世界へと旅立っていったわけだ。その生き方のひとつひとつが歴史の1コマとなってしまう稀有な人。だからこそ時として、日本人の俗物根性の犠牲にさらされてしまう不幸な人。

 こんなエピソードがある。

大屋 1953年にね、ホワイトハウスでメリー・ルーブリングって女性と知り合い、親友になったの。41もの銀行を持っている大金持ちで、ある日彼女は、おとうちゃんと私にワシントンDCでアイゼンハウアー大統領を紹介してくれたのよね。それで何とホワイトハウスで5人だけでディナーを共にしたの。ところがね、日本に帰ってきてこの話をしたら、ウソをつくのもいい加減にせえ、って言われたのよ。それからよ、カメラを持ち歩くようになって記念に写真を残すようになったんわ。

ポジティブシンキング

 またこんなエピソードもある。

大屋 NHKのある音楽番組に出た時のこと。もう十何年も前やね。別の司会者がオペラをいくつぐらいご覧になりましたか? と質問なさったの。「多分、400ぐらい」と答えたの。そしたら、いまでも才媛として知られる女性司会者が、私に向かって言ったの。「大屋さんってハッタリね、ホラ吹きね、オペラの数は全部で100もないのに、400も観たことあるなんて」。それまでは彼女のファンやったんやけど頭に来て、ロンドンのオペラ関係の出版社の社長と仲よかったから、そこに電話したら2000ドルもするオペラの大事典送ってくれはった。で、調べると2000もあるのよオペラは。創作オペラも入れたら数知れずや。それでもう彼女のファンやめた(笑)。反面、ホラ吹きってゆうてくれたから、こんだけのオペラ事典が手に入った。その点は感謝してる(笑)。

 どうだろう。これぞ大屋政子一流のポジティブ・シンキング。確かな知性に裏打ちされた底ぬけの明るさ。タダでは転ばぬ浪花のド根性。そんな2つを併せ持った彼女には、ヒシヒシと懐の大きさを感じさせられてしまう。

 実際、そうでなければとても「会う人はみんな財産」などとは言えまい。

大屋 うしろ振り返らへんからね、もう前行くだけで精一杯。フロム・ナウ・スタート ネバー・ツー・レイトや!

華麗なる交流とバレエ

 皇室、皇族、世界の王室のキング&クイーン、そしてあらゆるジャンルを超えた不世出のアーティストたちとの素敵な出会い。ウォルト・ディズニー、オペラ歌手マリア・カラス、名指揮者カール・ベーム、名レーサーのアイルトン・セナ、世界的バレエダンサーのルドルフ・ヌレエフ、マーゴット・フォンテーン……枚挙にいとまがない。

 なかでもバレエ界の最高峰との長年の交流は、〈マサコ・オオヤ・大阪・世界バレエ・コンペティション〉へと毎年実を結んでいる。自ら理事長を務めるこのライフワーク、いまでは8回目を数え、「世界三大バレエ・コンペ」と評価されるまでになった。

 いまでも朝起きると10分はバレエの基礎練習を怠らない。ネバー・ギャンブル、ネバー・ドリンク、ネバー・ボーイフレンド、これをモットーに、彼女のミラクルパワーは留まるところを知らないでいる。実はそのパワー。今年意外な世界でひそかに発揮されていたのだった!

勝利の女神、政子パワー

大屋 あのね、仰木監督さんのご招待で3月29日の始球式で花束贈呈に行ったの。ところが大雨で中止。その日の夕方、仰木さん、中西太さんとその仲介のジャーナリスト4人でホテルでお食事をしたの。それからすっかりオリックスのファンにはまりこんでしまったの。仰木監督さんに激励のFAX入れたらその日6連敗が止まったのよ。それが最初。私が観に行くと必ず勝ってね。ヘッドコーチの中西太さんから「ニールがスランプで打てない」って電話があって、じゃあ、ニールと高橋、小川選手のバットをください。海外行くまで抱いて寝るからって。いく晩かいて寝たの(笑)。そうしたらどういう訳かホームラン打っちゃうのよ。DJ、 馬場、田口、大島、藤井、野田君のボール、その他の方々のバットも頂戴して両手に抱えきれないほど抱いて寝たの。そしたらその方々も、なんとよく打ちはるの。中西さん夫婦が電話してこられるの。リーグ優勝のときもやっぱり電話があって、逆転勝ち! 胴上げのあとスタジアム1周して戻るなり中西さんが「ただいま優勝できました!」って。

 大屋さんにお会いしたのは冒頭にも記したとおり10月16日の日本シリーズ直前。そして、オリックスは巨人を破って、日本一の栄冠に輝いた。それにしても仰木マジックの裏にこんな猛烈なファンがついていたとは。おそるべし、政子パワー。

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大屋政子 年譜

おおや・まさこ
1920年、大阪市で代議士の森田政義と豪商のひとり娘・トクノの間に生まれる。母親の影響で4歳からバレエを習い、オペラに親しむ。大阪府立阿倍野高等女学校卒業。

1938年、大阪音楽学校(現・大学)で1年間修業。1939年、婦人画報社「全日本令嬢名鑑」に大阪からただひとり掲載される。原信子オペラ研究所で5年間声楽を研究。

1941年、大作曲家・服部良一の口添えで日本コロムビアに所属。流行歌手として、近江俊郎やディック・ミネ、淡谷のり子らと全国の陸海軍を慰問してまわる日々。

1945年、大屋晋三氏と出会い、大恋愛の末に駆け落ち、6年目に入籍する。結婚式はあげなかった。帝人の社長、参議院議員と躍進する夫を公私にわたって支える。

1958年、独力で事業を展開し、五菱土地建築株式会社を設立、社長になる。1960年、四条畷カントリー理事長就任。以後、不動産業とゴルフ場のオーナーとして大活躍。

1964年、正月番組『財界名刺交換会』で晋三氏とともにテレビ初出演。以後、数々のレギュラー番組をかかえる人気ぶり。1976年、第1回バレエ・コンペティション開催。

1980年、晋三氏が逝去し、失意にくれるも『ザ・恋ピューター』でテレビに復活。1983年、大阪厚生年金会館で初リサイタル。1987年、ロンドンにレストラン門を出店。

1989年、フランスにシャトウ・デュミエール・マサコ・オオヤを作る。1990年、フランスの勲4等レジョン・ドヌール勲章受章。1992年、長年の国際交流で大阪府より表彰。

1993年、「会う人はみんな財産」出版。1995年、マルセイユ国際バレエコンペティション名誉総裁及び審査委員長に選任。事業、文化活動ともども多忙な毎日を送る。

1999年1月16日死去。

轟

pink1996年12月号掲載記事を再録です