復刻ロングインタビュー・東映グループ会長【岡田裕介】自らの俳優時代と森谷司郎監督を語る

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館理人
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東映グループ会長・岡田裕介氏の訃報を受け、轟夕起夫によるインタビュー記事を復刻し、哀悼の意を捧げたいと思います。

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岡田氏のキャリアは、東宝・・専属俳優からスタートしました。その頃を振り返っていただいたインタビュー記事です。

岡田氏が東映・・に移った後も、会社を超えた付き合いとなる森谷司郎監督との出会いと信頼関係を中心に、あれこれお話いただいたものです。

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インタビュー時期は2012年。岡田氏が東映株式会社取締役社長を務められていた時のものとなります。

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岡田裕介・プロフィール

1949年5月27日、京都府生まれ。
父は元・東映株式会社会長の岡田茂。
1969年、慶応大学在学中にスカウトされて、NET『レモンスカッシュ4対4』で俳優デビュー。
翌1970年、東宝の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の一般公募に応募して合格し、主人公の薫に抜擢された。
大型新人として積極的に売り出され、『初めての旅』『二人だけの朝』(1971年)、『その人は炎のように』『白鳥の歌なんか聞えない』『初めての愛』(1972年)などに連続主演。

岡本喜八監督とタッグを組んで、『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』『にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻』(1973年)の二部作、ATG配給の『吶喊』(1975年)では出演と共にプロデューサーも務め、東映の『実録三億円事件 時効成立』(1975年/石井輝男監督)のあと、やがて俳優業からは離れてプロデューサーに専念するようになる。
1988年、東映に入社。1990年、東映東京撮影所長、2002年には東映社長に就任。
2014年、東映グループ会長に就任。
2020年11月18日死去。

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深作欣二監督作、緒形拳主演の東映映画『火宅の人』(1986年)では太宰治役で出演しています。

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では、インタビュー記事をどうぞ!

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岡田裕介・インタビュー 

「人生は一度、映画もその瞬間の面白さにある」

(取材・文 轟夕起夫)

 岡田裕介。東映株式会社取締役社長である(注:2012年当時。後に東映グループ会長)。だが1970 年代前半の東宝映画ファンにとってこの名前は、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主役、はたまた、いくつもの物憂げな青春の物語の主人公として記憶されているはず。

 東宝の専属アクターだった時代、なかでも森谷司郎監督との交流に絞って、お話をうかがった。

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森谷司郎監督は、黒澤明の映画でチーフ助監督を務めたのち、東宝で監督デビュー。代表作に『日本沈没』『八甲田山』などの大ヒット映画があります。

俳優デビューのきっかけは石坂浩二と見間違えられて

──慶応大学在学中にTVドラマに出演され、1969年、いきなり俳優デビューされたわけですが、前々から「役者の道に進もう」というお気持ちはあったんですか。

岡田 いえ、全然なかったんです。テレビドラマに出たキッカケは、大学1年の夏休み、新宿でスカウトされまして。ナショナルの有名な宣伝部長、逸見稔さんが僕のことを石坂浩二さんと見間違え、声をかけられたんですね。

まあ石坂さんに、似ているところもあったんですけど、逸見さんに「偶然の出会いだが君、俳優にどうだ!」と強引に誘われても、自分にはピンとこない話で。とにかく住所だけ教えて、その場を去ったら、翌日の朝8時に訪ねて来られて。「ひょっとして岡田茂さんの家ですか」って。父は当時、東映京都の撮影所長で、逸見さんは「『水戸黄門』もやってる逸見です、ぜひとも」と言ってね。 僕は僕で「やれば欲しかった車が買えるかも」と思いたち、そんな不純な動機で何の訓練も受けずに、1週間後にはカメラの前に立っていたという(笑)。

映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』のオーディション

──それがNET(現・テレビ朝日)の番組『レモンスカッシュ4対4』 (1969年) ですね。

岡田 ええ。ナショナルゴールデン劇場という枠の看板ドラマで、演技もできないのに何話か出始めてしまい、そうしたら東宝で映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主役募集をしていて、「NET系列の昼の番組で最後、オーディションを生中継するから、お前、出ないか」って、広報の人たちが僕を推薦してくれたんですよね。

原作は読んでいましたし、自分が通った学校(=都立日比谷高校) のときの話でもあって、決して自分のことを役者だとは認識してはいませんでしたが、これはやってみたいなと思ったんですね。で、オーディションに応募したら、あれよあれよと主人公の薫役に決まってしまって。

長ゼリフは嫌だった

──では、そのオーディションのときに、監督の森谷司郎さんと初めて会われたと。

岡田 そうです。二つの質問をされたのを覚えています。ひとつは「君は僕の作品を観たことがあるか」。正直に「全くありません」と答えました (笑)。

もうひとつは「もし落選したら、薫の友人役“小林”を君はやってくれるか」。僕は「一切お断りします」と。小林はとてもいいキャラクターだったんですが、すごい長ゼリフなんですよ。『レモンスカッシュ4対4』の現場で長ゼリフの辛さは散々味わっていましたから。最終面接に残ったのは20人くらいで、そんなこと言ったのは僕だけだったらしいですよ。「あれが印象に残ってお前になったよ」って森谷さんは後々、言ってくれましたがね。

森谷監督の魅力と厳しさ

──森谷監督、演出家としてはいかがでしたか。

岡田 初めは大変な人……とにかく本物志向なんですね。薫は廊下に置いてあったスキーのストックを蹴飛ばして、左足親指の生爪を剥がし、終始ゴム長靴を履いて片足を引きずっているんだけど、リハーサルで「お前、ぜんぜんダメだな、本当に爪剥がしてこい。じゃなかったら今ここで麻酔して剥がしてやるから」って。本気なんですよ。「冗談じゃない、そこまでしてやりたくないですよ僕は」って言った記憶がある(笑)。

結局、長靴の前のほうに小道具さんに作らせた押しピンを入れてね、本当に痛みを感じながら歩いた。だいたい順取りで、夕景のシーンは実際に夕刻に撮らないと納得しない人で、しかも光線の具合にこだわるから一日ワンカットしか撮れない。今はなき銀座数寄屋橋の旭屋書店 (2008年に閉店)でのシークエンスは、旭屋の真ん前に大量のライトをつけて、警察が来てもお構いなしで「行けぇー!」って。

1カ月ちょっとで撮り切ると言われていたのが、実際には3カ月かかりましたね。僕は関西出身なもんですから、訛がひどくて、アフレコルームでも毎日ダメ出しの連続。

でも、そうやって役者の基盤を教えてくれたのは、森谷さんでした。「この人、魅力あるなあ」とつくづく感じたのはラストシーン、旭屋書店で女の子が去った後、僕のアップがあって、「清々しい顔をしてくれ」と指示されたんですが、「監督、それは僕らの心情を分かってないですよ」って意見したんですよ。「僕らがどれだけつらい思いを抱えて生きているか……むしろそこは泣きたいくらいの心情だ」って。そうしたら黙考して「お前が正しいんだろうな、好きにやれ」と言ってくれた。嬉しかったですね。ある種の信頼関係が生まれていました。

役柄と重なる経験

──庄司薫さんの原作は1969年に芥川賞を受賞、ベストセラーとなり、社会的なブームも起こしていましたが、とりわけ岡田さんの境遇と重なる作品だったんですね。

岡田 薫と同じ高校に通い、一浪し、描かれていた東大入試の中止のあおりを食らったひとりでしたからね。入試を粉砕した学生運動側の気持ちも分かる。でもその犠牲になった当事者でもある。薫の複雑な心情は「俺じゃないとできない」と内心、思ってはいました。『赤頭巾ちゃん気をつけて』という映画だけは一所懸命やったんですよ。自分の世代の代表として、後世まで残さなきゃって気持ちが、どこか生意気にもありましたね。

──公開は1970年8月4日から。有楽町スバル座での1本立てのロードショー。8月29日から出目昌伸監督の『その人は女教師』との2本立てに。

岡田 1本立てというのは珍しい時代だったんだけど、フタを開けたら大ヒット、お客さんがスバル座の周りをぐるぐる巻きにしてくれてねえ。本当にひとりひとりと握手したかった。1本目の映画で僕は得難い体験をさせてもらいました。

フィーリング映画『初めての旅』と森谷監督の愛情

──「赤頭巾ちゃん気をつけて」のあと、庄司さんは、単行本の順番では1969年「さよなら快傑黒頭巾」、1971年「白鳥の歌なんか聞えない」と発表されていきました。

岡田 東宝としては次は「さよなら快傑黒頭巾」をやりたかったけれど、原作者サイドと監督の森谷さんの目指す方向性がなかなか合致しなくて。僕は「森谷さんじゃないとやらない」と突っ張った。そうしたら森谷さん、えらく男気のある人ですから「そこまで言ってくれたなら、俺はお前の次回作を考える」って。でもなかなか題材がなくて。たまたま当時、僕は小椋佳さんと巡り会っていたんですね。『赤頭巾ちゃん気をつけて』で共演した森和代さんとレコードジャケットのモデルとナレーションをやっていたんですよ。「青春〜砂漠の少年〜」 (1971年) という小椋さんのファーストアルバム。

で、森谷さんに曲を聴いてもらったら、いいじゃないかって。この楽曲から作っていこうとなって、『初めての旅』(1971年) の企画が立ち上がるんです。 東宝の正月映画が何か1本飛んで、急遽、製作が繰り上げとなって、監督は「撮るのが遅い」ので間に合うかどうか心配しました。

森谷さんは「今回は20日間で撮るぞ」って12月の頭から撮影を始め、本当に突貫工事、ギリギリで間に合ったのを覚えてますね。「俺だって早く撮れるんだ」と自慢していました。一応、曽野綾子さんの原作がありましたが、「6月の雨」「しおさいの詩」「さらば青春」「砂漠の少年」といった小椋さんの歌をフィーチャーし、出来上がってみると、今のPVみたいなタッチのロードムービーになって、これがまたニューシネマぽくって、“フィーリング映画”ともてはやされましてね。

森谷さんは現場では「お前はああしろこうしろと言ってもできないから、好きなようにやれ」って。でも共演者の高橋長英さんのほうには厳しくて、まあ、僕は見放されているのかな、とも思ったけど(笑)、深い愛情で包み込んでくれてましたね。

青春映画『初めての愛』とその後

──先ほど名前の挙がった森和代さん、『赤頭巾ちゃん気をつけて』には岡田さんと同じくオーディションでヒロインの下条由実役に選ばれた方ですが、『初めての旅』にも少しだけ出演されていました。彼女の印象は?

岡田 当時はよく分からなかったんですが、今、客観的に考えるほどに、彼女はスーパースターだったんだなあって思う。ショートヘアでボーイッシュで。ファッションモデルとしても活躍していて、あれほど魅力的な女性はいなかった。ただ、早く結婚したがってたんですよね。『初めての旅』のあと、森本レオさんと結婚され、引退されました。

──森谷監督とはもう1本、島田陽子さんと共演された『初めての愛』(1972年) があります。岡田さんは『初めての旅』以降も小椋佳さんのシングルやアルバムのジャケットを飾り、『初めての愛』では小椋さんによるサウンドトラック盤も発売されました。

岡田 『初めての愛』は正直に言うと、森谷さん自身、オリジナルの青春映画をどう作ったらいいのか、迷いがあったんじゃないかと思ったので、それを伝えたことがあるんです、ご本人に (笑)。「お前、そんなことないよ、最高だよ!」って胸を張ってましたが。「撮りたい」とおっしゃっていた横浜ロケは素晴らしい。つまり、画は最高なんだけど、小椋さんの音楽が前面に押し出され、ストーリーはその次のような……でも、もしかしたらあの頃は、青春モノから森谷さんが卒業していく時代だったのかも。

『初めての旅』のあと、1960年代のバイブルと言われた柴田翔のベストセラー小説に取り組み、『「されどわれらが日々」より 別れの詩』(1971年)を映画化されました。

青春モノの次のステップに上がっていくプロセスで、実際、『日本沈没』(1973年)や『八甲田山』 (1977年) を手がけて、超大作や重厚な人間ドラマの似合う大監督になられた。それで「さよなら快傑黒頭巾」の頃とは違って、1972年に『白鳥の歌なんか聞えない』を映画化したときは、森谷さんを待たずにお引き受けしたんです。

1970年代前半の東宝と役者稼業

──監督は渡辺邦彦さん。“早撮り”で有名だった渡辺邦男監督のご子息ですね。

岡田 豪快なエピソードの多いお父様とは対照的に、真面目で、とてもじっくり丁寧に撮られる方でね。東宝の中でもうちょっと自己アピールされていたら、もっと評価された監督だったはず。僕はのちにプロデューサーになって携わったTVドラマで、何本かご一緒しました。振り返ると1970年代前半の東宝は、「青春モノをやらなきゃいけない」っていう大義名分があり、それでいて何をやっていいのか、どうすれば観客に訴求するのか迷っていた時期で、そのダッチロールの中から僕みたいな俳優経験のないヤツも生まれた気がしますね。まあ、最後まで役者稼業には馴染めませんでしたけど。

プロデューサーとしての森谷監督との関わり

──1984年2月2日。残念ながら森谷監督は病に倒れられ、亡くなられました。

岡田 早すぎますよねえ。53歳ですから。50代に入ったあたりから具合は悪かったんですが、一番脂の乗っているときに……。もうちょっと撮れたよねえ。本当に残念です。『動乱』 (1980年) で、プロデューサーとしてご一緒させていただきましたが、もっと何本もやりたかった。僕は最期まであの人には義を尽くした、と言いますか、森谷さんが亡くなられたときに東宝にかけ合って、撮影所葬を行ったんです。 東宝のヒットメーカーでしたからね。最後の作品は『小説吉田学校』(1983年)。

主演を務められた森繁久彌さんをはじめ、たくさんの縁ある方々が来てくださった。僕が森谷さんの姿勢で好きだったのは、本番は1回だけなんですよ。何回もリハーサルはするんだけど、「人生は一度、だから映画の本番も1回」とおっしやってた。力を尽くせば、いいも悪いもないんです。人生は一度、映画もその瞬間の面白さなんだと。僕は森谷司郎という人間に、多大なる影響を受けています。

 さまざまな貴重なお話を伺っていく中で、こんな発言も。「実は『八甲田山』を撮られるとき、助監督をやってくれって頼まれたんですよ。さすがに荷が重すぎて丁重にお断りしましたが、僕がプロデューサー業に興味があることも、気にかけてくれていたんですよね」。1980年、東映にて(当時はフリーの立場で)、森谷監督のために高倉健、吉永小百合共演の『動乱』を企画。東宝青春映画が紡いだ二人の友情の“第2章”は、会社の枠を飛び越え、そこからまた始まっていったのだった。

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『赤頭巾ちゃん気をつけて』データ

監督:森谷司郎
原作:庄司薫
音楽:いずみたく
出演:岡田裕介、森和代、富川徹夫、森秋子、山岡久乃、ほか

轟

東宝青春映画のきらめき(キネマ旬報社2012年10月刊)内、轟夕起夫取材記事を復刻しました。

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『赤頭巾ちゃん気をつけて』はAmazonプライムビデオにてレンタル作品にラインナップされています。

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