復刻ロングインタビュー【加藤茶】が語る、お笑いレジェンド【ジェリー・ルイス】

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館理人
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ジェリー・ルイスが亡くなったのは、2017年。91歳でした。

その追悼記事のために、加藤茶さんがお話ししてくださった記事の復刻です。

館理人
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ジェリー・ルイスがコメディ界においてどれほどのレジェンドだったのか、加藤茶さんの溢れるコメディ愛も伝わってくる、インタビュー記事となっています。

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まずはジェリー・ルイス、加藤茶ご両人のプロフィールを!

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about ジェリー・ルイス

概要

アメリカン・コメディの歴史に超絶スラップスティックなスタイルで一潮流をつくりあげ、ステージからTV、映画のスクリーンまで長年にわたって幅広く活躍。彼がいなければ絶対に、ジム・キャリーやアダム・サンドラーの活躍もありえなかったし、コメディ界の様相は大きく変わっていただろう。晩年まで精力的に活動し、つねに観客を喜ばせることを考え続けていたという、その永遠のショウマンシップ溢れるエンターティナーであった。

プロフィール

Jerry Lewis(1926-2017)
1926年3月16日生まれ、アメリカ、ニュージャージー州出身。
本名ジョーゼフ・レヴィッチ。貧しいロシア系ユダヤ人の家庭に生まれ、芸人だった両親とともに5歳から舞台に立つ。
学生劇などに出演しているうちに芸人を志し、1946年にディーン・マーティンと『底抜けコンビ』を結成。
各地のナイトクラブを廻るなかでその人気を得て、TVにも出演。
1949年には映画デビューを飾り、1950〜60年代にかけてパラマウント映画製作による数々のコメディ映画(『底抜け』シリーズ)で活躍、ハリウッドで一時代を築く。


1956年にコンビ解消後は、製作や監督業にも進出。代表作の一つ『底抜け大学教授』(1962)は、1996年にエディ・マーフィ主演で『ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合』としてリメイクされた。


1960年代末〜70年代初めには、南カリフォルニア大学の映画学部で教鞭をとり、教え子の中にはジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルバーグら後のヒットメーカーたちがいた。
1970年代に一時低迷するも、1980年代には映画に復帰して『キング・オブ・コメディ』(1983年)で健在ぶりをアピール。


プライベートでは1944年に歌手と結婚して6人の子どもがいたが83年に離婚。翌月にダンサーと再婚した。
筋ジストロフィー患者支援のチャリティ基金「レイバー・デイ・テレソン」を創設するなど、慈善活動でも知られた。
2009年、第81回アカデミー賞でジーン・ハーツショルト友愛賞を受賞。
2017年8月20日、死去。91歳。

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about 加藤茶

プロフィール

かとう・ちゃ
1943年生まれ、東京都出身。コメディアン。1960年代よりザ・ドリフターズの一員として活動、1969年に放送が始まった『8時だョ!全員集合』で数々のギャグをヒットさせ、ドリフを国民的人気グループに押し上げるとともに、自らもお笑いタレントとしての地位を確立する。


映画では、ドリフターズ主演の喜劇映画全21作(1967〜75年)のほか、植木等との共演作『日本一のワルノリ男』(1970年)など、単独での出演作も多い。
1990年代以降は、本格的な俳優業にも進出し、TVドラマやバラエティ番組を中心に活躍。
ドリフターズの高木ブー、仲本工事と結成した「こぶ茶バンド」での音楽ショーも全国で展開している。

館理人
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では! インタビューをどうぞ!

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加藤茶が語るジェリー・ルイス〜笑いの理想形で永遠の憧れ

(取材・文 轟夕起夫)

コメディアンとして1950〜60年代に本国アメリカで全盛期を誇ったジェリー・ルイス。もちろん、当時の日本のあまたのコメディアンたちにも影響を与えていて、ご存知ザ・ドリフターズのメンバーであるこの方も。「ジェリー・ルイスは僕の笑いの原点です!」。開口一番、われらが加トちゃんこと加藤茶さんはそう言って、故人への熱き思いを語り始めた。

ジェリー・ルイスとの出会い

──加藤さんは福島の高校時代、映写技師のアルバイトをされているときにジェリー・ルイスの映画と初めて出会われたのだそうですね。

加藤 ええ。最初に日本に入ってきたディーン・マーティンとのコンビ作『底抜け艦隊』 (1952年) を上映しながら、毎日映写室から覗き観ていたんですよね。ジェリー・ルイスが海軍の適性検査を受け、採血されるシーンで何度も腕に注射を打たれるじゃないですか。それで気持ち悪くなって相棒のディーン・マーティンに水をもらって飲んだら、針を刺されたいくつもの箇所から水が噴水みたいにピューと飛び出すギャグを今でも覚えています (笑)。

そこは福島県唯一の洋画の専門館で、マーティン&ルイスの『底抜け』シリーズもよく上映していたんですよ。だいたいプログラムは1週間交代で、1日に4〜5回はフィルムをかけていましたから、自然と細部まで覚えちゃう。

他にもチャップリン、バスター・キートン、ボブ・ホープやアボット&コステロなどのコメディ映画をずいぶんと上映していて、影響を受けました。

ジェリー・ルイスはその中でも「垢抜けていてカッコいいな」と感じてひときわのめり込んだんです。髪は短く刈り込み、スーツ姿も決まっていて若々しく、ロックスターみたいにファンキーで、喜劇役者にありがちな泥臭さがなかった。とにかく体の動きのキレが素晴らしく、ハチャメチャなことばかりするのだけれども、普通にしているとチャーミングですごくいい男なんですよね。そのギャップも良かったなあ。

影響を受けたジェリー・ルイスのスタイル

──ベビーフェイスですよね。体技型のコメディアンというだけでなく、そこも加藤さんに似てるような。

加藤 僕はね、元はバンドマンでドラムを叩いていたのですが、ドリフに入ってから言われるようになったのは「エノケン(=榎本健一)さんに似ている」って。それも光栄でしたけどねえ。

館理人
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エノケンさんは黒澤明監督作『虎の尾を踏む男達』(1952年)などに出演しています。

僕自身は繰り返し観ていたジェリー・ルイスの動きや表情、特に顔芸を真似していたんです。リアクションで寄り目にするじゃないですか。そういう変顔をやる人がいなかったわけではないんだけど、いちいち極端なんですよ、ジェリー・ルイスのスタイルは(笑)。あと、音楽に合わせたリズムネタが斬新で、これも多大な影響を受けています。

志村けんとのヒゲダンスのルーツ

──盟友の志村けんさんもジェリー・ルイスのことがお好きですよね。

加藤 そうです。だから二人でネタを考えると、感覚が一緒なので「加藤さん、こんなことやらない?」「ああ、いいね」で済んじゃう。ヒゲダンスなんかそうですよ。あのネタができたのは、志村が「なんかさ、ヒゲをくっつけてタキシードを着て、動きだけで笑わせたいんだけど、やれないかな?」って言ってきて。僕がイメージしたのはマーティン&ルイスだったんです。

──そうだったんですか! しゃべらずに笑いを取る、視覚 (サイト) ギャグ、フィジカルギャグって本当に難しいですよね。でもその分、言葉の壁がほとんど存在しない。

志村けんフェイバリットムービー

加藤 見れば誰もがわかる笑いですからね。ディーン・マーティンと別れた後のジェリー・ルイスの初監督作『底抜けてんやわんや』(1960年) なんか、マイアミ・ビーチのリゾートホテルに勤めるベルボーイをルイスが演じているんだけど、あの時代にサイレント映画の笑いに挑戦していたでしょ。すごいですよ。

──ちなみに、『底抜けてんやわんや』は志村さんのフェイバリットムービーの一本だそうです。監督も手がけた作品ですと、『ジキル博士とハイド氏』をベースにした『底抜け大学教授』(1963年) も有名ですよね。

ドリフターズの笑いとジェリー・ルイス

加藤 ジェリー・ルイスが冴えない教授と、発明したクスリの力でマッチョな二枚目に変身しちゃう、二役を楽しめる映画でした。僕ね、こう思うんですよ。チャップリンもそうでしたけど、ジェリー・ルイスも何をやっても憎めないコメディアンだったなあって。

人のことをけなして笑いを取るのではなく、彼自身が“ファニーな人物”をつくり込んで観客を笑わせていた。それが一番大事なところで、ドリフターズが目指していたのもそうだったんです。あえて憎まれ役を長さん(=いかりや長介) が引き受けて、あとのメンバー4人、ひとりひとりが常識外れのキャラクターで長さんに対抗してゆく。

例えば『8時だョ!全員集合』のコントで威張り散らす長さんの足元をすくったりすると、会場の子供たちはドーンとウケるわけですよね。長さんにチョッカイを出して、逃げ遅れて捕まって叩かれるのはたいてい僕か志村なんですけど、会場中が「逃げろ!」と応援してくれた。あれはとっても嬉しかったなあ。

──会場全体が感情移入してましたよね。ピンチになると「志村、後ろ後ろ」と声が上がったり(笑)。

加藤  そうそう、ああいうような一体感をつくりだすのが理想。そのためにはやっぱり、自分から率先してバカをやって人から笑われないと。

万人を笑わせたい思い

──なかには、「ジェリー・ルイスの笑いは低俗で稚拙」と批判する声もありますが。

加藤 それは違うな。まったく違うと思う。ジェリー・ルイスは「万人を笑わせたい」という気持ちでやっていますよ。何が低俗で何が高尚なのかはよくわからないけれども、見せる側としては、広くお客さん一般に響くものをやらないと意味がないんですよね。まあ、好き嫌いがあるのは仕方ない。最初から僕は、自分の好みとすごく合ってましたが。

──ところで、マーティン&ルイスのテレビ番組 『コルゲート・コメディ・アワー』(1950〜56年)をご覧になったことは?

鑑賞したラスベガスのショー

加藤 それはないです。映画だけですね。あと、ジェリー・ルイスのラスベガスでのショーを観たことがあります。5年ほど前(注:2012年頃)だったかな。得意芸のひとつ、あの「トタカタカタカタ、チーン!」ってタイプライターのパントマイム…… エア演奏」もやってくれまして、いたく感動しましたね。向こうの観客は大拍手で迎えてスタンディングオベーション。『底抜けオットあぶない』(1963年)という映画でその芸は初めて観たんですが、寸分たがわぬ動きでしたよ。

──ルロイ・アンダーソンの最もポピュラーなクラシック曲「ザ・タイプライター」ですよね。

監督はフランク・タシュリン。デパートに就職しようと面接に行き、待たされている間に披露する。同じタシュリン監督の『底抜けシンデレラ野郎』 (1960年) でもエア演奏がありませんでしたか?

加藤 ラジオから流れてくるカウント・ベイシー楽団の“Cute” に合わせて台所でね。クライマックスの舞踏会でのダンスシーンには、カウント・ベイシー本人も登場して豪華だったなあ!

──基本的にジェリー・ルイスは、歌も踊りも全部できますよね。最晩年は『底抜け大学教授』の舞台版『ナッティ・プロフェッサー・ザ・ミュージカル』の演出も手がけ、91歳になっても最後まで自らステージに立とうとしていました。

加藤 そうなんですってね。やっぱり自分から動いて汗をかき、笑いを生み出すことが大事。最後の最後までファンキーでカッコ良かった。僕もジェリー・ルイスみたいな歳の重ね方をしていきたい……改めて憧れの存在になりましたね。

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ジェリー・ルイス フィルモグラフィ

ジェリー・ルイス映画をピックアップ。『底抜け』シリーズ、多いです!

1950底抜け右向け!左出演
1952底抜け艦隊出演
底抜け落下傘部隊出演
バリ島珍道中出演
1953底抜けびっくり仰天出演
底抜けやぶれかぶれ出演
底抜けふんだりけったり出演
1954底抜けニューヨークの休日出演
底抜け最大のショウ出演
1955お若いデス出演
画家とモデル出演
1956底抜け西部へ行く出演
底抜けコンビのるかそるか出演
1957紐育ウロチョロ族出演・製作
底抜け一等兵出演
1958底抜け楽じゃないデス出演・製作
底抜け慰問屋行ったり来たり出演・製作
1959底抜け船を見棄てるナ出演
1960底抜け宇宙旅行出演
底抜けてんやわんや出演・製作・監督・脚本
底抜けシンデレラ野郎出演・製作
1961底抜けもててもてて出演・製作・監督・脚本
底抜け便利屋小僧出演・音楽・監督・脚本
1962底抜け棚ボタ成金出演
1963底抜け大学教授出演・監督・脚本
おかしなおかしなおかしな世界出演
底抜けオットあぶないの出演
1964底抜けいいカモ出演・監督・脚本
底抜け00の男出演・監督
1965底抜け男性No.1出演・製作・監督・脚本
ボーイング・ボーイング出演
1966底抜け替え玉戦術出演・監督・脚本
月世界宙がえり出演
1970罠にはまった二人・密輸ダイヤをひとり占め監督
1980底抜け再就職も楽じゃない出演・監督・脚本
1982キング・オブ・コメディ出演
ジェリー・ルイスの双子の鶏フン大騒動出演
1989私のパパはマフィアの首領(ドン)出演
1993アリゾナ・ドリーム出演
1995ファニー・ボーン/骨まで笑って出演
1996ナッティ・プロフェッサー/クランプ教授の場合原作・製作総指揮
2000ナッティ・プロフェッサー2/クランプ家の面々製作総指揮
20162016 ダーティー・コップ出演
轟

キネマ旬報2017年11月下旬号掲載記事を改訂!

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