これを三島由紀夫自ら監督し出演して作り上げた映画があります。28分の短編映画で、DVD化されています。
三島由紀夫に触れてこなかったとしても、この映画がどんなかを知れば、三島が猛烈に気になり出す不思議。
早速レビューをどうぞ!
様々に語られている三島由紀夫の一端にすぎないとはいえ…強烈すぎる問題作
映画の醍醐味のひとつに、いかにかっこよく死ぬか、というのがある。何度か俳優として映画に出た三島由紀夫は、最後の最後までこれに取り憑かれていたのではないか。
順を追ってみてみよう。
まず、原作者待遇で、大庭秀雄監督の『純白の夜』(1950年)のパーティーシーンや、西河克巳監督の『不道徳教育講座』(1959年)に作家役で特別出演。
「白夜の夜」は恋愛小説。「不道徳教育講座」は随筆です。
続いて、大映で主演作を撮ることに。『からっ風野郎』(1960年)。素肌に自前の皮ジャンパーをまとってイキがる、ルーザーなチンピラヤクザ役だ。
監督の増村保造は、東大法学部時代の同級生で(少々言葉を交わした程度の仲)、よかれと思い、この演技のできぬ文士を徹底的にしごいた。
それでも大してうまくはならなかったが、ラスト、銃弾を打ち込まれ、デパートのエスカレーターに倒れる犬死っぷりはなかなかカッコよかった。
ちなみに撮影中、頭部を打ち、脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、友人の外タレ、ロイ・ジェームス(小説「鏡子の家」のモデル・湯浅あつ子の夫)に「増村を殴ってきてくれ」と頼んだとか頼まなかったとか。
ともかくカッコいい死に方は、『からっ風野郎』でひとつ、三島の中に確立されたに違いない。ここでの俳優体験は小説「スタア」にも活かされた。
三島は、『からっ風野郎』に主演する以前からボディビルや剣道に励み、肉体的コンプレックスを解消していた(のちに、なぜ体を鍛えるのかと訊ねられ、「本当に切腹したとき、腹から脂身が出ないように」と答えている)。
そして満を持して、原作・脚本・製作・監督・主演の『憂國』へ。
二・二六事件を背景に、新婚の中将と妻が自害へと至る物語だが、全編にワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」を流し、陶酔のさなか、彼の考える一番カッコいい死に方=切腹がスクリーンに、ナルシスティックに刻まれた。
その間、写真家・細江英公の「薔薇刑」(1963年)の被写体にもなり、彫像さながらの肉体をすでに誇示していたが、深作欣二監督の『黒蜥蜴』(1968年)でも“人間剥製”でマッチョな死に方を達成。
映画俳優オブジェ論を掲げる、三島らしい役柄だった。
勝新太郎、仲代達矢に継いで3番目にクレジットされた五社英雄監督の『人斬り』(1969年)では幕末の刺客、薩摩侍の中田新兵衛を演じ、またも切腹シーンに挑戦!
彼はこう書いている。「橋本忍氏のすぐれたシナリオの中でも、ろくに性格描写もされておらず、ただやたらに人を斬つた末、エゝ面倒くさいとばかりに突然の謎の自決を遂げる、この船頭上りの単細胞のテロリストは私の気に入つた」(新潮社「決定版 三島由紀夫大全集35」)。
念のために記しておけば、仲代達矢は三島の好きな映画、小林正樹が監督した『切腹』(1962年)の主演である。
一方勝新は『兵隊やくざ』(1965年)ほかで組んだ“マスさん”こと増村保造をよく知る者であり、『人斬り』の現場では三島から『からっ風野郎』の逸話を聞いていた。
「“そんなんでお前、よく小説書けるなァ”とか“何だァ、その手は、何が欲しいのか乞食みたいな手をして”なんて罵声を飛ばされたらしい。
それ以来三島さんは“ヨーイ”の声を聞いただけで震えてしまうほど、マスさんとの経験が影響した。
ま、三島さんは悪い童貞破りをしまったんだな(笑)」(キネマ旬報での筆者のインタビューから)。
それが本当に悪い童貞破りだったのか、今では知るよしもないが、スクリーンを飛び越え、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で本当に割腹自殺し、三島由紀夫はカッコいい死に方を現実でも通した。
しかし『からっ風野郎』の主題歌を作曲した深沢七郎大先生(ギター伴奏も!)は、「質屋へ行ったことがないなんて人は、ダメ、アルバイトやらないなんて人は、ダメ。一日働いて、いくらってこと知ったら、三島由紀夫、ハラ切らないよ」(光文社「生きているのはひまつぶし深沢七郎未発表作品集」)と、この“切腹フェチ”を一刀両断しているのであった。嗚呼〜。
映画秘宝2006年6月号掲載記事を改訂!