読む映画リバイバル『許されざる者』(監督:李相日)

「業」を背負った“ダークナイト”がここに誕生

(2013年9月下旬号より)

「許されざる者」に挑んだひとつの道理

 観終わって、何とも釈然としない気持ちになった。砂を噛むがごとき、苦々しい感触が胸の奥に広がった。いや、無論それは、オリジナル版の時でもそうだったのだ。あの第65回米アカデミー賞にて作品賞をはじめ4部門に輝いた監督、主演クリント・イーストウッドの代表作(の一本)。はたまた、法や正義を楯にとり、無闇に力を行使することの欺瞞を描き続けるイーストウッドの真骨頂。「許されざる者」(92)とは観る者に爽快感など与えず、しかしその禍々しさのためにいつまでも心の中に沈殿し続ける、異形の映画だ。

 オリジナル版(以降、便宜上“イーストウッド版”と呼ぶ)と同じく1880年を舞台に選んでいるが、アダプテーション脚色も手がけた李相日監督は北海道という土地柄を活かし、先住民と日本政府の蝦夷開拓の歴史の上に「許されざる者」の物語を構築した。ヒグマの生息地でもある大雪山の麓、大自然のど真ん中。取材でロケ地に足を運ぶ機会があったが、物の怪が出てきそうな未開の地と、そこに建てられた巨大セットに圧倒された。完成作ではラスト、渡辺謙扮する主人公の釜田十兵衛はさながら、日頃、命のやりとりをしているであろう野生動物たちと、ほとんど同化してしまったように見えた。

 先んじて自警団思想の正当性に疑義を挟んだウィリアム・A・ウェルマン監督の西部劇「牛泥棒」(43)に強くインスパイアされているイーストウッド版は、「許されざる者とは一体誰なのか?」という問いを突きつけてくる。考えてみれば李監督は前作「悪人」(10)で、「悪人とは誰のことなのか?」をテーマの正面に据えていた。だから「許されざる者」に挑んだのは、ひとつの道理ではある。光と闇を作りだすシンボルであった「悪人」の灯台が、李相日版「許されざる者」では釜田十兵衛に姿を変えたのだ。幕末、徳川幕府の命に従い、幾多の志士たちを斬りまくって“人斬り十兵衛”と恐れられた過去を持ち、二度と刀は持たぬと決めたが禁を破り、それを手にする男。渡辺謙のキャリアは、俳優イーストウッドの歩みにも似て(世間一般には)最初にTVドラマでスターになり、しかもかたや西部劇、こなたは時代劇を生涯のジャンルとし、このジャンル内でもヒーローだけではなく清濁入り混じった役柄を引き受け、重層的なイメージを獲得してきた。だから共に、「許されざる者」の主人公を演じることができるのだが、李監督と渡辺謙は本作で、ヒーローかアンチヒーローか、だけではなく、十兵衛の中にあるものを音符として奏でない、つまり感情としてあまり表現しない芝居を狙っていたそう。確かに結果、十兵衛のその佇まい、背中、沈黙を通してイーストウッド版にも比肩する、強くも弱くもある、美しくも醜くもある人間の姿をスクリーンに刻みつけることに成功した。

イーストウッド版と比較される宿命

  が、不満がないわけではない。特に女たちの扱いだ。戸長と警察署長を兼任する、大石一蔵(佐藤浩市)が恐怖政治を敷き統治している町の酒場の女郎数名。なかでも無惨にも客に顔を切り刻まれる若い女郎なつめ(忽那汐里)の存在を、イーストウッド版以上に際立たせようとしているのだが、もうひとつ前景化してこない。「仇を討ってほしい」と復讐のため、賞金を集める女郎仲間も物語を駆動する軸となるのだが、こちらも怒りの強度が足りない。イーストウッド版でもそんなに描きこまれてはいないのだが、女たちの怨念の深度が違うのだ。その賞金首を討ち取ろうと町に入る、十兵衛のかつての仲間、馬場金吾(柄本明)と新参者の沢田五郎(柳楽優弥)。五郎はアイヌ出身の青年で、蝦夷開拓ならではのキャラクター、いわば「七人の侍」(54)における菊千代的な中間者であるが、この中間者たる面白さが十全に出ているかといえば、疑問だ。断っておくが、どちらも役者が悪いのではない。むしろ、忽那汐里も柳楽優弥も好演している。オリジナリティ部分の踏み込みの甘さは、アダプテーション=脚色者の“任”であろう。

 しかし、西部劇から近代の劇へ、武器が銃から刀になったのは功を奏している。人と人との距離が近くなり、斬りつけ殺めることの痛み、加害者としての感触は銃よりも強くなった。十兵衛は長年、刀から離れて生きてきたものの、再び手にすることになるが、李監督と渡辺謙は当初、大刀か小刀か、どっちを持つべきか迷ったという。大刀にすれば過去に戻ってしまうことへの逡巡が見えなくなる。最終的には自分の刀ではなく、たまさか誰かから奪い取った刀がそのまま、手入れもせず錆びたまま残っていた、とのシチュエーションになった。十兵衛がかつて人を殺めてしまった呪縛から逃れたことはない。彼は刀に執着はしていない。それはよく観れば、クライマックスの戦いでも綴られている“基本線”だ。

 こうしてたびたび、イーストウッド版と比較してしまったが、仕方ない。宿命である。だが、大いに比べていいと思う。それだけの作品に仕上がっているがゆえに。ラスト、イーストウッド版は砂を噛むがごとき、苦々しい感触が胸の奥に広がるが、監督自ら作曲したナンバー、アコースティックギターの調べに包まれ、黄昏の情景で終わっていく。李相日版は(岩代太郎の音楽とあいまって)、あたかも深い「業」を背負ったひとりの“ダークナイト”が今、そこに誕生したかのような印象を与えるだろう。勢い、作られるはずのない続篇、シリーズ化を夢想させるが、その後日譚は、観る者が実人生の中で引き受けることになる。十兵衛だけでなく、人は皆、“許されざる何か”を背負っているのだから――。

[キネマ旬報掲載]
●監督:李相日●出演:渡辺謙、佐藤浩市、柄本明、他●2013年●日本