復刻超ロングインタビュー【女優・岸田今日子】魅惑の表現者に聞いた、仕事と妄想的恋愛論

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館理人
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岸田今日子さん(1930年4月29日 – 2006年12月17日)の1996年のインタビュー記事を復刻します。

館理人
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場面が転換していく気配を漂わせたり、和ませたり引き締めたり。岸田さんが登場すると何かが起こります。そんな、観客をワクワクさせる女優さんでした。

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このインタビュー記事にも、何か心が持っていかれる、そんなマジックが掛けられている感じがありますヨ。

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岸田今日子・インタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

三島由紀夫が演出した舞台『サロメ』のヒロイン

岸田 いまは古臭いものの代名詞となっている新劇が、エネルギーに満ちていた時代ですからね。ただもう「舞台に出てさえいれば楽しい」という青春真っ盛り。なんだか仕事と遊びの区別がつかない、そんな時代でした。

 日本の演劇界が2度目の「青春時代」を謳歌していた1950〜60年代に、まさに青春時代を過ごされていた岸田今日子さん。戦後のカゲを拭い去って、そこは映画や音楽、文学にいたるまで多ジャンルにわたる若き才能たちの交流の場であった。

 舞台女優としての彼女の年輪には、時代の寵児たちとの出会いが幾重にも刻まれている。

 たとえば1960年、東洋と西洋の不思議な結合である美女を演じた文学座時代の『サロメ』。演出はあの作家の三島由紀夫で、彼をして「僕のイメージにあるサロメとぴったり」とまで言わしめた、それは幸福な出会いだった。

館理人
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『サロメ』はユダヤの王女サロメの恋の悲劇です。

岸田 演出家としての三島さんは、いつもとは違ってましたね。もうあんな真面目な三島さん、見たこともないってくらいすごく真面目でした。いつもはバカ話の大好きな方でしたから。なんていうんでしょう、『サロメ』っていうのは三島さんが少年時代に読んで、大人になったらいつか自分で演出しようと心に誓っていたものらしいんです。

私は私で少女時代に、ビアズレーの挿絵も含め不思議な本として読んでいまして。まだ女優になるなんて思ってもみなかった頃ね。でも、たまたまそういう少年と少女が大人になって出会って、演出家と女優という関係になったんですから、因縁があったのかなあって思います。

館理人
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ビアズレー(ビアズリー)はイギリスのイラストレーター。印象的なブックカバーや挿絵をたくさん残しています。

俳優・仲谷昇との結婚

 出会いといえば、文学座の1年後輩、そして新劇界のおしどり夫婦とも呼ばれた、仲谷昇さんとの結婚もそのひとつに数えられる。のちに岸田さんが文学座を脱退することになり、1963年に現代演劇協会付属劇団「雲」、また1975年には演劇集団「円」を設立したときも行動を共にしてきた同志である。

 それにしても役者同士の結婚。さぞかしマスコミの騒ぎぶりは当時も大変だったのでは? と話題を向けてみると、

岸田 いえいえ、ぜ〜んぜん。同じ劇団の仲のよい者同士が結婚したってくらいのカンジで、友達たちが祝ってくれた程度のものでしたよ。

 と、あっさりしたもの。しかも──。

岸田 結婚しても、家にはいろんな友人がしょっちゅう遊びに来ていましたからねえ。そうそう、早稲田大学のアイスホッケーの選手たちがよく遊びに来ていて、ごったがえしてました。なんかガチャガチャと合宿所みたいに(笑)。

アイスホッケー観戦はチャイナ服

 役柄のイメージから想像するに、もっと芸術家然とした家庭かと思っていたのだが、アットホームで、社交場のような空気をかもしだしていた模様。岸田さんとアイスホッケーの選手たち、という組み合わせがなかなか意外で面白い。当時はよく夫婦揃って観戦していたのだそうだ。

岸田 アイスホッケーってとってもスピーディで、面白いスポーツだと思います。派手なチャイナ服なんか着て行っちゃってね。もちろん他にはそんなお客さんはいなかったですけど(笑)、その格好で「行けー、やれー、ぶつかれー」なんて大声を張り上げてたわけですよ。それもシラフでね。なんかスポーツが好きというのとはまたちょっと違ってスリルを求めてるというか、選手たちに反則や、ケンカすれすれのところをやらせたかったんですよね(笑)。

 あのアルトボイス (ムーミンの声!)の彼女が勇ましく怒鳴るなんて、またまた意外なエピソード。あまり感情の起伏がなさそうな方なのに。ところがある雑誌企画の座談会では、岸田さん、こんな大胆な発言も残している。

男が自分のために決闘してくれるっていうのは……最高の美学じゃないかと思うわ

妄想=想像力と創造力

 さすが男たちをトリコにしてやまぬ『サロメ』のお言葉。これは吉行和子さんと冨士真奈美さん、両親友を迎えての「婦人公論 」(1988年11月号)誌上の座談会でのこと。 「女ざかりを惑わす七つの大罪」というタイトルのもと、好きな嫉妬、心地よかった嫉妬について質問されて答えた、岸田さんの「問題発言」であった。

 先ほどのエピソードと、この問題発言との関連についてきいてみると、

岸田 イヤんなっちゃうわねー、私。いい加減なことばかり言っててねえ……。

 ちょっと照れて苦笑する岸田さんではあったが、次のように言葉を続けた。

岸田 でも、確かに選手たちが自分のために戦っているような気がしてたのかもしれませんねえ(笑)。いい気なもんですよ、いま思えば。え、実際の恋愛で私のために決闘? ありませんよー、そんなこと(笑)。ないから想像して言っているんです。ホント、私ってね、すごーく妄想癖があるんですよ。

エッセイ、童話、演技

 岸田今日子さんを語るうえで欠かせないのが、この妄想、という言葉である。類いまれなる想像力の羽を伸ばして、彼女の頭の中にはいつも様々な妄想が渦を巻いているのだという。

 なるほど、ディテールから物事を眺めてはイメージの連想に耽り、繰り広げられてゆく果てしないひとり遊び。エッセイや童話集などでも実際触れることのできるその妄想は、ときにかわいく、ときに残酷で、そしてエロティックだ。しかも当然ながらそれは、岸田さんが役を演ずる際の、方法論としても重要なポイントのよう。

岸田 うん、結局芝居というものも妄想の賜物だと思うんですよ。ひとつの台本をいただいて、そこから自由に役柄の背景について思いを巡らせてゆくっていうのはね。たとえば首に包帯を巻いているおばあちゃんがいたとするでしよ。と、それは風邪をひかないためのスカーフの代わりなのかもしれないし、いや、もしかしたら包帯の下には実はキズが隠されているのかもしれない。

するとそのキズは自分でつけたのか、それとも人がつけたのか、もしかしたらもう死んでる人なのかってところまで妄想が進んでゆくんですよ。与えられた役柄に対してそういう風にアプローチしていく面白さがあるからこそ、ずーっと芝居をやってきたんですよね、私。

役柄の肉付けの秘密

 俳句もたしなむ (多種多芸である!)岸田さんの雅号をたずねると、眠る女と書いてずばり「眠女みんじょ」というのだと。思わずナットクのネーミング。普段から、静かに眠る女のごとくたたずみながら、しかし自由奔放な夢の旅人に変わる彼女にふさわしい称号だ。しかもあの、独特のアルトボイスに耳を傾けていると、人はいつのまにか岸田さんの夢の世界へと誘われ、引き込まれている自分を発見する。それが女優・岸田今日子の力である。双子の老婆役に挑んだ映画『八つ墓村』に話が及ぶと、早くもあたりに彼女の新たな妄想が漂いはじめた。

岸田 今回の『八つ墓村』では、市川 (崑)監督に「赤い襟の肌襦袢を着てもいいかしら」って聞いたのね。この不気味な双子の老婆にも当然娘時代があったわけですよ。それからずーっと結婚もしないで呪われた村にいる。赤い襟の肌襦袢っていうのはだいたい水商売の女の人が着るんだけど、そういうものを着てみたいと思ったことが娘時代にあったかもしれないなあって。

毎日が退屈で、娼婦になる妄想を抱いたこともあったかもって。実際にはできないからこそ衣装だけマネをする。それで着てみたら今度はカラダから放せなくなっちゃって、おばあさんになっても赤い襟の肌襦袢のままでいる。

そんなイメージが湧いてきて、ここまで説明はしなかったんですけれど、監督はどう感じたのか、いいよ、って言っていただいて。見た目は不気味な老婆にすぎないんですが、私の中ではそんなストーリーがあって演じている。映画をご覧になる方はそこまでわからないでしょうけれど、なんとなく老婆の境遇の哀しさみたいなものも感じていただければ嬉しいですね。

終わらない好奇心

 面白いことなら何でもやりたい、と彼女はそう言った。マジメな新劇女優なんて思われるのはご免で、「何なのこの人?」と言われ続けるのが本望なのだと。それは昔からのことであり、これからもきっとそうであろう。時代の寵児たちと渡りあってきた、個性派ならではの言葉。『八つ墓村』で名探偵・金田一耕助に扮した豊川悦司のことを「あの人は風みたいな人ね」と評し、テレビ番組でダウンタウンやとんねるずと共演するときのスリルも「なかなか」と話す。

 一方で気鋭の戯曲家・太田省吾の舞台を持ってアメリカに飛び、さらには戻ってきての次の新作劇が早くも待ち遠しそうな様子。その好奇心は終わることを知らない。「驚くことが大好き」なのだ。自分がドキドキ驚きたいし、人もドキドキ驚かせたい。面白そうと思ったら腐りかけた橋でも叩かずに渡るそう。

 でも、ホントに危険な目にあったらどうするのだろう。と心配してみると、

岸田 それはそれでしょうがないわね。

 岸田さんは、サラリと言ってのけてしまった。そんな彼女であるからこそまわりには、男女を問わず、カタになどとらわれない、楽しい友人たちが自然に集まってくることになる。

岸田 私、男でも女でもあまり付き合い方が変わらないんだけど、友達といっても会うときにはちょっとドキドキするというか、そういうのがなきゃイヤなんですよ。男と女の場合はいつしかそれが恋人同士になったりするわけで、でも、そのドキドキがだんだんとなくなっちゃったりする。これは若い頃には思いもよらなかったことでした。

結婚、離婚、友情…妄想的恋愛論

 仲谷氏との23年間の生活にピリオドを打ったあと、岸田さんは再婚をしていない。「男と女の間にも友情は成立する」と言い切る彼女にとって、結婚という形式的なスタイルはもはや意味をなさないもののようなのだ。そこで語られるのが妄想的恋愛論、すなわち片想い、の魅力だった。

岸田 恋愛っていうのはいつか必ず終わるものだと、私は思っているんですよね。でも、友情を成り立たせるために相手と別れることがある。せっかくのいい関係を終わらせたくないから片想いのままということもある。そんなの少女趣味だ、恋愛は理性的に考えるものではないって言われたらそれまでなんだけど、片想いはいつまでも相手にドキドキできるでしょ(笑)。

そうねえ、ある男友達とドライブしていて、彼が道がわからなくなって地図を出したの。で、外に出て、道の上にざっと広げて眺めた姿が意外と男っぽくてステキに思えたりする。そんなところにいまもドキドキしちゃうんですよね。

 あっという間の1時間半。こちらも知られざる岸田さんの素顔にドキドキの連続だったことを最後に伝えると、

岸田 ああ、よかった。じゃあ、私たちも友情を保ち続けましょうね。

 と、またあのアルトボイスが、耳の中で響いた。

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岸田今日子・年譜

1930年4月29日 、東京都杉並区に生まれる。本名同じ。父は劇作家の岸田国士。姉の椅子は長じて詩人に。女学校1年生のとき母を失い、姉妹2人で長野県に疎開する。

1946年、東京に戻り、自由学園高等学校に入学。彫刻家本郷新の担当した美術の講義に触発され、父の蔵書で戯曲に親しみ、卒業と共に文学座付属演劇研究所を受験。

1950年、舞台美術志望で研究所入りを果たす。父の反対にあい、一度だけとの約束で『キティ颱風』で初舞台を踏む。その魅力が忘れられず俳優になることを決意!

1954年、舞台稽古中に父が倒れ、翌朝死去。仲谷昇と結婚。1959年、『薔薇と海賊』で岸田国士賞を受賞。1960年『陽気な幽霊』でテアトロン賞受賞。

1962年、『秋刀魚の味』『破戒』の演技により毎日映画コンクール、ブルーリボンの助演女優賞を受賞。1964年『砂の女』では初主演し、作品ともども世界中で絶賛される。

1963年、文学座を脱退。「雲」を創立し、『聖女ジャンヌ・ダーク』に出演。芸術祭賞を獲得する。以後、シェイクスピアから日本の作家まで意欲作で芸域を広げる。

1969〜1970年、1972年、1979年のテレビアニメ「ムーミン」で主人公ムーミンに声をあてる。

1974〜1975年、テレビドラマ『傷だらけの天使』に出演。

1975年8月、「雲」を脱退。演劇集団「円」を創立。舞台では別役実作『壊れた風景』、三島由紀夫作『熱帯樹』、そして映画にと、多彩で卓抜した演技を見せ、円熟期に突入。

1976年版の市川崑映画『犬神家の一族』に出演。

1978年、23年間連れ添った仲谷昇と離婚。一人娘のまいに自ら創作した童話を聞かせていたことから、女優業のかたわら、LPや書籍で童話を発表し、多才ぶりを発揮。

1982年、増村保造監督の映画『この子の七つのお祝いに』での怪演が話題に。

1996年、映画『学校の怪談2』では校長先生役に。舞台と並行して、映画では『どら平太』(2000年)、『助太刀屋助六』(2001年)、『同じ月を見ている』(2005年)などに出演。

2006年版『犬神家の一族』では1976年のオリジナル版で演じた琴の師匠役にキャスティングされていたが、体調不良により配役が変更となった。同年12月17日、死去。

轟

PINK 1996年7月号掲載記事を再録です。

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