蔵出しインタビュー/俳優【夏木陽介】が俳優【佐藤允】を語る〜東宝アクションの思い出と共に

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館理人
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佐藤允(さとうまこと)氏の追悼記事として、夏木陽介氏に思い出を語っていただいたインタビュー記事を蔵出しです。

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インタビューは2013年のもの。夏木氏はその後2018年に亡くなられました。役者・佐藤充についてはもちろん、60年代の東宝スタジオの様子もよくわかる、貴重なインタビューです。

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洋画的な男騒ぎのするキャラクター

(取材・文/轟夕起夫)

ーー夏木さんが佐藤允さんといちばん最後に会われたのは……いつでしたか。

夏木 あれは2010年に銀座シネパトス(※映画館)で僕の映画の特集が組まれて、そのときトークショーのゲストにマコちゃん(佐藤充)が来てくれたんだけど、それが最後でしたね。その前だと、東宝の同友会に出席していたんだよなあ。

ーー同友会でのご様子は?

夏木 元気がなかったんだ。「マコちゃん、何か喋ってよ」と頼んだら、ステージにやっと上がって、乾杯の音頭だけしてくれた。でもシネパトスのトークショーではとても元気だったんですよ。

それから2年が経って、去年の10月のこと。北九州って映画がとても盛んなところなんですが、若戸大橋開通50周年記念で「天本英世記念館を建てたい」って話が僕のところに来ましてね。天本さん、福岡県若松市の出身なんだよね。それでトークショーに呼ばれたんだけど、天本さんというとマコちゃんと仲が良くて「俺よりマコちゃんのほうがいいんじゃないですか」って勧めたんです。マコちゃんは佐賀県出身で、天本さんともよくツルんでいたので。そうしたら「すでに前に来てもらったことがある」って。

ーーほお〜。それで夏木さん、どうされたんですか?

夏木 結局、開通当時の若戸大橋が映っていて、僕と天本さんが共演している『宇宙大怪獣ドゴラ』(1964年)を上映して、トークもやりました。で、帰って来てからマコちゃんのことが気になってね。電話し続けたんだけど出ないんですよ。それで息子さん……映画監督でもある佐藤闘介くんにしてみたら、こちらも繋がらなくて。

1ヶ月ほど経ってからかな、やっと闘介くんと連絡がとれたら「実は父は、散歩に出て倒れて脳挫傷になり、入院していたんです」と。しかも入院した後、ノロウイルスにかかって2週間入院し、闘介くんが会いに行ったらマコちゃんは、彼のことを誰だか分からなくなっていたって。

もう心配でね、闘介くんとは時々電話で話していたんですが、先日、1月7日に「昨年の12月6日に亡くなりました」と闘介くんから知らせがあって、この話はまだ誰にもしていないとのことだったので、じゃあ僕から同友会のほうに連絡していいかと確認し、そうしたらマスコミにも伝わったという流れなんですね。

当然、「偲ぶ会」をやろうということになったんですが、ただ、今って同友会のメンバーも元気な人が少なくなって、それで寒い間は集まりにくいだろうからと、3月のアタマくらいに僕が音頭取りになって開こうかと思っています。

ーー佐藤允さんといえば、やはりまずは岡本喜八監督とのコンビ作。お2人とも『暗黒街の顔役』(1959年)に助演され、続く『独立愚連隊』(1959年)では佐藤さんが主演、夏木さんは少尉役に。あの佐藤さんの、男騒ぎのするキャラクターは日本映画では画期的でした。

夏木 そうですね、舞台設定が中国大陸で、戦争映画ではあったけど、言ってみればあれは西部劇でしたからね。

ーー他の俳優さんとは違う匂いがありました。精悍な顔つきからして。

夏木 佐賀訛りが強く、風貌も独特で、当時、和製リチャード・ウィドマークと呼ばれてました。

館理人
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リチャード・ウィドマークは『太陽に向かって走れ』などに出演しています。

僕とマコちゃんが東宝に入った頃、「明るく楽しい東宝映画」というキャッチフレーズどおり、みんな、模範生、優等生みたいな人ばかりだったんですよ、女優さんも含めて。今でも付き合いのある達っちゃん、江原達怡はね、「佐藤允と夏木陽介が来たときは東宝はどうなるかと思った」と感じたそう。東宝カラーから外れて、マコちゃんはああいう風貌だし、僕はスピード狂だったから、「ヤバいのが来ちゃったなあ」って(笑)。この間も会ったら、そう言ってたな。

ーーそれだけインパクトが強かったと。

夏木 そうかもしれないね、僕なんか態度もデカかったから(笑)。ほかにマコちゃんとやった喜八作品は『どぶ鼠作戦』(1962年)も忘れ難いな。以後も谷口(千吉)さん、福田(純)さん、坪島(孝)さんらがこの『作戦』シリーズを監督されて、東宝にそれまでなかった路線ができましたよね。

ーー洋画的な感覚の日本映画が!

夏木 和製リチャード・ウィドマークというのも分かるけど、僕からしたらマコちゃんにはジャン=ポール・ベルモンドみたいな線もあって、そのタイプの映画があれば、また仕事の範囲が広がったような気がするんですよねえ。東宝で洒落たコメディ・アクションもやって欲しかった、マコちゃんには。

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東宝アクションの顔へ

ーーキャリア的には、佐藤さんのほうが少しだけ東宝の先輩ですよね。

夏木 そう。僕が1958年に東宝に入ったとき、すでにマコちゃん、いたんですよ (=56年入社)。ただ、まだあまり活躍はしてなかったと思う。だからね、僕は同い年くらいかと思って、みんなが「マコちゃん」と呼んでたから、僕もそう呼んでたんだけど、後から聞いたら僕より2歳上だった。だからといって「佐藤さん」と改めるのもおかしいので、まあいいやって、“マコちゃん”で通してたんだけど。

ーーデビューされて当初は夏木さんと佐藤さん、それから瀬木俊一さんとのトリオで“スリー・ガイズ”というキャッチフレーズで売り出されましたよね。夏木さんの主演作『青春白書 大人には分らない』(1958年)では、夏木さんは大学生バンドのドラマー、佐藤さんはピアノを担当、瀬木さんはカメラマン役で出ていました。

夏木 “スリーガイズ”ってあったね (笑)。でも瀬木俊一が1960年には俳優を引退し、宣伝部に移っちゃったんだよね。それから加山(雄三)が入って来て、『紅の海』(1961年)でまたトリオが形成されるんだけど。

ーー海賊船と闘う海洋アクションですね。3人が揃うとそれは豪華な画ヅラでした! 航空活劇『紅の空』(1962年)も作られましたが、夏木さんと佐藤さんって役柄的には戦闘機乗りも多かったような。『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960年)に『太平洋の翼』(1963年)、さらには『青島要塞爆撃命令』(1963年)などなど。

夏木 多かったね。あと、僕がカメラマン役の『大空の野郎ども』(1960年)ではマコちゃん、パイロット役だった。

ーー夏木さんは車から何から、メカに詳しい方ですが、佐藤さんは?

夏木 いやあ、マコちゃんはそうでもなかったんじゃないかな。

ーー『今日もわれ大空にあり』 (1964年)も航空自衛隊浜松基地を舞台にし、そこのエリート集団・タイガー隊の隊長役が佐藤さんでした。

夏木 『大空の野郎ども』『青島要塞爆撃命令』、それと『今日もわれ大空にあり』の監督は“パレさん”、古澤憲吾だったんだけど、パレさんのやつではマコちゃん、可哀想だったなあ。僕がNGを出すと「佐藤くん、君は何をやってんだ!」ってなぜか怒るんだ。「パレさん、違うよ、俺のNGだよ」って説明しても、「いや、佐藤くんの芝居がダメ、魂が入ってないから夏木くんが影響を受けたんだ」って。毎回そうで、「マコちゃん、ごめんね」って謝ると「いいよいいよ」って。あまりに理不尽で、時には「しっかり頼むよ、俺が怒られるんだから」って泣きが入ったこともあったけど(笑)。

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息抜きの麻雀、パリ…

ーー撮影の合間は、どんなふうに過ごされていたんですか。

夏木 みんな、酒かトランプか麻雀ですね。たとえば『太平洋の嵐』のときは、千葉県の勝浦海岸ロケで1ヶ月間、逗留したんだけど、当時夜間撮影ってあまりなかったんですよ、ライトの持ち込みの関係で。日が暮れ始めて“色温度”が下がる5時頃になると終わり。で、何もやることないので、マコちゃんは酒を飲みながら麻雀をやってた。

ーー佐藤さんの腕前は?

夏木 酒を飲んでやるから、どちらかというと負ける率のほうが多かったな。勝つとオーバーに「ウワー、上がったぞ〜」って、実に楽しそうだった。そうだ、『太平洋の嵐』はね、クランクインの日、空母飛龍が実際、ハワイ沖に攻撃に行った時間に合わせてロケをやったんですよ。朝4時出発でね。夜が明けてきた時間が狙い目で、そうしたら20機ほど並べてある飛行機のひとつにエンジンがかからない。で、エンジニアの人がモーターを回そうとしてプロペラに挟まれて、指を怪我したりして撮影中止になったんですね。

それから1週間、毎朝4時に起きて撮影に出るんだけど、なかなか上手くいかずやっと1週間目にそのシーンが撮れた。毎日朝早くに出ていって夕方5時には帰って来る日々。で、先程言ったみたいに麻雀を始めちゃうわけです。朝までやって、本来なら出発前にメイクをするんだが、「いやもう、昨日塗ったからいい」って俺もマコちゃんもみんな、風呂にも入らず着替えもしないで1週間、扮装のままで、撮影と麻雀の毎日だった(笑)。

そういう経験があったから、俺、後にパリダカへ行ったとき、10日くらい風呂に入らなくてもぜんぜんOKだったね。そういえば、パリダカの頃、マコちゃんとはニアミスしてるんだよ。

ーー夏木さんは1985年、パリ・ダカールラリーに参加したのを皮切りに、1986年には監督兼ドライバー、1987〜93年は「チーム三菱・シチズン夏木」の監督も!

夏木 マコちゃん、フランスがすごく好きでね、仕事の合間には旅行で訪れていたんです。僕がパリダカに出ていたころ、マコちゃんはパリに住んでいたこともあって。もし住所が分かっていれば、遊びに行って、もっといろんな話ができたのになあって思いますね。

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役者・佐藤允

ーーさて同じ役者として、佐藤さんのどんなところに魅了されていましたか。

夏木 一緒に出た映画で言うと、時代劇でね、『野盗風の中を走る』(1961年)という稲垣浩監督の作品があるんですが、最後、俺たち野盗がみんな、村人のために死んじゃって、マコちゃんの役だけ玉砕戦には加わらず、村に戻って来る。で、“幕引き”の役割を担わされているんだけど、その芝居は今の目で見ると舞台劇に近いんだよね。とても繊細なんだ。ときどき、随所にそういう「ああ〜、舞台の俳優さんだな」って感じさせるところがマコちゃんにはこの映画だけではなく、ありましたね。

ーー 観る者をグっと引き込む役者。

夏木 そう、あそこで余韻を持たせて、一段と作品が締まりました。もともと俳優座の出身ですからね、仲代達矢や中谷一郎、宇津井健、佐藤慶といった錚々たる俳優たちが同期生。マコちゃんは芝居も素晴らしかったし、自分の “見せ方”も巧かった。

ーー最後の共演作は映画版『これが青春だ!』(1966年)で、ライバル校のラグビー部の顧問役が佐藤さんでした。

夏木 クライマックスの試合で出会うというね。あれは宝塚映画でしたよね。あと、役者としてスゴかったのは、どんなに暑かろうが寒かろうが、弱音を吐かなかったこと。東宝は三船さんからの伝統でセリフは事前に全部覚えておく。だから誰も台本を持たずに現場に入る。マコちゃんもこれを徹底させていました。理不尽なパレさんの現場でも、ほとんど耐えて跳ね返してましたからね。ただね、例外があって、僕が『なつかしき笛や太鼓』(1967年)で宝塚映画に行ってたときかな。多分あのころだな、マコちゃんは宝塚でテレビの戦争モノ、『遊撃戦』(1966〜67年)をやっていたんですよ。

ーー岡本喜八さんが監修・脚本で、竹林進さんと山本迪夫さんが監督をした戦争アクションドラマですね。『独立愚連隊』のテレビ版的な企画で、佐藤さんの役もそれに準じていました。

夏木 うん、でね、宝塚って川を挟んで、その川岸に温泉と旅館が並び、対面が宝塚歌劇、撮影所と動物園しかなくて。マコちゃんとはちょっと離れたホテルで、朝、車が迎えにくるんだけど、「いや、歩いて行くからいいよ」って僕は動物園の中を通って撮影所に行ってたんです。動物園にはマレー熊がいてね、夜半に遠くから雄叫びが聞こえてきた。それでホテルの給仕さんに「風向きによって、マレー熊の声が聞こえる日があるよね」って言ったら、「何をおっしゃるんです、あれは佐藤允さんが酔っぱらって川を走り回ってるんです」だって。きっとマコちゃん、ずーっと拘束されて、そうやってストレスを発散してたんだな。

ーーこれまた貴重なお話を! ところでたしか、夏木さんはお酒はいっさい飲めなかったですよね。

夏木 うん、マコちゃんは酒飲みだったけど、でも仲が良かったんだ。戦争映画だと御殿場ロケが基本で、『遊撃戦』じゃないけど、やはり1、2ヶ月は拘束されるわけですよ。するとどうしても憂さ晴らしがしたくなる。『独立愚連隊』のときかな、「マコちゃん、どうだい、明日は天気が悪そうだからちょっと沼津に飯でも食いに行こうか」って、俺とマコちゃんと平田昭彦さん、堺左千夫さん、江原の達っちゃんとか7、8人で車2台出して、沼津に行っちゃったんですよ。

で、「明日は雨だから帰るのよそうや」ってホテルに泊まったら、朝、御殿場のほうは晴れているって分かって、でもこれだけ主要メンバーがいないと、とても撮影にはならないはず(笑)。戻りましたけどね、頃合いを見計らって。

ーー迎える側の岡本喜八監督は?

夏木 怒りはしなかったけど「頼むよ、撮影やらしてよ」って(笑)。谷口さんもそうだったな、『紅の海』のロケ地・下関から福岡まで行っちゃって、朝帰ってくると、谷口さんが玄関で新聞読んでるんだよ。「また朝帰りかよ、頼むよ、今日天気が悪くなったらお前のせいだぞ」って言われて、マコちゃんと2人でハイハイって(笑)。

ーー「行こうよ」と誘うのは夏木さん。

夏木 もっぱら俺だね。

ーー「いいよ」と応えるのが佐藤さん。

夏木 そう。映画ではマコちゃん、愚連隊みたいな役ばかりだったけど俺のほうがムチャクチャだったな。

ーー佐藤さんはそんな夏木さんにいつも付き合う良き相棒だった、と。

夏木 うん。喜んで付き合ってくれたなあ。本当に、いいコンビでしたよ。

(取材・文/轟夕起夫)

【佐藤允 さとうまこと プロフィール】

1934年〜2012年。佐賀県生まれ。高校卒業後の1052年俳優座養成所に入団。56年東宝入社。同年『不良少年』で映画デビュー。『俺にまかせろ』(58年)、『独立愚連隊』(59年)の主演をはじめ、出演作に、『独立愚連隊』(59年)、『日本のいちばん長い日』(67年)、『トラック野郎 御意見無用』(75年)、『セーラー服と機関銃』(81年)、『ショムニ』(98年)など。テレビドラマ出演も『夜明けの刑事』(76〜77年)、『教師びんびん物語』(88年)など多数、バラエティ『土曜イレブン』(73年)の司会も。

【夏木陽介・なつきようすけ プロフィール】

1936年〜2018年。東京生まれ。「ジュニアそれいゆ」のモデルを経て1958年東宝入社、同年『若い獣』で映画デビュー。主な映画出演作に『暗黒街の顔役』 (59年)、『独立愚連隊』(59年)、『用心棒』(64年)、『夜盗風の中を走る』 (61年)、『紅の空』(62年)、『青島要塞爆撃命令』(63年)、 『三大怪獣地球最大の決戦』(64年)、など。テレビドラマ『青春とはなんだ』(65年)、の野々村健介役でも一世を風靡、『東京バイパス指令』(68〜70年)、 『荒野の用心棒』 (73年)、『Gメン’75』(75〜79年)などでも活躍する。パリ・ダカールラリーに出場するなどラリー・ドライバーとしても名高い。

轟

映画秘宝2013年4月号掲載記事を改訂!