一方で雷蔵は現代劇にも多く主演しています。ここでは、出演した現代劇映画をたどって、役者・市川雷蔵の魅力をご紹介です。
現代劇のめくるめく雷蔵七変化
市川雷蔵の現代劇を観ると、ソル・ギョングを思い出す。顔が似ているだけではない。雷蔵もまたギョングさながらのカメレオン俳優であったからだ。
ソル・ギョングは『力道山』で力道山を演じた韓国の俳優です。
この希代の時代劇スターは、(数は多くはないものの)現代劇においても素晴らしい作品を残している。
フィルモグラフィー上、まず目を惹くのは『薔薇いくたびか』(1955年)だが、これは日本舞踊の家元(長谷川ー夫)の高弟役で助演した大映オールスター映画。
長谷川一夫もスター俳優!
本格的な現代劇登板は『炎上』(1958年)からである。監督は市川崑。実際の事件に材を得た三島由紀夫の「金閣寺」を映画化した野心作で、雷蔵は国宝寺院に火を放つ(吃音の)青年僧というリスキーな役柄。
当然坊主頭になり、しかも27才にして見事パラノイアックな“童貞野郎”の面持ちに。
その劇中のパンキッシュな青春ノイローゼぶりはキネマ旬報、ブルー・リボン等の主演男優賞を彼にもたらし、海外でもイタリアの映画誌「シネマ・ヌオボ」で最優秀男優賞に輝いた。
『炎上』のレビューはこちら!
続く自らの企画『ぼんち』(1960年)でも周囲の予想の及ばぬソフトエロ方面に進出。“ぼんち”とは関西の良家の息子のことで、映画は船場の足袋問屋のぼんぼんが、女道楽放蕩三昧、商魂たくましき一代記(22〜57才まで!)を展開し、雷蔵はソフィスティケートされた本宮ひろ志的世界で粋に遊んでみせた(原作は山崎豊子だけど)。
お次は一転、島崎藤村の社会派文芸作『破戒』(1962年)の主人公、被差別部落出身の小学校の教師役。素性をおし隠して生きるも、最後は生徒たちにすべてを告白するというビターな味わいが実に香ばしいドラマだった。
以上、市川崑監督と組んだ振幅激しい3本であったが、三隅研次監督が手がけた『剣』(1964年)の超ストイツクなキャラクター“国分次郎”も忘れ難いだろう(京都市民映画祭主演男優賞受賞)。
大学の剣道部の武道ひとすじに生きる主将で(当時33才で詰め襟姿も!)、描かれるその尋常ではないラストの“選択”は、原作者・三島由紀夫のそれを先取りしていた、とも言えよう。
かと思えば、監督の池広ー夫が考案、元海軍士官がヤクザの跡目をつぐ任侠映画『若親分』シリーズ(1965〜67年)、日本陸軍諜報員養成機関のクール&ダークネスなスパイワールドに迫った『陸軍中野学校』シリーズ(1966〜68年)など、エンタメ作も時代劇の合間を縫って発表された。
とりわけ増村保造監督による『陸軍〜』第1作、任務のため恋人(小川真由美)をも非情に殺し、しかし「私は雪子を殺した。〜わたしもスパイだった。わたしの心も死んだ・・・・・」と持ち前の倍音効果のある声で呟くシーンは圧巻だ。
増村保造監督については、こちらに記事があります!
彼を知る映画人たちはよく、オフのときの彼を「サラリーマンのように目立たなかった」と述懐している。
たしかに普段はメガネをかけ、平々凡々たる容姿だったが、メーキャップをするとたちまちスターに化けた。
そんな光と影の体現者、雷蔵の現代劇一番人気はこれだと思う。
ハードボイルドでノワールな森一生監督の『ある殺し屋』(1967年)。表向きは小料理屋の主人だが、裏は凄腕の殺しのプロ、その名は“塩沢”(戦中派人間)。
続編の『ある殺し屋の鍵』(1967年)では名前が“新田”、設定が“日本舞踊の師匠”に変わったが、針を使ってターゲットを仕留める趣向は同じ。のちの「必殺」シリーズの先駆的キャラだった。
遺作『博徒ー代 血祭り不動』(1969年)の撮影時はもうガン末期で、殺陣は不本意ながらスタントが立てられた。
せめて自身の企画、増村保造監督の『千羽鶴』で生涯を締め括りたかったろうに(代役は平幹ニ朗)。
まぎれもなく、希代のアクターであった。
映画秘宝2004年10月号掲載記事を改訂!
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