読む映画リバイバル『アメリカン・スナイパー』

イーストウッドとスローモーション

(2015年4月上旬号より)

「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」

クリント・イーストウッドが監督した「アメリカン・スナイパー」は、観終わって寺山修司のかの有名な短歌を思い起こさせる。英雄と称えられた狙撃兵クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)の生涯を通して、国と個人と戦争の関係を改めて描いたイーストウッドの意図は明白だ。

巷にはすでに様々な論が出揃っているはずなので、本稿ではひとつのシーンにこだわってみたい。終盤に置かれたクリス・カイルとシリア人狙撃手ムスタファ(サミー・シーク)との一騎打ちの場面である。イーストウッドは大詰めで、両者の一連の動作をハイスピードカメラで撮影し、手際の良い編集で繋いでみせた。がしかし正直、(ここだけは)違和感があった。全体の意味内容から考えると「どうも浮いてるぞ」と思ったのだ。

振り返ればイーストウッドは再三「ここぞ!」というシーンでスローモーションを好んで使ってきた。例えば、「インビクタス/負けざる者たち」(09)のラグビーW杯の決勝戦。ひとつひとつのプレーや満員のスタジアムの反応を劇的に液状化させ、文字どおり“融合”の主題を表現した。「ヒア アフター」(10)では大津波に飲みこまれた女性ジャーナリスト(セシル・ドゥ・フランス)の臨死体験、感覚の変容状態を示そうと、この手法を用いた。また「ミリオンダラー・ベイビー」(04)ではリング上の主人公(ヒラリー・スワンク)が背後から殴打され、倒れて椅子に頭を打ちつけるシークエンスにて。これなんて、わざとらしさも覚えるのだが、どうしても強調(転調)したかったのだろう。イーストウッドは通俗性を恐れない。ベタを本気でやってのけるのだった。

「マディソン郡の橋」(95)のラスト近くの視線劇もそう。土砂降りの雨に濡れながら立ち尽くす(イーストウッド扮する)男。向かいには車内から彼を見つめるヒロイン(メリル・ストリープ)の姿が。もっと古くは「バード」(88)で反復されたイメージショットだ。ドラマーに放り投げられ宙を横切り、地面へと落ちるシンバル。それは若きチャーリー・パーカー(フォレスト・ウィテカー)が味わって以来引きずっている、屈辱的なトラウマ映像であった。

探せばもっとあると思う。ことほど左様にスローモーションを、イーストウッドは特に強調したいシーンで選択してきた。「アメリカン・スナイパー」では“もうひとりのクリス・カイル”ともいうべき狙撃手ムスタファとの、最後の対決シーンになったわけだ。感じた違和とはムスタファめがけて飛んでいく弾丸までスローモーションになること。つまり活劇性よりも過剰な方向付け、弾の行方の先に込められた敵意を観る者に否応なく意識させるがゆえに。

いつものごとく、感覚が変容した対象への同化を試みた結果の勇み足。だが、あのスローモーションが軍人クリス・カイルの絶頂で、“内なる戦争”へと転調してゆく導入剤になっていたのも確か。帰国しても無数にいる(PTSDに苦しむ)分身たち。星条旗の舞う哀悼の儀。そうして再び転調して時間を引き延ばし、イーストウッドは究極のベタ、俺流の黙祷をひとり実行するのだ。

[キネマ旬報掲載]
『アメリカン・スナイパー』●監督:クリント・イーストウッド●出演:ブラッドリー・クーパー、シエナ・ミラー、他●2014年●アメリカ