復刻ロングインタビュー【阿久悠】

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館理人
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作詞家・作家の阿久悠さんのロングインタビュー記事を復刻です!

館理人
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ハナコの岡部大さんが顔真似していたりしますね!そっくりなんですよね〜。

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数々の印象的な歌謡曲の作詞を手掛けた阿久悠さん。その歌詞世界の秘密が垣間見られる記事です、お楽しみください!

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インタビュー 阿久悠

(インタビュー・文 轟夕起夫)

「かどわかす」という言葉がある。むりやり連れ去ること。誘拐。女・子供を騙して連れて行く、なんて意味もある。 いったい、我々はどれだけ阿久悠に「かどわかされた」ことだろうか。──といってもどこへ? 言葉の逆光線が浮かびあがらせる、今、ここではない、つかの間の解放区へ!

 歌謡曲における阿久悠のジャイアントステップ。5000曲を超える作詞家(そして企画者)としての仕事ぶり。その圧倒的な質量の業績をいちいち掲げはしない。とにかくそれは手を変え品を変え、女・子供どころか日本人すべてを3分間の解放区へと「かどわかそうとする企み」であった。と、ヤボを承知でひとまずそう括っておく。

作詞は実に5000曲以上!

阿久 作詞家・阿久悠が誕生したと実感した曲ですか? うーん、それほど売れなかったけど初期の、例えば北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」や杏真理子の「さだめのように川は流れる」とか、たぶんぼくにしか書けないだろう暗く重い曲かな。これが第一期。

のちに『スター誕生!』を企画しなければアイドル系の仕事とは無縁で、暗いまま売れず、もう10年早く小説家になっていたと思いますよ(笑)。アイドルにそれぞれ違う世界を書き分ける作業は面白かったけれど、これでいいのかなあというのはありました。「ざんげ〜」の頃の手応えみたいなものがなかなか感じられなくてね。ま、それはアイドルの曲に求めても無理からぬことだったんですが、そのとき「時の過ぎゆくままに」で沢田研二と巡り会うチャンスを得た。あれは大きかった。あの曲が書けて、しかもチャート1位という結果を出せたことで、改めて自信が得られましたね。

新しい歌謡曲への挑戦

 例えばすべてにおいてスケールがダイナマイトであった和田アキ子。そのトータルイメージを、「笑って許して」で一度縮小させてオンナの愛嬌をひねり出し、逆に「あの鐘を鳴らすのはあなた」では天文学的無限大の域にまで広げてしまうすごさ。

 そんなふうに歌い手の等身大を変幻自在に操り、一方では尾崎紀世彦の「また逢う日まで」「さよならをもう一度」をターニングポイントに、男と女の“日常の風景”を次々と書き換えていった70年代の阿久悠の言葉。

それは従来の歌謡曲の「詞」の定形をズラし、時代の空気を自分色に染めて吐き返して、山本リンダ、フィンガー5、ピンク・レディー、沢田研二らとともに前代未聞の非日常エンターテインメントを築き上げていくことになる。

阿久 ペドロ&カプリシャスの『ジョニィへの伝言』は、待つ女、そのグチを聞かされているバーテンだか誰か、そしてそこに現れないジョニーの3人によって歌詞が成立しています。それまで歌の中に3人が登場するなんて、あんまりなかったんですよね。そういうことも工夫すれば、歌の質も変わってくるだろうという狙いはあった。でも当時はね、それは歌ではないとも評されたんです。歌というのは一人称=私の視点で歌われるものなんだと。けれど、結局ヒットしてしまえば評論家も納得して黙るしかない。だから新しいものに挑戦したときこそ売れてほしいと思いましたよ。それは歌謡曲の枠組みそのものを広げることなんですから。

あと、よく批判的な物言いとして「コピー感覚」というのもあった。でもぼく、広告代理店時代に実際コピーを書いてましたからね (笑)。全体の構成の中から言葉のキャッチの部分だけが際立って飛び出してくるような書き方をしていたんですが、ぼくもキャリアを積んで、ある時期から、少しずつ映画や小説みたいに全体性に力を入れる方向へと変わっていきましたんでね。1980年代以降そういう歌詞は、ずいぶん減っていると思いますよ。

歌詞の基本的思想

 ♪ボヤボヤしてたら 私は誰かのいいコになっちゃうよ(山本リンダ「狂わせたいの」)

 ♪ボギー ボギー あんたの時代はよかった 男がピカピカの気障でいられた(沢田研二「カサブランカ・ダンディ」)

 言葉が、現実とフィクションとのキワキワのところにあり、しかしいざ口にしてみると何とも快感で、生理にシックリくる歌詞。「ア〜ア〜」「ウララ」「ズンズンズンズン」「クッククック」「フニフニフニフニ」と多用される擬声語。森昌子の「せんせい」、都はるみの「北の宿から」、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」、八代亜紀の「舟唄」といった演歌もOKのレンジの広さ。そしてさりげない、だが誰もマネしようのない前衛的な実験が施されているナンバー。例えば「ペッパー警部」のこんなフレーズのような。

 ♪むらさき色した たそがれ時がグラビアみたいに見えている ああ 感じてる

 どうだろう。現実とフィクションのせめぎ合いに、クラクラしてこないか!

阿久 ぼくは、純粋抽象はないと思っているんですよ。よほどサイケデリックなものは別にして、完全に抽象的な歌というのはね。リアリティがありそうなこと言ってるけど、よく考えたらないよ、とか、言われてみると映像が浮かんで納得してしまうんだけど、現実にはそんなのあるかっていう。それが歌における抽象だと。

例えば、恋人同士の生活を描こうとする。そこでディテールを細かく描写するのみならリアルなだけだが、ぼくは最後に一行、糞リアリズムの中にスポンとすべてをひっくり返し、架空に飛ばしてしまうような言葉を入れる。これはAとBの内輪話ではなく、ある種の物語として世に出すものですよと。こういう実験は、ずいぶんしましたね。

もうひとつぼくの歌詞の特徴はといえば、背景の大きさに対して人間をどのくらいの大きさにするのか、ということ。わりと人物は小さめで、背後の情景の方が大きく、それを俯瞰からカメラで撮っているカンジ。で、人物は情景の中をなんか移動しているのね。キザな言葉でいえば、旅の途中みたいなのがどこかにあるんですよ。つまり誰もが、今いるところに永久に存在したいわけではない、ということの表明。これは、ぼくの歌詞に共通している基本的思想だと思います。

 SPEED、MAXらが歌ったヴェルファーレ・ミーツ・阿久悠の企画アルバム『DANCE with YOU』(ちなみに筆者のフェイバリットは知念里奈の『たそがれマイ・ラブ』!)。1997年に発表されたこのCDを聴くと、やはり阿久悠の先見性に驚かされることだろう。メロディにハメこむのではなく、楽曲の持つリズム自体にアクロバティックに乗せられた言葉の数々。現代の歌姫たちの、いたずらにカン高い声が、その歌詞の遊戯性を新たに浮かび上がらせる。

 ちょっと森山加代子の「白い蝶のサンバ」のオープニングに注目してみよう。

 ♪あなたに 抱かれて 私は 蝶になる あなたの胸 あやしいくもの糸

 リズムは「4・4・4・5・6・4・ 5」。 当時、阿久悠が盛んに脱却を試みていた「7・5」調への反発から生まれたものだが、これを口ずさもうとする時、人は必然的に高音で歌うように仕向けられてる、という気がする。もはや、女性ボーカルの高音域化は常識だが、阿久悠の歌詞はすでにその中に、 ことごとく歌い手を高揚させ、精神を吊り上げ引っ張る、つまり高音を誘発する興奮剤の要素を持っていると思うのだ。それは何なのか? 時には作曲家をも「かどわかす」、擬態と挑発と、反重力的な上昇への欲望である。

作詞家の値打ち

阿久 曲先でメロディがきて、そのテープを聴いてると自然に言葉のフレーズが浮かんでくるんです。それをそのままつないでいったら単なる言霊になるわけですが、歌詞を作る時には全部消してしまう。プロデューサーや作曲家との打ち合わせが済んで、いよいよ実際に作曲家のところに詞を持っていくときには打ち合わせからはかなり飛躍したものを考えていく。打ち合わせ通りのものを渡すのは恥ずかしい、という矜持がありましたね。作詞家が加わっている値打ちを示してやらなきゃという。傲慢かもしれないですが、いい意味で楽曲を蹂躙してやろうという気持ちがあったわけです。そういったことが毎回刺激的で面白かったし、曲が世に出て結果が出ると、またまた快哉を叫んでしまうわけなんですよね。

 恋愛の応援歌、あるいは自己啓発セミナー的歌詞があふれかえる今日。1997年出版された『書き下ろし歌謡曲』は、阿久悠からそんな音楽状況に叩きつけられた挑戦状だった。

阿久 もともと、この歌手の何月頃発売の勝負曲をやりたいから考えてくれ、という注文からぼくの仕事はずっと始まっていたわけです。もっぱら歌手のイメージを逆転させる作業のほうを多くやってきて、それをね、一回取っ払ってみようと思った。自分の頭の中に浮かぶ歌詞が、現在どのくらいあるのか探りたくなったのが最初の動機です。と同時に、CDを作る上でちょっと遠回りをしてみようかなとも。これ100曲分を2日間で作ったんですけど、で、まず本にして、言葉の重要性をアピールしてみたいなと。とくにここ数年、危機感を持ってましたからね。一番刺激を与えたのは作曲家みたいですよ。歌詞と格闘するような環境がここのところなくなっていたわけですからね。詞があって、ひとつの世界があって、そのなかでどうやってそれを破るか。今そんなふうに作っていないでしょ。この本が出ることによって再び、こういう方法もあるな、と思い出してもらえればいいなあと。

 知的ゲームとしての言語遊戯。阿久悠が復権を目指しているのはこれだという。作詞家から作家へと移行した1980年代以降。彼は坑道の先頭を行くカナリアのように、日々失われていく言葉の力をヒシヒシと感じているのかもしれない。

阿久 1970年代は少し乱暴に活動しすぎたかな、とも思いますけどね(笑)。何ていうのか満員電車の中で尻振って、強引に席を作るような。30代のムチャクチャな元気があれば今でも尻振るんですが。ちょっと行儀がよくなって、無理やり他人に席を立たせてしまう当時のような乱暴さはぼくには残ってないですよ。 ま、時代の違いもあってね、明治維新みたいなものだったからあの頃は。あいも変らず、明治維新の志士みたいな顔をして尻振るのもどうかなという気もあって。でも、ホントはやり続けなきゃイカンのだろうな、とは感じていますよ。

 そしてもう一度、あの凄みのある声でこう念を押した。「……やるからには、ずっとね」。

 我々は今また、阿久悠の手で、どこかへ「かどわかされようと」している。

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阿久悠 プロフィール

あく・ゆう
1937年 〜 2007年
広告代理店勤務を経て文筆活動に。尾崎紀世彦「また逢う日まで」、沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンク・レディー「UFO」など、作詞した曲は5000曲以上を数える。小説『瀬戸内少年野球団』などの著作も多い。

轟

特集アスペクト[歌謡ポップス・クロニクル](1998年4月発売)に掲載のインタビュー記事を再録です!

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