復刻ロングインタビュー【島倉千代子】人生いろいろ〜自身の青春物語を語る

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館理人
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島倉千代子さんのインタビュー記事を蔵出しします!

館理人
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波乱の人生を辿った島倉さんをしのべば、島倉さんの言葉ひとつひとつにじわり、元気づけられます。がんばるぞーと思える島倉さんのパワーが伝わってくるインタビュー。

館理人
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半生を振り返っていただいた、1996年の雑誌インタビュー記事となります。

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島倉千代子・インタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

美空ひばりの熱烈なおっかけ

 島倉千代子さんは16歳のときに歌手デビューを飾った。幼い頃、お風呂でお母さんが唄ってくれた流行歌が、彼女と歌との出合いだった。

 戦後の流行歌といえば、並木路子の「リンゴの唄」であり、美空ひばりの「悲しき口笛」である。

 島倉さんはのちに同じレコード会社でうたう運命とはツユ知らず、ひばりさんの熱烈なオッカケをしていたという。

 当時すでにスターの仲間入りをしていたその美空ひばりも2歳でレコードデビュー。彼女とたったひとつの年差である。

 10代タレント花盛りの今日だが、いつの時代も芸能の世界とは少女たちのためのステージであったのだ。

 ただし、今日と決定的に違う点もある。それは恋愛に関していまほどオープンではなかったということ。島倉さんはティーンズの頃をこう述懐する。

純情歌手と呼ばれたアイドル時代

島倉 当時「純情歌手」なんて言われましてねえ。それでその四文字が肩に重くて重くて(笑)。忙しくて自由がなくて、恋なんてしてるヒマなかったですね。監視ではないけれどスタッフの日も厳しかったし、恋愛というのはハッキリ言って御法度でした。「純情歌手」ですからいつもいいコでいなきゃいけなかった。笑わないし、人とあまり喋らないような性格だったので、舞台に出るたびにカガミを見て、笑顔を練習してたくらい。自分の内側にこもりがちなコでね。そうして青春を楽しむことなく、歌を唄うだけでずっーと来ちゃったんですよね。

 まさしく(元祖!)アイドルの宿命というべきか。絶大な人気と引き換えに青春の季節を捧げる日々。そんなとき、少女はひそかな遊戯に耽ることを知る。誰にも気づかれるアテのない、「一日一恋」というささやかな遊戯に。

せめて心の中で、一日一恋

島倉 あの〜、ステキな人と必ず1日1回は会うじゃないですか。1回と言わず何度も会うかな(笑)。それで「一日一恋」ていうのは、直感的に心の中で、あ、ステキだなって思えばそれでいいんです。ずっーと1日、その人の顔が私の心の中から消えないでいる。そうして翌日朝起きて仕事場に行くまでに他の人に目移りしていると(笑)。私、気が多いんですね。やっぱりいい歌を唄うためには人に恋して、心が豊かじゃなきゃ。現実にはかなわないかもしれないけれど、せめて心の中だけでも「一日一恋」しなくちゃって、10代の頃からそう決めて始めたんです。

 歌詞に身を投じ、疑似恋愛的な感情を生きてみせる3分間のドラマ。そのドラマのために現実では許されぬ恋の手ざわりを、彼女は夢想の中に求めた。

 そしてささやかなこの遊戯は、いまも変わらず続いているという。

島倉 告白はしないんですよ。もういい歳ですもの。心の中だけで恋をするだけ。こないだもコンサートでとてもステキな方が客席にいらっしゃって、会場に降りて唄うときなんて何気なくその人の前を必ず通ってみたりして(笑)。そういう恋愛はたくさんしてるんですよね。新曲CDをお買い上げいただいたんで、余分に握手しちゃって思わずポーっとなっちゃいましたよ(笑)。

自分の意志を貫いて行動した結婚と離婚

 島倉さんが口をひらくと、たおやかな空気があたりにほんのり漂う。

 一日一恋──。

 たしかにこの言葉、典雅な和服姿のおっとりとした彼女に似つかわしい。

 しかしお話をうかがっていくうちに、それが“ある決意”のようなものにも思えてきた。第一、島倉さんは夢想家などではなかった。

 ひそかでささやかな「一日一恋」という遊戯を飛び越え、一途な恋に生きた結婚生活を彼女はくぐりぬけていたからだ。

 1963年、国民的歌手としてますます人気の彼女は、阪神タイガースの強打者・藤本勝己選手と結婚した。

島倉 タイガースが巨人戦で東京に来ていたときのことでした。仕事を終えて家に帰ると、藤本さんから私に電話が入っていたんです。けれど野球を全然知らない私は、「タイガースって何?」てな調子で(笑)。巨人ファンの弟が代わりにかけ直してみたら、正真正銘ご本人からの電話だった。「大ファンなんです」「ありがとうございます」。そんな言葉を交わしたのがはじまりで、藤本さんは試合で東京に来ると電話をくれました。男性に対して厳しかった母がしまいには、ウチに遊びに来てもいいって言ってくれて。ごちそうまで用意してね。そう、お嫁に行くキッカケを作ったの、母だったんだ(笑)。まさか月1回しか会えない人と結婚するとはねえ。でもだんだん彼のことを心待ちにするようになっていったんです。

消えることのない罪の意識

 ちょっと待って、喉が乾いちゃった……そう言って彼女は口をうるおした。そこには困惑の表情があった。

 あきらかに、このあと言葉を続けることを逡巡していた。が、意を決するごとくひとつ大きく息を吸うと、彼女は胸の奥深くにしまいこんでいた自分と静かに向き合った。

 そして声が聞こえてきた。

島倉 やがてふたりだけでも会うようになって、気持ちが高まっていきまして、子供ができました。でも、私としては歌い手という立場もあるもので、そのとき非常に困りましてね、どうすればいいかわからなくて、私が慕っていた音楽関係のご夫婦を訪ねて行くんですが、いらっしゃらなくて玄関で泣きながら待っていました。そしてその方に父親代わりになっていただき、病院に行きました。でも子供の命を自分で絶ったということにすごく悩みまして、その子供のためにも結婚をしなければと心の中で決めるわけなんです……が、それでもやっぱり、罪の意識は消えることなくツラかったですねえ。

 「もう大丈夫、何でも話せるわ」。彼女はそう言った。強い人である。

 島倉さんは浅草寺に“忍”と名前をつけて厚く供養した。指にはめているプラチナのリングには“忍”と彫ってあり、それは彼女のお守だった。

歌うことは運命

島倉 体調の悪い日ばかりでした。罪の意識のほうが大きいから。やはり結婚に対して夢見ていた部分のほうが多く、現実はあまりに厳しかったですね。でも藤本さんは島倉家に唯一出入りできた男性で、やっぱり月に1度しか会えませんから優しかったし、温かかったしね、ステキな方でしたよ。私は25歳、仕事にもすごくノッていて頑張っていたときだったので、両親をはじめ周囲は結婚なんて絶対にさせたくないというカンジでした。でも反対を押し切って、結婚したんです。人生の中で自分の意志を貫いて行動したのはこのときの結婚と、そのあとの離婚の2回だけなんですよ。歌を唄うことは自分の運命みたいなものですから、生まれて初めて自分の意志をキチッと言ったのは、この結婚のときでしたね。やっぱりそれだけ彼のことを愛していたんでしょうね。

乳がんの闘病

 島倉さんほど意志の強い人はいないと思う。現在唄っている「火の酒」の熱唱を聴くと、なおさらそう思う。

館理人
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改めてご案内です。インタビューは1996年に行ったものとなります。

島倉 ここまで自分の心を前へ前へ突き出して唄った歌はないですね。

 彼女自身、3年前の乳癌との闘いを乗り越えてから、人間が変わった、何事にも前向きになったという。なにしろ驚くことに、幼い頃に大ケガをして以来、感覚を失っていた左手でモノを摑めるようになったのだそう。

島倉 いままでは「心で好きと叫んでも」「あの人は行ってしまう」とか(笑)、引っ込み思案で一歩引いた女しか表現してなかったんですよね。この「火の酒」のようなツラさを噛みしめながらも自分の心をさらけだし、強く生きていく女性像は初めて。唄ったことのない歌なんで好きです。私は「女の情念を唄いあげたド演歌」という言い方してるんですけど、ただ私の声だとどうしても叙情歌になりがちなんで、カラダを思いっきり揺すりに揺すって唄ってます。別にフリ付けがあるわけじゃないんだけどなぜかそうなるってことは、女の情念が乗り移ってるんでしょうかね(笑)。

紅白歌合戦の辞退

 もうひとつ、彼女のその意志の強さを示すエピソードがある、1957年から30回連続出場を続けていたNHK「紅白歌合戦」を、彼女は1987年に辞退する。折しも巷ではあの『人生いろいろ』が大ヒットを飛ばしていた。

島倉 そうですね、「なんで?」って声はすごくありましたね。でもいつかは私も紅白を落選するときがくる。紅白は私の命でしたから、落ちたら、唄うこともやめちゃうだろうなとそのとき思ったんですよ。私は歌が好きで生きてきた人間ですから、もう人生終わり、死んだも同じだと。だから連続30回も出場できたということで、私の人生にとってこれは勲章であると、そういう考え方をしたんです。落選で私の勲章を汚したくない。そうわがまま言って辞退させていただいて。今度は人間としての終点をめざして歩きはじめたい、まだ余力のあるうちに、急行列車から鈍行列車へと乗り換えて、自分の人生を眺めながら生きていこうとね。

 しかしその翌年、一転して島倉さんは紅白歌合戦に復活する。それがまた実に彼女らしい理由なのであった。

「人生いろいろ」とともに

島倉 作曲者の浜口庫之助先生が「もう紅白で『人生いろいろ』は聴けないんだ、残念だ」って。先生も3年前に1度癌の手術してらして、その言葉が心に残っててね。NHKさんからお話をいただいたときは、見栄も外聞もなく、出させてください(笑)。先生に聴いてもらいたかった、それからファンの方にも。最近は癌患者の方から「私たちに元気な姿を見せて」って言われてるんです。それからは落ちる落ちないにこだわらず、お話さえあれば出させていただこうと思っているんです。

 歌手生活40周年を迎えた1994年、島倉さんはその波乱の半生を振り返り、自叙伝『歌ごよみ』(読売新聞社刊)を出版した。

 歌ごよみ──。

 文字通り、歌に支えられ、歌とともに人生の暦を刻んできた軌跡はまだまだ続いてゆく。

毎日が嬉しくて楽しい

島倉 今度は皆さんに私の元気をあげなくちゃねえ。これからが青春だと思っていますから。だってね、箸が転がってもオカシイんだもん(笑)。何を見ても興味がすごく湧いてくるんです。毎日がもう、嬉しくて楽しいんです。もちろん「一日一恋」 はこれからも続けていきますよ。できるならばふと振り返ったときに、誰かがそばにいてくれたならこんなに嬉しいことはないけれど、やっぱり歌が好きだから自由がほしい。夜中に急に、歌の勉強したりとか、誰にも縛られないという意味で私には「一日一恋」が合っているのかな、そんな風に思うんですけれどね。

 取材後、雑談に興じるわれらのもとに島倉さんがやってきて、先程とまた違う素の顔でこう微笑んだ。

島倉 こないだカーネーションのライブに行ったんですけどね、そうしたら私の『愛のさざなみ』を唄ってたんですよ。あれ、私の曲なんですよね!

 彼女のこれからの青春に乾杯!

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島倉千代子 プロフィール

(1938年3月30日-2013年11月8日)
東京都品川区出身。四女として生まれる。

6歳のとき、47針縫う大事故で左腕の感覚を失い、暗い影を落とすも、のど自慢コンクールに光明を見いだす。

1955年、歌謡コンクール優勝新人の登竜門コロムビア歌謡コンクール優勝後『この世の花』でデビュー。上半期発売ベスト4に入り、『りんどう峠』も好調、一躍人気歌手になる。

1956年、『東京の人よさようなら』『逢いたいなあの人に』が100万枚の連続ヒット。映画、テレビと活躍し、翌1957年『東京だョおっ母さん」で不動の歌手に。

1957、NHK『紅白歌合戦』初出場。
1958年、『からたち日記』大ヒット。が、翌1959年過労で突如声が出なくなり、1週間の失跡事件を起こすものの人気は変わらず。

1960年、怪電話に時限爆弾騒ぎの連日、歌謡ショーの観客圧死事件など心労で引退説も流れるが、歌舞伎座特別公演で復活。1961年「歌の明星」人気投票初1位に輝く。

1962年、ファンの投げたテープにより眼底出血。1963年、阪神タイガースの藤本勝己選手と結婚するも、1968年に離婚。大ヒット曲『愛のさざなみ』が日本レコード大賞特別賞。

1970年、新宿コマの初のロング公演敢行。1975年、1000曲目の『悲しみの宿』がヒット。1977年、手形の裏書により事務所の多額の借金を背負い込む。1981年、『鳳仙歌』が大ヒット。

1988年、『人生いろいろ』で日本レコード大賞金賞&最優秀歌唱賞。「ガン撲滅チャリティ」を始めた1990年から3年後に早期乳癌で入院、手術により回復。

1994年、復活し、歌手生活40周年を迎えて、新宿コマ劇場で記念公演。日本レコード大賞、美空ひばりメモリアル大賞。1995年、一曲入魂の『火の酒』がヒット。

1999年、ベストジーニスト賞受賞、紫褒章受賞。2004年、歌手生活50周年を迎える。35回目の紅白歌合戦に出場、これは生涯最後の出場となる。

2007年、事務所のスタッフに資産を奪われ多額の借金を抱え、事務所を閉じ、簿記の勉強を始める。2008年、『人生いろいろ』が出身地品川区の京浜急行電鉄青物横丁駅の接近メロディに採用される。

2010年、持病の慢性肝炎が進行する中、肝臓癌が判明。闘病の中でも歌手活動は継続。
2013年、死去。

轟

pink 1996年10月号掲載記事を再録です