蔵出し【勝新太郎】ロングインタビュー〜監督【増村保造】との映画的友情と真剣勝負〜

館理人
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勝新太郎の“語り”を蔵出し! 監督・増村保造との仕事についてあれこれ話してくださったインタビュー記事です。

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勝新太郎プロフィール

かつ・しんたろう(1931年11月29日〜1997年6月21日)
俳優、歌手、脚本、映画監督、映画製作
23歳で大映京都撮影所と契約、『花の白虎隊』(1954年)で役者デビュー。『座頭市物語』(1962年)、『兵隊やくざ』(1965年)で人気看板役者に。
1967年、勝プロダクションを設立。映画製作も手がけるように。
テレビドラマ『座頭市』(1974〜79年)は合計4シーズン、全100話を製作。主演、脚本、演出も手がけた。
1981年、勝プロダクションが倒産、勝プロモーションを設立。
映画出演作としては『浪人街』(1990年)が最後。舞台の出演は続き、中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』(1996年)が演じ収めとなる。
1996年7月に下咽頭癌を発病、翌年逝去。65歳であった。

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増村保造プロフィール

ますむら・やすぞう(1924年8月25日〜1986年11月23日)
映画監督、脚本
東京大学法学部を卒業後、1947年、大映に助監督として入社。
東京大学文学部哲学科に再入学し、1952年にイタリア留学。イタリア国立映画実験センターでフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに師事して帰国後、溝口健二や市川崑の助監督を務め、
1957年『くちづけ』で監督デビュー。
若尾文子の主演作『妻は告白する』『清作の妻』『「女の小箱」より 夫が見た』『赤い天使』『卍』『刺青』や、勝新太郎の『兵隊やくざ』、市川雷蔵の『陸軍中野学校』などを手がける。
大映倒産後は独立プロ“行動社”を興し、『大地の子守歌』『曽根崎心中』や、勝新太郎の勝プロと組んだ『新兵隊やくざ 火線』などを手がける。
1970年代以降は、テレビドラマ「赤いシリーズ」、「スチュワーデス物語」などの演出・脚本を手がける。
1986年、62歳で死去。

館理人
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では! インタビューをどうぞ!

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勝新太郎インタビュー

勝新太郎と増村保造との映画的友情

 さながら日本のオーソン・ウェルズ、呪われた天才=勝新太郎と大映東京のエース・増村保造。かたや江戸の粋を体現する永遠の“遊び人”で、かたや東大経由イタリア帰りの厳格な“探究者”。

 そんな二人が傑作『兵隊やくざ』(1965年)で映画のように運命的な出会いを果たした。以来、大映で、そして勝プロで、俳優あるいはプロデューサーとして共闘してきた勝新が、監督増村保造と交わしたその真剣勝負を大いに語った!

2つの巨星が交錯した『兵隊やくざ』第1作

「将棋が好きでなァ。マスさん、俺の王将が詰んじまうと実に嬉しそうな顔してたなァ。ちゃんと『参った』って言うまでやめてくれないんだよ。『もうどこにも行くとこねえよ』『じゃあ参ったんですか』『終わりじゃねえか』『だから参ったんですか』『……参った』って俺が言うと、ホント嬉しそうな顔してさァ」

 1965年、大映に『座頭市』『悪名』に続く、勝新太郎主演の人気シリーズが新たに登場しようとしていた。『兵隊やくざ』だ。

 関東軍に札つきで入隊してきた浪曲師あがりのやくざの用心棒・大宮貴三郎と、インテリ上等兵・有田のコンビが小気味のよい“造反有理”ぶりを展開する軍隊活劇。

 以後、第9作まで作られたこのダイナミックなアクションシリーズ第1作に、勝氏の推挙もあって抜擢されたのが増村保造監督だった。すでに二人は『美貌に罪あり』(1959年)で仕事をしていたが、そのときはいわゆるオールスター映画の体裁で、がっぷり四つに組むのは初めて。こうしてこの年、2つの巨星がついに真正面から遭遇したのであった。

三島由紀夫もトラウマになった増村流演出

「俺の役は軍隊に入っても、とにかく上官に楯突き、相手に見下ろされたら必ず見下ろしかえすような男だったからさ、初日、撮影所についた瞬間からもう“大宮貴三郎”になりきってたんだな。

 で、『ここで一番偉いのは誰だ、挨拶に来い!!』ってやったら、『増村です』ってあらわれたのがマスさんだった。

 撮影に入ると演出っていうよりも、俺から見る限り、有田上等兵に扮した田村高廣をマスさんはイジメてるような感じがしたんだよね。

 しまいには『増村ァ、黙って聞いてりゃ偉そうなこといいやがってェ、俺が許さねえ!!』ってとこまで頭に血がのぼったんだけど、そのうちにだんだん田村の顔が耐える顔になってきて、眼鏡越しに田村でない、我慢する有田上等兵の顔になってきてたんだな。

 そして本番後にラッシュを見てみると『あ、この顔を狙っていたのか』ってことがわかった。ああ、あのとき我慢しといて良かったと思った(笑)。

 マスさんの撮影では、必ずひとり、コテンパンにボロボロにされる俳優がいたんだよね。田村高廣しかり太地喜和子しかり。

『からっ風野郎』(1960年)で主演した三島由紀夫もそうだった。『人斬り』(1969年)で共演したときに聞いたんだけど、『そんなんでお前、よく小説書けるなァ』とか『何だァその手は、何か欲しいのか乞食みたいな手をして』なんて罵声を飛ばされたらしい。

 それ以来三島さんは“ヨーイ”の声を聞いただけで震えてしまうほど、マスさんとの経験が影響した。ま、三島さんは悪い童貞破りをしちまったんだな(笑)」

勝新太郎と淡路恵子の名シーン裏話

 シリーズを重ねるうちに、『兵隊やくざ』は荒唐無稽なアクション活劇の色を次第に濃くしていったが、この増村監督の第1作には、暴力というものの持つ、無意味で滑稽なまでの連鎖運動がひときわ強く描かれ、また、暴力の輪廻からしばし解放される瞬間が、男と女のやりとりの中に示されていた。

 とりわけ貴三郎が娼婦役、淡路恵子のへそに酒をついで飲む“へそ酒”のシーンはやるせなく、しかし安堵に満ちた忘れがたい名場面となった。

「その日は昼飯に淡路さんと納豆食ったんだ。午後は二人のキスシーンから始まったんだけど、納豆食ってたものだから、グ〜と糸を引いちゃったんだよな(笑)。俺は偶然の効果で面白いと思ったんだけど、マスさんはリテイクさせた。このキスシーンのために役者として俺たちがわざわざ納豆食ったんじゃないかって思ったんだな。そういう小細工は監督として許せなかったみたいなんだよ。

吹き替え女優へのリスペクト

 それで、いよいよヘソ酒のシーンになった。そのときは淡路さんじゃなくて吹き替えの女優さんなんだけど、彼女がハダカになって股を開いた。キャメラは正面から。股のところに俺の頭が入る。俺の耳の両端から彼女の太股が出てるって(註・完成作にはこの構図はない)。

 なぜか、その女優さん、前張りをしていなかったから、俺はスタッフに『どうせ頭で隠れるじゃねえか、可哀想だよ、隠してやれよ』って言った。

 すると後ろから『そこ、何で隠すんだ、見せなさい』って声がする。俺のほうは『隠せ隠せ』。『見せなさい』って声がして、また『隠せ』。そうしたら『見せろと言ってるのに誰が邪魔してるんだ』ってひどく怒った。『俺だよ』って振り返ったらマスさん困った顔してたな(笑)。

 あのね、別にマスさん、そういうものを見たいってタチの人じゃないんだよね。そうじゃないんだ。『彼女はそれが仕事でギャラを貰っている。プロですよ。そんなの承知で来ているのに気を使って、隠せなんて言うのは逆に失礼だ』って言うんだよな。僕はそういう考えだ、って滔々と主張した。

 なるほどねえと思ったよ。情をかけるってことは、あんたの商売は可哀想だから俺が助けてやるよっていう、差別とまではいわないけれど、そんなのが俺の中にあったんじゃないかなあ。そうか、そんなところで大宮貴三郎が『隠せ』なんて言っちゃあダメなんだな、俺はいけないなと思ったよ。

 マスさんが正しい、映画とはそういうものなんだなと。マスさんの人間性というかモノの考え方がよく出たと思ったね」

「いい監督は芝居がウマい」

 さて、再びふたりが組んだのは5年後のこと、兄妹の近親相姦的な愛情をテーマとした『やくざ絶唱』(1970年) だった。

 その間、増村監督は『好色一代男』(1961年)で出会ったもうひとりの大映スター・市川雷蔵と『陸軍中野学校』(1966年)、『華岡青洲の妻』(1967年) を発表していた。(ちなみに1969年の『千羽鶴』 は当初雷蔵主演で進められたが、入院のため平幹二朗に交代)。

「雷チャンの『華岡青洲の妻』はね、最初俺の企画だったんだよ。映画の当たりハズレは別として、雷チャンとやってるほうが増村保造という演出家は出てるよね。いや俺との作品でもわかるんだよ。ただその演出よりも俺の仕種や動きのほうが面白いからそっちを観ちゃうだけなんだけど。

『やくざ絶唱』なんかは自分の思う通りに俺を動かせばよかったのに、っていま思うね。ずーっと通らなかった企画を俺を主演にしてやっと通した作品だったんだから。ちょっと俺に遠慮した。マスさんには気の毒だったな。

 マスさんの俺に対するダメ出しは「そんなの止めてください」とは言わないんだ。ケンカにはならない。その代わり、目に出るっていうのかな。ハンチングのやツバをこう斜めに曲げながらこちらを覗いて『ハイ、もう一回』って言うんだ。

 で、他の役者だとしばらく間があって『あのね、キミね……』ってもう喋りまくる。弁が立ったからね。

 役者になればいい役者になったと思うよ。時々つける芝居がウマイんだ。マスさん、芝居ウマイよ。黒澤(明)さんも上手だったけど。やっぱりいい監督は芝居がウマイよね」

勝プロでの増村演出

 1967年、勝プロダクションを設立して製作者としても活動しはじめた勝氏。1970年代に入って『新兵隊やくざ 火線』(1972年)、『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』(1973年)、『悪名 縄張荒らし』(1974年) の3作を増村監督に依頼して、それまでの増村映画とは全く趣の違うめっぽう豪快な活劇作りを共に目指した。

「こないだ『悪名 縄張荒らし』を見直したんだけど、やっぱりいいよね。娯楽の基本というのかなあ。それにマスさんの映像感覚と俳優たちの動かし方。すべてにおいていい。

 それから『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』。劇画が原作でね、これ当時は「テレビ映画の監督に落ちちゃったなあ」なんて思いながら撮ってたのかも知れないな。あくまで俺の中の想像だけど。

 何のためにイタリア行ったんだろうとか、こんなもの撮るために映画監督になったんじゃねえんだ、って撮った作品が、観客には無類に面白い。絶対にあんな映画をやるとは思えない人が作ったっていうのがね、どうしてあそこまで面白く“画”が繋がったんだろうって思った。

それまでの時代劇と一線を画す志向の一致

『御用牙』のシリーズは最初、俺が企画したときみんなが反対したのにマスさんは『こういうのだったらやります』って言ってくれた。反対に面白がってくれていたのかも知れないな。

 それまでの時代劇の監督とは全く感覚の違う“増村時代劇”を作ったような気がする。そこには製作者・勝新太郎と監督・増村保造とのせめぎあいが当然あった。

 高級なAクラスの映画ではなく、いかにBクラスの面白い娯楽映画を作ろうかというディスカッションがあったんだ。いまでも俺は思っているんだけど、製作・勝新太郎ってクレジットされた映画で、死んだあとに世間に出してイヤなものはひとつもない。むしろそれ以前の、デビュー当時の映画には火をつけて燃やしたいものはいくつもある(笑)。

 マスさんは酒を飲んでいるときに誰かに一言「俺の言うことを聞けば、勝新はもっといい役者になるのにな」ってこぼしたらしいんだ。その頃俺は「俺の言うこと聞けばもっといい監督になるのに」って言ってたんだけど(笑)。

 マスさんはね、俺の言うことをただ受け入れた人じゃなかったんだ。『悪名 縄張荒らし』では言葉でなく、目で台詞が言い合えるようにしたかった。目で演技をする。そのときマスさんは製作者・勝新太郎の言うことを聞いたのではなく、映画作家としてそれをわかって撮ってくれたんだと俺はいまも思っている」

勝新太郎と増村保造は両極端に違う

 恐らく、いやきっと、このふたりは『兵隊やくざ』の大宮貴三郎と有田上等兵のように全く別々の世界に住みながら、互いに不思議な映画的友情で結ばれていたに違いない。

「そうだなァ、ふたりの間はシベリアとアメリカぐらい離れていたのかもなァ。マスさんはシベリアの寒村の中で、でもきっと俺と同じようなことを想像していたんだろう。芝居を面白くする話なら俺のアイデアを受け入れてくれたりしたけど、住んでいるところは基本的に違うんだ。

 たとえて言うならばマスさんは寒いところで鍛えられた野菜みたいだったな。俺なんかはどっちかっていうと年中あるヤツでさ。四季なんか関係ない、いつでもこう人工の畑で人工の温度で出来上がってくる野菜なんだよ。

 その点でふたりは両極端に違うんだけど、でも人に美味しいって食べてもらいたいのは同じなんだよね。マスさんの、手で割くとザクっと音のするような野菜に俺の人工的なヤツを少し混ぜてみる。俺のほうにマスさんを全部混ぜると何の価値もないんだが、増村保造の世界に、俺を少し混ぜるといいんだよな。俺の分量は少なくっていいんだ。5+2が10になるんだから。

増村保造が持つ、人間の本質を見抜く眼

 いま、マスさんが生きていたら織田信長の映画を撮らせてみたいよね。誰で、ってことじゃないんだけど、あの人はたぶん信長なんてスキじゃないと思うんだよ。スキじゃないから批判的な視点で、こいつのこういうところがイヤだ、ここもイヤなんだ、なんて思いながら撮ってしまう。

 で、さてそいつを編集で繋いでみるとだ、これが実に魅力のある信長になってるんじゃないかと思うんだな。人間の本質を見抜く、そういう“眼”がマスさんにはあったんだよ」

轟

キネマ旬報1995年4月上旬号掲載記事を改訂!