読む映画リバイバル『フェノミナン』

天才的能力を授けられた男から眺めた世界

(1997年1月下旬号より)

 「フェノミナン」とは、哲学用語のひとつで“現象”という意味。もとは自然科学の分野で使われはじめた言葉らしく、ニュートンの著作の中にも見つけることができるそうだ。

 さて、そんなタイトルにたがわず、舞台となる平和な田舎町には、さまざまな“現象”が起こってゆく。それは『X-ファイル』もかくや、という不思議な出来事だ。田舎町をちょっとしたパニックにおとしいれる“超常現象”。映画は、突如天才的な能力を授けられたひとりの男を登場させてスタートする。

 ジョン・トラボルタ扮する主人公、平凡な自動車整備士のジョージ・マレーがその人なのだが、37歳の誕生パーティの夜、天空に白い閃光を目撃した彼は、何かの啓示を受けたかのごとく生まれ変わってしまうのだ。

 ジョージのそれまでの生活が、激変したのは想像に難くないだろう。念力や予知能力といった彼のサイキックパワーにFBIが飛びつかないわけがない。研究材料として強制拘束され、町の人々にも恐れられ、孤立の日々を余儀なくされる。待っていたのは捕獲されたエイリアンのような境遇であった。あるいは地動説を唱えたガリレオや、万有引力を唱えたニュートンの、つまりは異端者の悲劇である。

 こうして映画は前半、言ってみるならば自然科学の視線で主人公を見つめていく。当然のことながら観客は、『X-ファイル』な展開に目が離せなくなる。ところが次第にそれは『X-ファイル』的現象を不問に付し、哲学の領域へと足を踏みこんでゆくのだ。かつて「フェノミナン」という言葉がたどった道筋をあたかも忠実になぞるかのように――。

 一体どういうことか?

 こういうことだ。ジョージに起きた“超常現象”にもっともらしい理由を求めるのではなく、ひとつの次元を超えてしまった人間にとって世界とはどのように立ち現れてくるのか、そちらのほうを探求しようとするのだ。言い換えるならば、天動説や万有引力を発見する前と、したあとではガリレオやニュートンにとって世界はどのように変わったのかを考えてみることである。法則を発見した彼らの目になって世界を眺めてみる映画。この「フェノミナン」は世界や人間の実在を問う科学的認識論ではなく、それらの意味のほうを問いつめる現象学的な存在論の側に立っている。

 〈現象学〉とは、世界という像が、意識の中にどのように現れでて確立されるに至るのかを探求していくものだが、「フェノミナン」もまた主人公ジョージの意識を通した世界のありようを、刻一刻と映像に捉えてみせていく(フェドン・パパマイケルの撮影が素晴らしい)。そうして明らかになるのは、自分にとって存在する世界が、実は他人にとっても同じように存在していることの、当たり前のような不思議さだ(これを〈現象学〉では“相互主観性”という)。そしてそのことが冷徹な論理ではなく、つねに触感的に、他人の温もりとともに描かれていくのだが、とりわけ秀逸なのがジョージとヒロイン(キーラ・セジウィック)とのラブシーンである。

 女が、男の、髪を切り、髭を剃る――。

 たったそれだけのこと(ここはホント、観てのお楽しみ!)がラブシーンになる。なぜか谷川俊太郎の古い詩(『二十億光年の孤独』)の、「万有引力とは
ひき合う孤独の力である」という一節を思い出した。

[キネマ旬報掲載]
●監督:ジョン・タートルトーブ●出演:ジョン・トラボルタ、キーラ・セジウィック、他●1996年●アメリカ