監督語り/時代と駆け引きし大胆にギャンブルし続けた森田芳光のヒストリー〜その先駆性と大衆性

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館理人
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森田芳光監督とは? 

森田芳光監督が亡くなったのは2011年でした。

館理人
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こちら追悼原稿の改訂版です。監督した映画の数々を改めて見たくなります!

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ジャンルレスな活動領域

 たしか『の・ようなもの』には、一門の弟子たちを温かく見守る(内海好江が扮した)落語家のおかみさんのこんなセリフがあった。

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『の・ようなもの』は東京下町で修行中の落語家とその周囲の青春コメディです。

「噺家というのは歳を取れば味も出していかなければならないし、うま味も出さなければならないのです」

 そのセリフを若き時分に書いた森田芳光は、以後、「先鋭的な演出法と大衆性」をどう両立させるか、常に試行錯誤してきた。

 裏稼業で競馬にも入れ込んだが、映画でも「時代と駆け引きしながらギャンブルする」人であったのだ。

 1981年、『の・ようなもの』で監督テビューして数年、80年代は驚異的に当たりまくった。

 1983年の『家族ゲーム』で主演の松田優作と共にトリッキーかつ巧みに現代戯画をやってのけ、一躍映画界の寵児となり、興行的には失敗したもののポップスター沢田研ニと残した早すぎた傑作『ときめきに死す』は、今やカルト・クラシックになっている。

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『家族ゲーム』は家庭問題を描くホームドラマ。

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『ときめきに死す』は沢田研二がテロリストに扮するサスペンス。

 そして当時無敵のアイドル・薬師丸ひろ子と組んだ『メイン・テーマ』で大ヒットを飛ばし、満を持して再び松田優作と共犯関係を結んだ『それから』で夏目漱石の世界を媒介に、おのが感性を押し出し、縦横無尽に遊び興じてみせた。

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『メイン・テーマ』はロマンチック・ロードムービー!

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『それから』の原作は夏目漱石の傑作恋愛小説!

 ここから先は“慣性の法則”も働いて、いっそうジャンルレスに活動領域を広げていった。

 とんねるず主演で往年の『社長』シリーズを解体、脱構築させた業界バラエティ『そろばんずく』。

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『社長』シリーズは、森繁久彌主演、昭和のサラリーマン社会を描いたコメディ映画です。

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『そろばんずく』はライバルの広告代理店の戦いを描くコメディー。とんねるずフィーチャーのサントラも!

 初の本格アクションとなった『悲しい色やねん』。

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『悲しい色やねん』は仲村トオル扮するエリートサラリーマンが、実家のヤクザ稼業のトラブルに奮闘します!

 またこの1988年には、脚本と総監督を担った『バカヤロー!』シリーズも開始させ、新たな才能(中島哲也、堤幸彦、太田光ほか)にディレクターのチャンスを与えた。プロデュースという方法論を成功させた先駆けである。

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オムニバス映画『バカヤロー!』シリーズの一作目『バカヤロー! 私、怒ってます』の参加監督は、渡辺えり子(現・えり)、中島哲也、原隆仁、堤幸彦。

 マスコミの前に出る機会も多くなった森田芳光は、観客層を意識して、日本における映画監督のイメージから変えようとし、自ら「流行監督宣言」した。

 時にハッタリめいた言辞も弄したが、それらは全て、「自分が本当にやりたいコトをやるため」であった。

 が、1989年に発表した『愛と平成の色男』は、浮ついたバブリーな時代を斜めに眺め、あえて無常感と諧謔を通し、露悪趣味として描いたのだが、タイトルからして逆に時代に迎合しているように受け取られ、観客に敬遠され、批評的にも叩かれた。

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『愛と平成の色男』は石田純一主演、共演に鈴木保奈美ほか。石田純一がエリート歯科医でジャズ・サックスプレイヤー、恋愛を楽しむ独身セレブに扮するラブコメです!

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時代の先を読むギャンブラー

 時代とキャッチボールすることの難しさ。「自分のやりたいコトをやり、いかに大勢の観客を集めるか」との課題は、多かれ少なかれ、どの表現者も向き合わなければならぬ宿命ではあったが、1990年代に入ると興行は、完全に“洋高邦低”に。

 そんな逆風を目の前に、森田芳光の問題設定は「なぜ日本人は洋画を好み、そもそも日本映画を観ないのか」に移っていく。

 つまりはそれは、大島渚が喝破していた「日本人はスクリーンでまで日本人の顔を見たくない」という大勢のメンタリティと闘うことを意味していた。

 そのひとつの回答が、1996年に公開した『(ハル)』だった。

 顔も声も本当の名前も知らない男と女をパソコン通信、すなわちネット上で一歩一歩出会わせていく恋愛劇。ニ人の思いはセリフではなく、全てパソコン画面上に打ち込まれる”文字”の中に込められた。

 この、目と心で文字を読む映画は、実は、日本人の多くが洋画で体験していた「字幕を読む」映画と同じスタイルでもあった。

 インターネット時代の今日、ごく当たり前の光景がそこには描かれている。

館理人
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『(ハル)』は深津絵里主演作! パソコンがブラウン管テレビ並みにゴロンとしていた時代の映画です。

 先を読むギャンブラーとしての面目躍如。文字を目で追う人間の指向性、生理レベルの快感をとことん充たした本作は、劇中、ふと挟まれる電光掲示板の天気情報も印象的だった。

 それは不特定多数のために流されている何気ないニュースなのだが、どこか詩的で、あたかも別の惑星からの美しいメッセージに見えたものだ。

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無意識の大衆性

 さて、その『(ハル)』で筆者が初めて取材する機会を得た森田芳光はといえば、画面上に出す文字のフォントにこだわっていた。

 デザイン、グラフィック、ディテールの集積が全体像を決定する、と。

 彼らしいと思った。たとえばエッセイ集「東京監督」(角川書店)には、『男はつらいよ 寅次郎あじさいの花』を観て、柴又のとらや家の食卓に並んだインスタントコーヒーに着目し、昔ながらのネスカフェと森永クレープの組み合わせに”変わらない時間の流れ”を鋭敏に感じとった文章がある。こういった感覚が、無意識の大衆性を掴むのだ。

 が、しかし、『(ハル)』はヒットしなかった。

 ギャンブルは当たりハズレの繰り返し、天気予報みたいなものである。翌1997年、べストセラー小説を手がけた『失楽園』は大ヒットを記録した。

館理人
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大ブームとなった『失楽園』、主演は役所広司と黒木瞳!

 それがバブル崩壊後の、平衡感覚を失い、セックスに溺れる男と女のイキざま(と死にざま)を綴ったからーーなのかどうかは分からない。成功しようと失敗しようと、気まぐれな時代との駆け引き、キャッチボールを森田芳光は続けた。

 そして2000年代。やがて日本人は自己肯定し始め、次第に興行も“邦高洋低”に。

 今度は「字幕を読む」のも面倒くさがり、洋画でさえ吹き替え版に観客が集まるようになった。

 森田映画は変わらず”うま味”を出しつつギャンブルし、2002年、賛否両論分かれた『模倣犯』がヒット、2010年には時代劇の器を借りたホームドラマ『武士の家計簿』もロングランした。

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『模倣犯』は宮部みゆきのベストセラー、クライムサスペンス小説の映画化。中居正広が「模倣犯」を演じました。

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『武士の家計簿』の出演は堺 雅人、仲間由紀恵、 松坂慶子ほか。

 筆者が最後に森田芳光に会ったのは、『(ハル)』以来のオリジナル脚本、2009年の『わたし出すわ』のとき。

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『わたし出すわ』は、小雪が故郷で大盤振る舞いをする謎の女性を演じます。

 ”鬼才”という言葉を嫌っていた。呼ばれすぎて飽きていたのだろうし、映画とはチームとして動かないと成功しないもの、との確固たる持論があった。

 当時の談話を思い出してみるとアップ・トウ・デイトな映画を作りたい、日本でそういう作品が少なくなったのは、ロマンポルノがなくなったせいだ、とも。

 観客の深層心理へと訴えかける姿勢が重要で「観てすぐには言語化できない、無意識に浸透していく映画ならではのフワっとした感覚を味わってほしい」と語っていた。

 もし、あのとき『(ハル)』がヒットしていたら、その作風はより先鋭さを増していただろうか? いや、そんな問いかけは無意味だろう。もう、気まぐれな時代との駆け引きは終わったのだから。

 訃報を聞いたとき、現実味はなかった。けれどもその日のタ方、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをしていて、電光掲示板にその死を告げる文字の連なりが流れ、目に飛び込んできたら、胸がつまった。それはやっぱり、どこか別の惑星からのメッセージのように見えた。

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以下は、遡って、森田監督が劇場映画デビューするきっかけとなった8ミリ映画のことについてです!

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劇場映画デビューのきっかけは8ミリフィルム作品『ライブイン茅ヶ崎』

 28歳の森田芳光が監督、撮影、編集を手がけ、1978年に発表した記念碑的な8ミリ作品。

 1970年代、アンダーグラウンドな実験映画に熱中していたが、大森一樹監督の16ミリ『暗くなるまで待てない!』に刺激を受け、「個人映画の甘さを捨て、これからはニューエンターテインメント作家として出発したい」と人物にカメラを向けた。

館理人
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大森一樹監督は、『ヒポクラテスたち』(1980年)、『恋する女たち』(1986年)、『T.R.Y』(2003年)などなどの監督作があります!

 ロケ地は母親の実家、神奈川県茅ヶ崎市。そこで生まれ育った若者たちの日常――といってもサーファーでも、派手に遊ぶいわゆる湘南ボーイでもなく、実家を継ぎ、農業を営むアイパー頭(アイロンパーマ)の青年たちのたわいもない日常をスケッチしている。

 高校の頃、森田はオープンリールのテープを切って貼り、編集し、好きな音楽を流して語り、DJ(ディスクジョッキー)の真似事をしていたそうだが、そういうエディット感覚。

 茅ヶ崎生まれの筆者にとっては、今観ると、駅前北口にあった想い出の劇場“茅ヶ崎新生”の外観に涙。『キングコング』『悪魔の手毬唄』のポスターが!

  年に1度の大イベント、浜降祭の光景で始まり終わる「茅ヶ崎を編集」したかのような作風である。

 冨田勲の「新日本紀行」の名テーマ曲、アール・クルー、イーグルス、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、太田裕美、ユーミンなどの多彩な音楽が使われ、とりわけ終盤の何気ない風景の羅列に合わせた、ヴィレッジ・ストンパーズの「ワシントン広場の夜は更けて」が沁みる。

 これを観た作家の片岡義男は「(外に)開かれ、そして乾いた軽さの中で、切なさともやるせなさとも悲しさともつかないあの情感を、心理描写という閉ざされた自己をぬきにして描き出していくときの、映像と音楽による空間の造形力は、たいへんにスリリングだ」と絶賛(キネマ旬報 1978年5月下旬号)。

 自身のラジオ番組にゲストで来た角川春樹にプッシュし、春樹はヘラルド映画 (現・アスミック・エース)の原正人と共に試写。

 結果、ダメ出しされるも一念発起し、これが初の35ミリ劇場用映画『の・ようなもの』製作へと繋がる。

 森田自身は「当時の日本映画は、すぐに人が死んだり、わめいたり、テーマの押し付けがあったり、それらに対してのアンチテーゼ」(キネマ旬報社刊『森田芳光組」)との思いがあったという。

 高円寺会館での上映会のチラシのため、ファンであった大友克洋に直談判し、 (ノーギャラで)デザイン込みでイラストを描いてもらったことも本作をめぐる伝説的なエピソードだ。

轟

映画秘宝2012年発売号掲載記事を改訂!