7月3日から劇場公開された『チア・アップ!』、現在も全国公開中です(2020年7月24日現在)。平均年齢72歳のレディたちのチアリーディング・チームの物語!
さてさて、ダイアン・キートンらと共演している、ダイナマイトボディのパム・グリア(写真:一番右)に注目! 彼女はブラックスプロイテーションの女王です!!
ブラックスプロイテーションとは? どういう映画があった? パム・グリアからあれこれわかる、ひとつの映画史と、作品群をご紹介です!
『チア・アップ!』、予告編はこちら!
ブラックスプロイテーションとパム・グリア
ブラックスプロイテーション。白人が黒人の観客を当て込んで、黒人を主役に製作&乱造した、主に1970年代前半のブラックムービーのこと。
“ブラックスプロイテーションの女王”と呼ばれたパム・グリアを中心に、その熱く濃い世界を覗いてみよう。
『ジャッキー・ブラウン』のパム・グリア
クエンティン・タランティーノ監督作『ジャッキー・ブラウン』(1997年)のキャストには、ロバート・デ・ニーロ、マイケル・キートン、ブリジット・フォンダ、サミュエル・L・ジャクソンといった顔ぶれが並ぶ。が、それらビッグネームを押さえて、堂々主役を張ったのが彼女! そう、レディス&ジェントルメン、おっとさん、おっかさん(byトニー谷)──ザッツ・ザ・ダイナマイト・ブラック・ビューティ、ガタイもでかいがパイオツもデカい、その名はパム・グリア!!
…古すぎるトニー谷、じわじわ来てます!逆輸入からの、霜降り明星せいやも真似する怪芸人!
ちなみにその前年1996年は『エスケープ・フロム・LA』『マーズ・アタック!』などに出演。前者では反テロリストとして活躍する武装集団の女リーダー、後者では火星人襲来に巻き込まれながら子供を連れて逃げる気丈な母親役と、どちらもタフネスなイメージでもって、ジョン・カーペンター、ティム・バートンの両監督に起用されていた。
『マーズ・アタック!』ではパム・グリアと、70年代ブラックスプロイテーションの四天王の一人、ジム・ブラウンが離婚した夫婦役で出演です!
ジョン・ウォーターズもご贔屓のひとりで、『アバッチ砦ブロンクス』(1981年/監督ダニエル・ペトリ)でのジャンキー娼婦、エキセントリックな殺人狂キャラに対し、「彼女を見損なった映画関係者はこの映画のビデオを買って彼女を見直すべきだ」とかつて激賞を捧げていたものだ。
ジョン・ウォーターズ監督については、こちらの監督作レビューにて紹介しています。
で、そんな中、タランティーノの手で彼女の主演映画が作られたわけで、なぜか奇才のハートばかりをがっちり掴んでいる。果たして、そんなにもスゴい女優なのだろうか?
いやはや。本当にスゴい女優なのである。彼女はずっと昔から「クイーン・オブ・ブラックスプロイテーション」の称号を、頭上に与えられていたのだから。
黒人が出演者であることが売り物の映画群
ブラックスプロイテーション=ブラック+エクスプロイテーション。
1970年代前半、それまでの公民権運動の盛り上がりや、音楽でのニューソウルの爆発的人気を背景に、映画界にもブラックパワーが台頭する。当初は、黒人層のインディペンデントな活動を後押ししたのだが、一方では白人が依然イニシアチブをとるハリウッドを刺激し、アフロ・アメリカンの観客を当てこんだ商業主義的作品を発表してゆくようになってゆく。
つまり黒人が出演者であることを売り物にしながら白人が製作側にまわって、逆に彼らをエクスプロイテーション(利用、搾取)していたのである。
が、そうは言っても裏をかえせば、黒人をターゲットにそれだけエンターテインメントに徹した映画作りを推し進めていたわけで、そのためには“何でもあり”を良しとした強烈なパワーは、人種の壁を乗り越えて多くの人々を熱狂させていった。
パム・グリアのキャリアと『コフィー』
たとえばそれがタランティーノに代表される先の規格外な監督たちであって、とりわけ1970年代ブラックスプロイテーションの申し子ともいうべきポジションで数々のアクション映画のヒロインを演じたパム・グリアは、ダイナマイトなブラック・ビューティの魅力を爆発させ、まさに一時代を画するクイーンとして語り継がれてきたのだ。
こんな話がある。1994年のことだ。タランティーノはノッティンガムでの「ショット・イン・ザ・ダーク犯罪映画祭」に、自らセレクトしたブラックスプロイテーション・ムービーと共に参加した。
で、そこで彼はお気に入りの『The Spook Who Sat by the Door』と『The Mack』、そしてパム・グリア主演の『Coffy』(すべて1973年)を上映したのである(『Coffy』=『コフィー』のみ、1997年に日本初公開されるに至った)。
もとは、例のデカいパイオツが目を惹き、巨乳バカ一代=ラス・メイヤーの『ワイルド・パーティ』(1970年)の端役でデビューした彼女。
やがてジャック・ヒル監督(一貫してハイ・トラッシュ路線まっしぐらの異才。かのフランシス・フォード・コッポラはUCLA時代のクラスメイト)と出会い、『残酷女刑務所(原題THE BIG DOLL HOUSE)』(1971年)と『残虐全裸女収容所(原題The Big Bird Cage)』(1972年)という2本の女囚映画に出演。キャットファイトあり、泥水まみれでの格闘や芝居もありで、どちらもカラダを張ることに。
それに続くコンビ作となったのが、最高傑作『コフィー』である。コフィーとは彼女の役名で、わずか11歳でドラッグに侵され廃人同然にされた妹のため、麻薬組織に復讐を誓ったヒロインのこと。看護師から高級娼婦になりすまして、手始めにドラッグ・ディーラーを誘惑、単身で組織に立ち向かってゆくバイオレンス・アクションだ。
『コフィー』の音楽、ファッション
音楽担当はファンキー・ヴァイヴ(=ヴィブラフォン)冴えわたるロイ・エアーズで、男女のコーラスをフィーチャーしたレアグルーヴ・サウンドが官能的でクール。全編をブラックテイストで固め、コテコテとも言える1970年代ファッションの王道も楽しむことができる。
ワインでいうところの「寝かし具合」のいい映画。まるで同時代の徒花、70年代の〈東映実録路線〉よろしくワイルドにショット・ガンを手にするパム・グリアの雄姿を観れば、『パルプ・フィクション』(1994年)の頃から彼女の出演にこだわってきたタランティーノの、『ジャッキー・ブラウン』への意気込みもわかるというものだろう。
東映実録路線とは、『仁義なき戦い』シリーズに代表される、東映の実録ものヤクザ映画を指します。
ブラックスプロイテーションの歴史
さて、このテの映画の楽しみ方には2通りあると思うのだが、ひとつはいま述べたように「寝かし具合」に応じて、オイシーところだけをピックアップして楽しむやり方。もうひとつは黎明期から円熟を迎え、衰退へと転がってゆく〈ジャンル・ムービー〉の宿命をまるごと楽しむやり方。
これはとにかくできるだけ他の作品群も観倒して、ブラックスプロイテーションの歴史を横断する試みだ。
パム・グリアは『コフィー』で確立したリベンジアクション路線を『Foxy Brown』(1974年)、『Sheba Baby』(1975年)と邁進したのだが、結局のところガタイのデカい女というイメージに押し込まれ、日本でいうならダイナマイト・レディ・ソウルの称号ふさわしい和田アキ子と同じく、不遇の1980年代へと突入していったのだった。
その暗い影は、当初『コフィー』の主演候補であり、身長180㎞、柔道と空手の達人だというファッション・モデル出身のタマラ・ドブソンのドデカい図体にも忍びよったものである。
ドブソンは、『クレオパトラ危機突破』(1973年)では国際麻薬組織撲滅のため活躍するクレオパトラ・ジョーンズに扮し、拳銃やマシンガンを撃ちまくっては空手アクションも披露。
2作目の『クレオパトラ/カジノ征服』(1973年)では功夫(クンフー)ブームに便乗し、香港ロケを敢行する。が、シーンごとに衣装を変えるというサービスも空しく、これで当シリーズはあえなく打ち止めとなった。
数年のうちに粗製乱造へ
ちなみに淀川長治と並ぶ映画評論家の尊師・双葉十三郎氏の、当時の名物ガイド「ぼくの採点表」(トパーズプレス刊)70年代編を紐解くと、数年のうちに粗製乱造されていき、次第に飽きられていったブラックスプロイテーション・ムービーの踏み外しの歴史が、双葉式ギャグで一望できて面白い。
アメフト選手から転身し、後に製作、脚本、監督にも進出していった代表的スター、フレッド・ウィリアムソン主演の『ドラゴンを消せ!』(1973年)は「工夫が足りぬメリケン功夫」。
やはりNFLから映画界入りしたジム・ブラウン主演の『スーパー・ガン』(1973年)はもっと手厳しく、「ブラック映画はブラック・リストにのせよう」。
『燃えよドラゴン』(1973年)で途中、あえなく殺されていたジム・ケリー主演の『黒帯ドラゴン』(1974年)は「空手に泡のつかみどり、てなもんサ」。
さらに『ゴードンの戦い』(1974年)なるアクション映画では怒り心頭に発し、「せめて興業成績だけでもブラック (黒字)になってくれないかなア」ときたもんだ。
トラッシュ映画の量産
出ているのは黒人だけども、やってることはハリウッド映画の二番煎じ。そういった悪弊があらゆるジャンルに基延し、ブラックとドラキュラの合わせワザという、黒人ボキャブラ天国ホラー『ブラキュラ』(1973年)やら、その続編の『吸血鬼ブラキュラの復活』(1973年)、タイトルは物々しいが黒人至上主義集団の白人襲撃、内ゲバ騒動がカネのない「お笑いウルトラクイズ」にしか見えぬ『ブラック・ゲシュタポ』(1975年)などなど、そこには黒人さえもが呆れてしまう、トラッシュ映画の山が築かれていった。
救世主スパイク・リー
1980年代に入って、フレッド・ウィリアムソン監督&出演のもとに、リチャード・ラウンドツリー、ジム・ケリー、ジム・ブラウンといったアクション映画四天王が『ザ・リボルバー/怒りの38口径』(1982年)でいまさらというカンジで揃い踏みしたが、老いた4人の生彩のなさと引き換えに同年、新世代のスパイク・リーがインディーズながら尖鋭的な長編第1作『ジョーズ・バーバー・ショップ』を発表したのは、奇しくも歴史の必然的展開であったといえよう。
ヒップホップ、メッセージ性を武器に世界へ
スパイク・リーの登場以降、〈ブラック・シネマ〉はメッセージ性を武器に世界的にも大きく注目されようになったわけだが、しかし「寝かし具合」からいえばメチャクチャにパワフルで面白いのはやはり、初期のブラックスプロイテーション・ムービーである。
スパイクも尊敬してやまないメルヴィン・ヴァン・ピープルズの『スウィート・スウィートバック』(1971年)はアンダーグラウンド発とはいえ、インディペンデント映画の興行収入第1位という大ヒットに輝いた。
オーバーグラウンドでは断然、リチャード・ラウンドツリー主演、ハーレムの私立探偵シャフトが活躍する『黒いジャガー』(1971年)。
アース・ウインド&ファイアーの激烈ファンクとコール&レスポンスし、警官殺しの主人公が逃走=闘争しまくる『スウィート・スウィートバック』がアフロ・アメリカンのためのマニフェストならば、後者はアイザック・ヘイズのイカした主題歌が、アウトローでタフな黒人ヒーロー像の幕開けを飾ったモニュメントだ。
もちろんカーティス・メイフィールドが音楽を担当した『スーパーフライ』(1972年)もカッコよく、ごっつうソウルフルで色褪せない。
そして、そのブラックスプロイテーション・ムービーの流れから生まれ、数えきれぬクズの中に花開いた真正ブラックムービーの大輪『コフィー』。 “エクスプロイト”という言葉がもうひとつの「偉業」の意に転じる歴史のドンデン返し。そんな奇跡がかつてあったことが、『コフィー』日本公開時にジャック・ヒル監督が寄せてくれたメッセージからも伝わってくることだろう。
日本の「ハイ・トラッシュ」映画ファンの皆様へ
『コフィー』が、私の敬愛する小津安二郎監督の祖国、日本で遂に上映されることになり、大変喜んでおります。『コフィー』制作当時、いわゆる「黒人映画」がアメリカ以外の国々、特にアジアで成功するチャンスはほとんど無いだろうというのが映画業界における一般的な考え方でした。私はその考えには反対でしたが、異なった文化間でユーモアが完全に伝わりにくいのは確かで、それはアメリカ国内でも同様です。私の未熟ながらも愛すべき作品を通して、日本の映画ファンの皆様に「黒人映画」という失われたジャンルのチャーミングなワイルドさと活気を感じ取っていただき、同ジャンルの他の作品にも目を向けていただければ幸いです。ジャック・ヒル
(轟夕起夫)
スマート1997年9月号掲載記事を改訂!