『ハッピーアワー』は2015年の映画です。
市民参加の即興演技ワークショップに参加した、演技経験のない4人の女性が主演。なのに彼女たち、ロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞!
えー?どーゆー映画? ってふつふつ湧く疑問点は、レビューでご確認ください!
“週末ヒロイン”の濃密な時間の連なり
映画が幕を閉じて、カラダに微熱を感じながらこう思った。「オレは5時間17分何を観ていたのだろう」と。
これは否定的な意味で言っているのではない。むしろ心地良かった。時おり心が毛羽立ったり、シーンによってはささくれだったりして、感情のさざなみが起きたのだが、軸の部分はすっかり映画に身をゆだねて、どっしりと、落ちついて白日夢を見せてもらったのだ。
何の話かって? 濱口竜介監督の『ハッピーアワー』のことである。
すでに報じられたニュース記事等でご存知であろう。演技経験のなかった主役の女性4人全員が、今年のロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した作品だ。
一応、それぞれの役名と共に本人たちの名前も紹介しておくと、あかり(田中幸恵)に桜子(菊池葉月)、芙美(三原麻衣子)に純(川村りら)。皆、平日は各自仕事を持っているため、撮影は主に週末に行われた。これってまさしく“週末ヒロイン”じゃあないか!
看護師のあかりはバツイチで独身、専業主婦の桜子は中学生の息子がおり、夫が編集者の芙美はアートセンターで働くキャリアウーマンで、純はといえば離婚裁判中。
互いに親友同士だと思っていたのだが、その純の決断をめぐって友情に波紋が広がっていき、ひとりひとり、人生の選択をしてゆく――と、ストーリーの大枠を記すと、ごくごく“よくある話”の範疇に落ちつく。
が、それは便宜上のもので、実際には「一体何を観ていたのか」判然としない、それでいてまるで決定的な瞬間に立ち会ってしまったような、濃密な時間の連なりを与えてくれるのだった。
濱口監督は、演技によって虚構の現実をつくりだす「プロフェッショナルな役者」ではない、普段はフラットな日常で過ごす彼女たちに寄せて、脚本に興されたセリフや設定を徹底的に変えていった。
つまり言えないセリフ、出来ない行為はワークショップを通して排除した。しかし本作は、ドキュメンタリーではない。彼女たちは演じる。自分ではない役を。
演じてはいるが、4人のエモーションの強度は本物で、だからわれわれは思わず、画面に見入ってしまうのだ。その場で溢れ出たエモーションを共有している気がして。
そしてひと続きの世界、同じ地平にわれわれは立っている気さえする。そんなふうにこの映画は、全体の演技のチューニングを合わせている。
たとえばである。右手が左手に触れているとき、右手は左手を「物質」として触知しているが、同時に意識の中では、左手が主体となって右手に触れているようにも感じてくる。関係が反転し、相互に浸透するのだが、それが本作と観客との関係だ。
劇中、芙美のアートセンターにて“重心”をめぐるワークショップが開かれ、参加したあかり、桜子、純らは身体を使ったいろいろな訓練を試すが、関係が反転し、相互に浸透する「間身体性」の体験はそこでも象徴的に示されていた。
眺めているこちらもすっかり、一緒に参加している気持ちになる幸福なシークエンス! が、その後、崩れてしまった関係の“重心”回復のドラマが待っている。本作は全篇、4人のヒロインを触知する「間身体性」の映画なのである。
キネマ旬報2016年1月上旬号掲載記事を改訂!