1970年代の映画を観れば、そこでいきいきと息づいている超カワイイ昭和ビューティが気になります。夏 純子さんもそのひとり!
1981年に芸能界を引退されていた夏さんですが、2013年、轟夕起夫は女優当時を振り返るインタビューをいたしました。
「日活100周年記念」というタイミングの2013年に、当時を振り返っていただいたのですが、そのインタビュー記事を復刻します!
夏 純子 プロフィール
なつ・じゅんこ Junko Natsu Profile
1949生まれ。
大映や東映の作品に出演した後、1970年に日活と専属契約、『いちどは行きたい女風呂』で浜田光夫の相手役を演じた。
『シルバー仮面』(1971〜72年)や『江戸川乱歩の美女シリーズ 白い人魚の美女』(1978年)などのTVドラマでも知られる。
1981年、結婚を契機に引退。
主な出演作品は『ずべ公番長 夢は夜ひらく』『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』(共に1970年)、『不良少女 魔子』(1971年)、『トラック野郎 御意見無用』(1975年)、『不連続殺人事件』 (1977年)など。
夏 純子 インタビュー
(取材・文 轟夕起夫)
女優を引退して30年余、夏 純子さんがまさかのインタビュー取材に応じてくださり、『女子学園』シリーズから森﨑東監督映画、TVドラマまで、1970年代を鮮やかに彩った自身のフィルモグラフィを語っていただきました!
ちなみに!森﨑東監督については、こちらに関連記事があります。
21歳、ツインテールで中学生役!
── 近年、髪を2つに分けて結ぶツインテールがブームですが、『女子学園』シリーズ (1970〜71年)の夏さんは見事なツインテールガールでした!
夏 当時21歳だったんですが、役柄が中学生で(笑)。それらしく見せるにはいちばん手っ取り早い髪型かなあって。
──いやあ、とってもお似合いで。
夏 普段も時々やってましたからねえ、ポニーテールにもしたり。衣装のセーラ一服は照れましたが、ヘアスタイルに関しては全く抵抗はなかったです。
──セーラー服以外のファッションに御自身の意見が反映されたことは?
夏 時にはあったと思いますが、だいたいは衣装さん任せでしたね。
第2の浅丘ルリ子として
──女優としてのキャリアはそれ以前から始まっていましたが、1970年に日活入社。「第2の浅丘ルリ子に」と期待されたのは重荷ではなかったですか。
夏 私自身はそんな大それたこと、考えたこともなかったので、実際のところ、気にもなりませんでした。
──「ジェームズ・ディーンのような影のある役をやりたい」と希望されていた矢先に、シリーズ第1弾『女子学園 悪い遊び』で単独初主演のお話が。
夏 ええ。この『悪い遊び』と、のちの『不良少女 魔子』(1971年)はわりとシリアスな映画で、たしかにジェームズ・ディーンを意識しつつ演じていた部分がありましたね。『女子学園』シリーズは、2作目(『ヤバい卒業』)、3作目『おとなの遊び』)とコメディ色が強くなっていきましたが、親の愛に飢えている少女……という基本線は崩さないように務めました。それぞれ役名は違うんですけど、毎回やんちゃなことをしてしまうのは彼女の精一杯の抵抗だったと思うんです。
──なるほど。撮影現場の雰囲気は?
夏 後藤ルミちゃんや、同年代の女優さんもたくさんいて、今で言う女子会ノリで楽しかったです(笑)。み〜んな、仲が良かったですからねえ。
──女優では後藤ルミさん、男優では岡崎二朗さんが全3作に出ていますね。
夏 役柄はヤクザなんだけど、どこかヌケてる愛せるキャラクターで。
──三枚目で、大人と中学生たちの間をつなぐような役回りでした。
夏 そう。で、けっこう真面目なことも言うじゃないですか。この『女子学園』シリーズに関しては岡崎二朗さんがいなかったら成立していなかったなと、今さらながら思います。
──3作目『おとなの遊び』のときに、岡崎さんに「主役としてシッカリしなきゃいけない」と叱咤されたとか。
夏 はい。とにかく忙しい日々が続き、疲れてしまって。ふとグチをこぼしてしまったら「お前の作品のために頑張ってんだぞ、みんな。スタッフの前で絶対にそんなこと言うなよ」って。身があらためて引き締まりましたね。
──その岡崎さんと『おとなの遊び』のあとに共演した『喜劇 いじわる大障害』(1971年)がDVD化されました(=2013年)。当時の落語界、お笑い界の人気者を集めた、監修・立川談志、藤浦敦監督のデビュー作です。
夏 DVDで拝見させていただきました。(立川)談志師匠もそうですが、すでに亡くなられた方々の貴重なお芝居も残っていて、とにかくそのキャストの豪華さにビックリしました。
──『悪い遊び』では先生役の江守徹さんの、或るシーンがお好きだそうで。
夏 プラットホームで私のことを待っていて、やって来ずふっと笑みを浮かべて電車に乗る江守さんの芝居が印象的なんですよね。台本で読んでいた感じとは違っていて、完成し、フィルムが繋がってみて「上手いなあ」って。
──江守さんとは『太陽にほえろ!』の第63話『大都会の追跡』(1973年)でも共演されていました。
夏 えっ、ああ〜、そうでしたね。昔の恋人で逃亡を手伝うことになる……。
──それから第244話『さらばスコッチ!』(1977年)にも出演され、演出は日活出身の小澤啓一さん。
夏 私死んじゃいませんでした?
──そうです! こちらも元日活の沖雅也さん、スコッチ刑事の婚約者役で。
夏 朧げながら覚えています。
印象的な目ヂカラは近眼だから
──『太陽にほえろ!』の殿下役といえば小野寺昭さんですが、『不良少女 魔子』ですでに共演されていましたね。『不良少女 魔子』は同時上映の『八月の濡れた砂』と共に、1971年11月からロマンポルノ路線に移る旧日活の、最後の一般映画でしたがそういう意識は?
夏 「もしかしたら最後かも…」という予感はありましたね。スタッフの雰囲気などで。私にとって大切な作品です。共演者の藤竜也さんにも良くしていただいて、思い出深い1本です。
──日活ニューアクションの流れを汲んだヒロインでしたが、夏さんの“目ヂカラの強さ”が素晴らしいです。
日活ニューアクションについては、こちらの関連記事で語られています。
夏 そうですか、実は私、近眼なんです。だからじゃないかしら(笑)。
──プールサイドで小野寺さんを刺し殺すシーンが名高いですが。
夏 (ラストの)「邪魔だなあ、みんなどいてよ」っていうセリフ……これが難しかったんですよ。10 テイクくらい重ねたんじゃないかな。何だかものすごく大変だった記憶があります。
──蔵原惟二監督もこだわられて。
夏 魔子の置かれた状況、その行為を裏付けるものがよく分からなかったんですよね。役者というのはそこを理解し、演じなければいけないんですけど。
──ニュアンスとして、彼女の強靭な意志は、ビンビン伝わってきます。
夏 そう感じていただければ。映画ってラストが難しくて、ハッピーエンドで終わる場合が圧倒的に多いんですが、私は『不良少女 魔子』みたいに「このあと、主人公はどうなるのだろう」と想像させて終わるのが好きです。
不良少女とは掛け離れていたプライベート
──劇中、ゴーゴーを踊られていましたが、プライベートでは?
夏 当時は、遊ぶ時間なんてほとんどなくて。一度、赤坂のMUGEN に連れて行ってもらったことがあります。
──あの伝説の!
夏 ええ。だけどスゴい人でね、イヤなんですよねえ、人ごみが。
──では本を読まれたり、部屋で過ごされるほうがお好きだったと。
夏 そうですね。今でも、人ごみは苦手で、ひとりでいるほうが好き。
──ジェームズ・ディーン以外で、お好きなアクターはおられましたか。
夏 うーん、メリナ・メルクーリかな。
──渋いですねえ〜。
夏 男優だとジャン=ポール・ベルモンド。二枚目は好みじゃなかったです。
──要は、夏さんの実像は、不良少女とは掛け離れていたわけですね。でも逆に離れた役だと演じていて……。
夏 楽しかったです。啖呵を切ったりするのは。ただし、「こんなドぎついセリフを言うんだ」っていうのはありました。でもこれは自分じゃないんだ、役柄でこの娘がやってるんだって言い聞かせつつ、演じてました(笑)。
──『女子学園』シリーズ、それから『不良少女 魔子』も1970年代初頭の暗中模索している、しかしまだまだアナーキーな青春像が垣間見えますね。
夏 内省的だけど結果は行動あるのみ、って感じで。『ヤバい卒業』に出演もされている吉田拓郎さんの曲(=「青春の詩」)なんて、ピッタリと嵌まっていたなあと思いました。
──夏さん、『ヤバい卒業』では和田アキ子さんの「さすらいのブルース」を歌うシーンがあるんですけど。
夏 覚えてます(と軽く口ずさむ)。
──歌はお好きだったんですか?
夏 大好きですね。
歌手活動
──のちに舞台『グリース』 (1977年)で本格的に歌って踊られましたが、そもそもミュージカル志向は?
夏 それはなかったです。いいタイミングでお話をいただいて「面白いかも」と感じたので。でもダンスをマスターするまでは一苦労でした。
──TVドラマ『愛の迷路』(1980年)の主題歌でシングルレコードを出されたり、ヤマハホールで単独でシャンソンのリサイタルをされたりも!
夏 いろいろ、やってましたね(笑)。
テレビドラマの名作
──TVドラマのお話も伺いたいんですが、『シルバー仮面』(1971〜72年) は佐々木守さんの脚本で、子供番組を装いながら大人向けの作品でした。
夏 春日5兄妹の長女役ですね。当時、他の番組と掛け持ちしていて寝る時間がなかったことが思い出されます。
──1話目の演出は実相寺昭雄さんで。
夏 ああ〜、実相寺さん、撮りたい画が決まっていて、自分の思いを信じていらっしゃる方でした。
──女優さんであっても構わず、ローキーや魚眼レンズで撮ってしまったり。
夏 そうなの。「なんで私、そんな顔してるの!?」ってカットがありました。それは心理的な描写なんでしょうけど照明スタッフさんたちが困ってましたね。「監督、それだとライト、どこにも当てられないよ」って。
──TVドラマでは倉本聰さんが脚本を書かれた『6羽のかもめ』 (1974〜75年)も名作ですね。
夏 あれは倉本先生のホンがなかなか到着しなくて、「次週は生放送かもしれない」って本当に毎週ハラハラドキドキの連続でした。先生のホンは1ページ近く、ひとりで喋ったりするのは普通で、それを当日渡されて、生放送でやるのは無理だったでしょうね。しかも「一字一句、“てにをは”も直さないように」と言われてましたから。
──倉本さんの、当時のテレビ界への怒りと愛情が込められた作品で、執筆に一段と力が入っていたと想像します。
夏 そうなんです。のちに『北の国から』シリーズ (1981〜2002年)を観たりすると、「セリフは一字一句直しちゃいけない」って意味が、よ〜く分かりました。翻って『6羽のかもめ』のときは、気持ちが追いつめられて、自分の感情のまま喋ってしまったこともあって、もうちょっと自分があの頃、成長していれば……と反省あるのみです。
──役柄的には昼のメロドラマの女優さんで、夫が長門裕之さん。日活の方とは要所要所でお仕事をされていますね。
夏 そうですね、高橋英樹さんも出ていました。私、石橋蓮司さんが扮したTVディレクターが、私と一緒に海に入る回が忘れられないんです。
──第23話「非常識」ですね。この回の脚本は、斎藤憐さんでした。
夏 あのときの撮影で私ね、熱が38度くらいあったの。そうしたら石橋さん、私が熱を出しているのをお分かりになって、当初は下にウエットスーツみたいなものを着て入ろうとしてたんですが、「君がそんな大変な思いをしているんだから、僕も何もつけないで入る」っておっしゃって、救急車もすぐに呼べるよう手配してくださったらしいの。ところが海の中に入ったら私、一気に治っちゃったんですよ。熱が引いちゃったの。でもそのときの、石橋さんの素敵だったこと、忘れられません!
役のために
──お聞きして分かったのは、夏さん、役のためなら自分の身を投げ出しても構わないタイプでいらしたんですね。
夏 そうかもしれない。石原裕次郎さんと共演した『影狩り』 (1972年)で馬に乗らなければいけなくなって、初めて世田谷の乗馬クラブで練習をしたんですよね。馬って利口な生き物ですから、人を見るんですよ。当然私はまず落とされて、それで「絶対に乗ってやる!」と心に決めて、足の1、2本折っても仕方ないって気持ちで練習していたら、最後は片手でも乗れるようになったんです。そういう勝ち気なところはありますねえ、今でも。
──松竹で撮られた森﨑東監督の『喜劇 女売り出します』 (1972年)での火事のシーンも、カラダを張られて死にそうになったらしいですね。
夏 一度やると決めたら、やっちゃうほうなんですよ(笑)。
──夏さんはどの役でも身のこなしが美しいですが、スポーツなどは?
夏 中学時代は器械体操をやっていました。あと陸上も短距離を少し。器械体操部はたまたまあって、中学1年のときだったかな。でも1年でやめて放送部に行って。高校では演劇部でした。
引退
──1981年に女優を引退されたわけですが、出演依頼はよくあったのでは。
夏 時折ありましたけど、すぐに子供が生まれまして、4年して次男が。長男が今、31歳です。子育てって生半可ではできないですからね。
──カタい意思だったんですね。
夏 でもなかなか言い出せなかったんです。最後の舞台が名古屋の御園座での『鶴の港 長崎異人館』(1980年)で、賞をいただいたんですね。そのご挨拶のときに「私は引退します。これが最後の舞台です」と言えなくて、涙がポロポロと落ちたんですよ。
──周囲の人はそれを嬉し涙だと。
夏 だと思ってらしたでしょうねえ。
──ご自身は複雑な心境で。
夏 ええ。皆さんに「ありがとうございました」っていう気持ちだったんですけどね。ただ、ちょっと生意気だったかなあと感じるのは、やめるときに「女優である前に、ひとりの女でありたいんです」と会見で言ったんですね。たとえ一時期休業したとしても仕事はきっといつでもできる。女として生まれたならばやっぱり母親になってみたいと思ったし、だから、女優である前にひとりの女として生きたいと。でもこれは本心で、今もそう思って生きていて、その選択は間違っていなかったと思っています。
──では、女優時代も“良き思い出”に彩られているカンジですか。
夏 そうですね、こうやって作品を残していただけるなんて、貴重な私の人生の時間も歴史に刻まれているような気がします。それは結婚して子孫を残すというのとはまた違う格別な味わいがありますね。かつて一緒に過ごしてくださったスタッフ、キャストの皆さんに感謝しますし、今も作品を観続けてくださる方々にも感謝しています。
映画女優のスタートは日活からだった
──最後に。日活という会社へのお気持ちは?
夏 栄えある100周年という節目を迎えましたが、やっぱり、私を育ててくれたところですからねえ、その一部であることは本当に誇りです。今でも「映画女優としてのスタートは、日活からだった」と私は思っております。
映画秘宝2013年5月号掲載記事を再録です!