復刻インタビュー【映画プロデューサー・安藤昇】『渋谷物語』の規格外人生

館理人
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役者・プロデューサーの安藤昇さん(1926年5月24日- 2015年12月16日)のインタビュー記事を復刻です。

館理人
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お話をうかがったのは、安藤さんが企画プロデュースした映画『渋谷物語』が公開された2005年、78歳の時。

館理人
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『渋谷物語』は戦後の渋谷で裏社会を生きた安藤さん自身を描いた実録ドラマです。若き安藤さんを村上弘明さんが演じてますが、のちの安藤さん役でご自身が特別出演もされています。

館理人
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安藤さんの映画は、これが最後となりました。

『渋谷物語』は俺の集大成みたいな映画だね

館理人
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安藤さん、ものすごいストーリーをお持ちです。

安藤昇 プロフィール

あんどう・のぼる
1926年東京都生まれ。
終戦後、焼け跡の東京で愚連隊の長的存在にのし上がっていく。
1952年に安藤組を結成するが、1958年に懲役8年の刑で入獄。出所後、映画俳優として再出発し、『血と掟』(1965年)で映画デビューを果たす。5作続いた『掟』シリーズに次いで加藤泰監督と組み、『男の顔は履歴書』(1966年)『懲役十八年』(1967年)などを残す。1979年の『総長の首』を最後に俳優としては第一線から退き、その後は映画プロデューサー、作家として活躍。
2015年12月16日死去。

『渋谷物語』 データ

監督:梶間俊一
企画・原作・特別出演:安藤昇
出演:村上弘明、南野陽子、遠野凪子、榎木孝明、ほか

特攻隊の生き残りとして復員した安藤昇の実話を映画化。渋谷で安藤組を結成し解散するまでを中心に半生を描く。

安藤昇 インタビュー

(取材・文 轟夕起夫)

事実は小説よりも奇なり。近年、ハリウッドでは伝記映画が隆盛だが、日本にはこの人の物語がある。

「役者なんていうものは、いい加減な商売だから、ヤクザと一緒だね。字だって一字しか違わない、ほとんど一緒だよ」との言葉で知られる、かつてインテリヤクザと呼ばれた安藤昇。

戦後史と映画史が重なる、稀有な人物だ。

ガーシュインの「サマータイム」

 この人の、ダンディーかつ破格な一面を示すエピソードから紹介しよう。映画『渋谷物語』の劇中には、ガーシュインの「サマータイム」はじめ、名曲スタンダードがいくつか流れるのだが、そこにはこんな思い出がひそんでいた。

安藤 俺は「サマータイム」が一番好きだね。昔の話だけど、渋谷の馴染みのナイトクラブに行くと、どんなときでも生バンドが「サマータイム」を演奏して迎えてくれた。このメロディーが聴こえると、俺がやって来たことがお客さんたちにも伝わるんだな。ほとんど俺のテーマ曲みたいになってたよ。

安藤組のリアルストーリー

 安藤昇。氏は本当は、あの戦争で、死ぬ覚悟であった。敗戦直後の東京、特攻隊の生き残りとして復員するや、かつての不良仲間を集め、下北沢、新宿、銀座と縄張りを広げ、渋谷の宇田川町に株式会社東興行を設立……と、いわゆる安藤組リアルストーリーは再三映像化されてきたのだが、プレスシートには次のような言葉が。「私のこれまでの全ての作品は、この映画の序曲に過ぎなかった」――

安藤 集大成みたいな映画だね。俺の書いた「激動」(双葉社刊)をもとに、脚本の段階から関わったんだけど、無数にあるエピソードのどこをどうピックアップしていくかで、1年以上かかったな。映画はとにかく脚本が大事。設計図だから。脚本さえしっかりしていれば、いいものが出来る。

 監督は梶間俊一。安藤氏が企画に名を連ねた『疵』(1988年)以来の名コンビだ。

渋谷の変貌

『渋谷物語』の安藤昇役、すなわち主演の村上弘明は、梶間監督と二人で決めた。

安藤 脚本を読んで興味を持ってくれてね。熱意があったよ、村上さんは。彼のことは前からよく知っていたし、時代劇でもいい役者だからね。それに何よりも、目に力強さがあったんで決めたんだよ。

 安藤氏、ラストには特別出演していまの渋谷、駅前のスクランブル交差点を歩き、この激動の戦後史映画を締め括ってもいる。

安藤 渋谷も変わっちゃったよな。でも、若い人には若い人なりにいまがあるわけだ。とにかくいい悪いは別にして、ずいぶん変わってしまった……という感慨はあるよ。

組解散から俳優への再出発

 安藤氏の人生の稀有さは、義侠心から起こした横井英樹襲撃事件で1958年に逮捕され、1964年に仮釈放後、組を解散。映画俳優として再出発したところにある。

 いきさつはこうだ。週刊誌に連載していた半生記が湯浅浪男監督により『血と掟』(1965年)として映画化。当初は単なる原作者という立場だったが、いつしか主役をやる流れに。本物のヤクザが、自分自身を演じたのだ。これはなかなか例を見ないことだ。

 映画は話題を集めて大ヒット。配給した松竹のその年の配収第1位に。安藤氏、40才のときの出来事である。

安藤 実は『血と掟』の前、ずっーと前に東宝から映画に誘われたことあったんだよね。俺が(ヤクザに)顔を切られ、キズがつく前の話。監督の杉江敏男さん、たしかあの人だと思ったな。その頃は俳優になる気なんかなかったからね。松竹ではいきなり一年間に1本出たでしょ。こっちは何が何だか分かんないままやっていた。クダらないのでも何でも出ていたな。まあ、俳優業に面白みも感じたけど、金につられちゃったんだよ(笑)。だってね、刑務所から帰ってきたときの所持金が3万円ほど。最初の映画でギャラとして100万近い金が入って。それで「当たったから専属になってくれ」って言われた。本気で俳優なんかやる気もなかったので、じゃあ契約料は2000万って吹っかけたら、製作部長の白井昌夫さんが本当に持ってきた。いまでいうと2、3億くらいになるんじゃないか。こっちはブラブラしてたから金に釣られたわけだ(笑)。それでやりだしたんだよね。

監督・加藤泰との出会い

 松竹では名匠・加藤泰との出会いがあった。

安藤 医者の役だったからね、昭和医大の外科の先生を見に行ったよ。

 『男の顔は履歴書』(1966年)。初めての役作り。安藤氏は本当の俳優になった。

安藤 加藤泰さんは面白い監督だったね。ローアングル、下からカメラを煽って撮るんだよ。何でかっていうと劇場の一番いい席で芝居を観るのと同じ位置を作ってるんだ、って言うんだよね。そのためにどこでも穴を掘っちゃう。助監督たちはスコップ持って、加藤さんの後ろをついていく。外のロケではいいけれど、さすがに松竹のスタジオはコンクリートで、掘れなかったみたいだな(笑)。

仰天の撮影スタイル

 1969年、その加藤泰の勧めもあって東映に移籍。1970年代の実録路線では『やくざと抗争』を皮切りに、『やくざと抗争・実録安藤組』『実録・私設銀座警察』『実録安藤組・襲撃篇』を連打し、劇団状況劇場の主宰、唐十郎監督の『任俠外伝玄界灘』(1976年)にも主演。さらに監督業(共同監督は椎塚彰)にも挑戦した。これはヤクザの世界に肉薄した、安藤氏しか撮れないドキュ・ドラマ『やくざ残酷秘録片腕切断』(1976年)。

 何と指詰めのシーンはフェイクなし、仰天の撮影スタイルだった。

安藤 切ったらさ、小指は1メートルくらい飛んで、血がピューっと吹き出た。すごかったねえ。あのときは「30万出すから指を切るヤツいないか」って知り合いのヤクザに訊いたら、ちょうどいたんだよ、トッポイ奴が(笑)。で、撮影してすぐにくっつけようと現場に医者も待機させていたんだけど、奴は「いらない」って言う。カッコイイからだって。この話にはまだ続きがあって、映画のクランクアップ後、労をねぎらおうと奴を高級旅館に招待したんだ。詰めたその指を返したら、冷蔵庫に入れたまま忘れて帰っちまった。旅館の人が冷蔵庫開けて、ビックリだよ(笑)。監督業は1回でギブアップだったね。大変だよ。1本の映画を始めから終わりまでやるのは、恐ろしく体力がいる。

喜びも苦しみも人の3倍

 現在は、事業とプロデュース業の日々。趣味の麻雀の話題になったら、顔が格段ほころんだ。

安藤 だいたい俺は、普通の人の3倍くらい生きているからね。終戦を迎えるまでが1回目。2回目はヤクザをやめるまで。40才からその先の俳優生活が3回目。喜びも苦しみも人の3倍。ずいぶんといろんなことをやってきたな。まあ、偶然映画界に入ったようなものだけど、嫌いじゃ出来ないしね。結局、俺は、映画が好きなんだな。

轟

キネマ旬報2005年3月上旬号掲載記事を再録!