100年の証人・映画監督【新藤兼人】とは何者か〜99歳復刻インタビュー

スポンサーリンク
Photo by Kate Macate on Unsplash
館理人
館理人

99歳のときに新作映画『一枚のハガキ』(2011年)を公開した新藤兼人監督作。これが遺作となり、公開の翌年、100歳でなくなりました。

脚本家であり、映画監督である新藤兼人氏。インディペンデント映画の先駆で、近代映画協会会長、没後に叙された従三位(映画監督としては黒澤明に次ぐ)…。大巨匠です!

『一枚のハガキ』公開時に行われたロングインタビューを復刻しご紹介します。

館理人
館理人

まずはプロフィールから! 

スポンサーリンク

新藤兼人プロフィール

KANETO SHINDO Profile
しんどう・かねと

1921年広島県生。
1934年に京都・新興キネマの現像部で働き始め、後に移った美術部でシナリオ執筆開始、溝口健二監督に師事する。

終戦後は脚本家として『安城家の舞踏会』 (1947年)、『源氏物語』(1951年)、『しとやかな獣』(1962年) 、『刺青』(1966年)、『けんかえれじい』(1966年)、『ハチ公物語』(1987年)など日本映画史に残る幾多の傑作を生む。

一方、1950年に近代映画協会を設立、1951年に『愛妻物語』で監督デビュー。その後『原爆の子』(1952年)、『第五福竜丸』 (1959年)などの秀作を生み、1960年『裸の島』でモスクワ国際映画祭グランプリを受賞。1995年『午後の遺言状』であらゆる映画賞を独占。
2011年の『一枚のハガキ』が遺作となる。
2012年5月29日(100歳)死去。

世界的映画人・新藤兼人ストーリー

(轟夕起夫)

 御年99歳で新作映画を発表! 新藤兼人は日本映画界が誇る、世界的な映画人のひとりだ。

 1934年、まず京都の新興キネマの現像部で働き始め、後に美術部に移るも、シナリオ修業をしつつ美術監督の水谷浩、巨匠・溝口健二監督に師事。

館理人
館理人

海外でも高く評価される監督・溝口健二の映画に『雨月物語』『西鶴一代女』『祇園草子』などがあります。

 戦後、復員してからは『安城家の舞踏会』『お嬢さん乾杯』などで脚本家として名を成し、1950年、松竹を退社して、吉村公三郎(監督)、殿山泰司(俳優)、絲屋寿雄(プロデューサー)らと「近代映画協会」を設立。日本のインディペンデント映画の先駆者となる。

館理人
館理人

吉村公三郎監督の作品には『女の勲章』などがあります。

 1951年、結核で死別した最初の妻・久慈孝子への思いを作品化した『愛妻物語』で監督デビュー。遺作『一枚のハガキ』もそうだが、新藤兼人は最初から一貫して、自分の経験を映画へと昇華していく作家だったのだ。

 彼の人生を語る上で欠かせないのが、公私共に同志的な関係を結んだ女優・乙羽信子。

『愛妻物語』に主演したこの大映の専属スターは『原爆の子』にも志願し、大映を辞め、1952年、「近代映画協会」入りした。

館理人
館理人

乙羽信子は日活入社前は宝塚歌劇団のトップ娘役でした。

 彼女の遺作となる1995年の『午後の遺言状』まで、新藤映画のミューズ、“創作の源”として彼と人生を歩んだ。

 新藤兼人の代表作の1本、1960年の『裸の島』は、作品を次々発表するも興行的成功を得られず、借金が重なり、立ち行かなくなっていた「近代映画協会」の解散記念として小編成で撮ったものだった。乙羽信子と殿山泰司を主演に、瀬戸内海の孤島での苛酷な生活を描いた本作は、モスクワ国際映画祭グランプリに輝き、世界60カ国以上で公開、その上映権の売却益によって累積赤字を解消したという。

 脚本家としても精力的に活動し、玉石混合、とにかく多作。監督作では生と性、老い、つまりは人間をまるごとテーマに据え、新藤映画では出演女優が自らをむきだしにし、裸体になることを厭わなかった。

『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年)や『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2008年) といった自分史を反映した作品を世に問う、“全身映画作家”の顔もむろん忘れてはならない。

 2011年の4月、ニューヨークにて開催された回顧展。プログラムディレクターを務めたベニチオ・デル・トロが選んだ10本は『原爆の子』『どぶ』『第五福竜丸』『裸の島』『母』『鬼婆』『藪の中の黒猫』『裸の十九歳』『竹山ひとり旅』『落葉樹』

館理人
館理人

ベニチオ・デル・トロはプエルトリコ出身のハリウッド俳優!出演作に『ユージュアル・サスペクツ』『トラフィック』『チェ 39歳別れの手紙』などがあります。

 デル・トロは原爆を映画で取り上げ続けてきた新藤監督を尊敬しており、また幼い頃に母親を亡くしたため、『落葉樹』にも一際共感を寄せているそう。

 なお、海外での評価では(なぜか……)『鬼婆』が、ウィリアム・フリードキン監督の選んだホラー映画13本の中に入っている。

館理人
館理人

ウィリアム・フリードキン監督作に『エクソシスト』『恐怖の報酬』など!

 遺作『一枚のハガキ』公開時、CS放送の日本映画専門チャンネルでは ニューヨークで上映された10作、並びにデル・トロとの対談の模様が独占放送された。さらに劇場・テアトル新宿では、特集上映「映画監督:新藤兼人の軌跡」が開催と、最高齢の作家を称えるイベントが続いた。

館理人
館理人

ふむ。その遺作『一枚のハガキ』とはどんな映画?

スポンサーリンク

『一枚のハガキ』

2011年 監督・脚本・原作:新藤兼人、出演:豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政、柄本明、倍賞美津子、大杉漣、津川雅彦

 戦争末期に徴集された100人の中年兵は、上官がクジを引いて決めた戦地へとそれぞれ赴任することになっていた。クジ引きが行われた夜、松山啓太(豊川悦司)は仲間の兵士、森川定造(六平直政)から妻・友子(大竹しのぶ)より送られてきたという一枚のハガキを手渡される。その文面はこうだった。

「今日はお祭りですがあなたがいらっしゃらないので何の風情もありません。友子」

 戦後、自分が生き残ったことに贖罪意識を感じる啓太と、家族も、女としての幸せな人生も、何もかも失ってしまった友子。戦争に翻弄され、全てを失った二人が選んだ再生の道とは……。

 ニール・ジョーダン監督が審査委員長を務めた第23回東京国際映画祭にて審査員特別賞を受賞。新藤監督が99年の人生をかけた“ラストメッセージ”である!

館理人
館理人

なるほど!

館理人
館理人

ニール・ジョーダン監督作に『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』『オンディーヌ 海辺の恋人』などがあります。

館理人
館理人

てことで、いよいよ復刻・新藤兼人監督のインタビュー記事に突入!

『一枚のハガキ』は、上記のような多作監督が、これが最後と入魂で撮った映画です。

ちょっと前置きが長かったですが、新藤監督の歩みの概要がわかるとなお、心にグッとくるインタビュー内容です。

スポンサーリンク

99歳 新藤兼人 復刻インタビュー「やり残したことはありません」

(取材・文 轟夕起夫)

──「監督として最後の映画」との思いと覚悟がみなぎっている『一枚のハガキ』。御自身の戦争体験に着想を得て、製作されたそうですね。

自分の目で見た戦争

新藤 私は今、99歳ですが、「実際に自分の目で見た戦争を映画にしてからでないと死ねない」という一念で、この『一枚のハガキ』を作りました。

──赤紙が届いたのは1944年のこと。所属されていた興亜映画が解散し、松竹大船撮影所に吸収され、脚本部へと移籍した矢先だったとか。

新藤 ええ。32歳のときでした。それで広島の呉海兵団に海軍二等水兵として入隊したんです。そこで100名が選ばれ、奈良県の天理教本部に連れていかれた。そこは海軍に接収されており、特攻隊となる予科練生のための宿舎を掃除することが任務でした。もとは全国の信者用の施設で、年一度の大祭のときしか使わないのでノミやホコリがひどくてねぇ。1ヶ月かけて、100名で宿舎全部を掃除しました。掃除が終わると100名の中から60名が陸戦隊として、フィリピンのマニラに行くことになりました。

戦友との約束

──60名がフィリピン行きとなる前夜、映画では新藤監督がモデルとおぼしき松山(豊川悦司)が、戦友(六平直政)から一枚のハガキを見せられます。戦友の妻・友子(大竹しのぶ)の記したあのハガキの文面は、実際に新藤監督が目にしたものだそうですが。

新藤 そうなんです。私は木製の二段ベッドで寝ていたんです。そうしたら上で寝ていた戦友が一枚のハガキを突き出した。そこには「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないので、何の風情もありません。友子」と書いてあった。僕は当時、駆け出しのシナリオライターでしたが、手紙の文面の「何の風情もございません」という言葉にとりわけ胸打たれました。大切なあなたがいないから、お祭りがあっても何の風情も面白みもない、と。つまりは、生きている甲斐がない、と奥ゆかしく嘆いた文面だったんですね。そういう気持ちは、夫を戦争に持っていかれた女性ならば、誰もが皆、胸にしまっていたものです。

──そのとき、戦友の方とは、どんな会話を交わされたんですか。

新藤 彼は私にこう言いました。「返事を書きたいが、検閲があるので、あとを頼む、と、その一言さえ返事が書けない。おそらく俺は死ぬだろう。もしキミが生き残ったら、友子をたずねて「このハガキを確かに俺が受け取った」と伝えてくれ」と。

戦地へはクジ引きで

──切ないですね……。そのフィリピン行きの60名、上官の引いたクジで決められていたというのも驚きです!

新藤 戦争とはそういう酷いものですよ。輸送船に乗った60名はマニラに着く前に、アメリカの潜水艦にやられました。みんな、海の底に沈んでしまったわけです。むろんハガキを見せてくれた彼も……。霊魂では奥さんのことは守れない。だってこの世には居ないんだから。残念ながら現実はそうですよね。では奥さんはどうなったか。きっと夫が死んで、女の一生は潰れましたね。国家から表彰され、戦争未亡人になっても、一家の働き手の中心がいなくなったんだからさぞかしそれは、哀しい運命を辿ったと思う。戦争というのは、ひとりの人間の人生を破壊するだけではなく、その家族すべてをメチャクチャにする愚かな行為なんです。

──フィリピン行きは免れたものの、残る40名の運命も苛酷でしたね。

新藤 さらに上官のクジで、残り40名のうち、30名が潜水艦に乗った。こちらも生存は絶望的ですね。残された10名が宝塚歌劇団の劇場や学校の掃除に派遣されました。またも予科練生を入れるためで、その中に私もいて、最後は10名の中から4名が海防艦に乗る機関銃士になり、残ったのは6名。それで次、どこに行かされるのか.……と思っていたところで、終戦を迎えました。

94名の魂

復員して松竹大船撮影所に復帰し、再び映画の仕事をするようになるんですが、やがて私は自分の“幸運”について考えるようになりました。私の運というのは、94名が代わりに死んでくれたから手にできた運なんです。だんだんと「94名の犠牲の上に立って生きている」ということが、双肩に重くのしかかるようになってきました。いわば私は94名の魂を背負いながら、今まで生きてきたわけです。こうして最後に、私が体験した戦争……つまり将校や参謀、兵隊を背後から操ろうとした人たちにとっての戦争ではなく、しがない二等兵、ひとりの人間が目撃した戦争を映画にしました。

──本当にこれで「最後の監督作」になってしまうのですか?

最後の監督作の覚悟

新藤 もう監督としては映画を作りません….…いや、作れないんです。脚が悪くなり、歩行も困難になり、今、車椅子に乗っていますけど、撮影現場では全カット、私の孫(=新藤風)が車椅子を押してくれました。

館理人
館理人

新藤風の監督作に『島々清しゃ』あどがあります。

「今度はキャメラはここへ」と私が指図するたびに彼女は車椅子を動かし、とてもしんどかったでしょうけれど、結果、言い残したこと、やり残したことなどなく、監督人生をおしまいにすることが出来たと思っています。

ニューヨークでの新藤兼人回顧展

──世界はいっそう、新藤映画を待望しており、2011年の4月、ニューヨーク、ブルックリンのBAMシネマテークにて、新藤監督の回顧展が開かれましたね。プログラムディレクターは世界的な俳優ベニチオ・デル・トロでした。

新藤 デル・トロ氏にはとても感謝しています。彼の勇気ある行動をありがたく思っております。

──『一枚のハガキ』の先行プレミア上映に、デル・トロのセレクションで『原爆の子』(1952年)や『裸の島』(1960年)など代表作10本を紹介。特に『原爆の子』は、ニューヨークで上映されたのは初めだったんですよね。

アメリカでの原爆映画の反応

新藤 私は上映前、石でも投げられるのかと思っていたんだけど、そうではなかった。終映後、みんなが手を叩いてくれた。私は広島生まれですからね、広島になぜ原爆を落としたのか、そのことを問い、抗議するために『原爆の子』を作った。それが約50年後、アメリカで上映されたんです。アメリカ人もあの戦争が終わって66年も経っているので、冷静になっている。アメリカが広島へ原爆を落とした事実。しかもなんの警告もなしに、民間人の生活する平和な市街地へ実験的に落としたという事実。ニューヨークに住んでいるアメリカ人が「そうか、自分たちの国はそんな野蛮なことをしたのか」と冷静に受け止め、観てくれて良かったなと思いました。

──ちなみにデル・トロは、新藤映画では『裸の島』が一番好きだそうです。

映画は言葉ではなく映像

新藤 『裸の島』を作ろうと思ったのは、私が農民の家に生まれ育ち、父や母の農民としての労働を見て育ったから。人間の生き方、労働の原点を忠実に見つめてみたかったんです。小さな島を舞台に、登場人物を二人に絞ったのは、世界中の労働を煮詰めていくとたった二人、たったひとつの家族になり、そこで人間の生き方の縮図として象徴的に描けると思ったので。

それから“映画詩”を作ろうという意図もありました。映画は言葉ではなく映像である。だから映像の積み重ねで映画は作られるべきだと。私が理想とする映画の作り方を、試しにやってみたわけですね。二人の農民と二人の子供、その黙々とした生き方にはダイアローグは必要ない。

もちろんトーキーだから風の音や人間の声は聞こえるけれども、対話はなく、林光の音楽さえあれば良くて、1コマ1コマ、“フィルム自体の力”で映画を作ってみた。私は今までダイアローグのある映画もたくさん発表してきましたが、実は他の映画もそういうつもりで作っているんです。

──『一枚のハガキ』も、“フィルム自体の力”を感じる映画ですね。劇中、『裸の島』のように、登場人物が天秤棒で水汲みをするシーンも出てきます。

仕事は一生懸命やれば面白い

新藤 ニューヨークでは、『一枚のハガキ』のヒロイン、友子の運命を観て、感じて、アメリカの女性たちは泣いてくれたという。あらためて映画という仕事は、真面目にやるべきだなと思いましたね。こうやって時を超えて観てもらえるものなんですから。

いや、映画だけでなく、仕事とはそういうもの。人生と同じですね。悲喜こもごもだけども、一所懸命やれば面白い。

『裸の島』で農民夫婦は水を大地にかけます。するとたちまち吸い込んでしまう。でも、負けずにまたかけます。その繰り返し。それが人間の生き方だと思う。大地に水をかけるのは“心に水をかける”こと。乾いた土とは私たちの心であり、果てしなく水を注いでいかなくてはならないのです。

人は立ち上がれる

『一枚のハガキ』という映画は戦争の悲惨さだけでなく、戦火を潜り抜けた男と女を通して、「どんなことがあっても人は立ち上がれる」……そんな人間の力強さも描いています。そう、私たちの心は乾いているからこそ、水をかけ続けなければいけないのです。

轟

映画秘宝2011年9月号掲載記事を改訂!

館理人
館理人

新藤兼人監督は約370本もの脚本作がありますが、シナリオやシナリオに関する書籍も多数です。