そんなペキンパー監督の『キラー・エリート』、高倉健さんがインタビューで出演依頼があったと語っていた映画でもあります。出演はしてませんよ。
映画製作の裏側を知っていればもっとずっと面白く見られる映画ってありますが、これもその1本! そんなあたりをご紹介したレビューとなります。
『キラー・エリート』(1975年)概要
【データ】
『キラー・エリート』原題:THE KILLER ELITE
1975年 アメリカ 監督:サム・ペキンパー 製作総指揮:ヘルムート・ダンティン 製作:マーティン・バウム、アーサー・リュイス 脚本:マーク・ノーマターリング・シリファント 撮影:フィル・ラスロップ 編集:モンテ・ヘルマン 音楽:ジェリー・フィールディング
出演:ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、ギグ・ヤング、アーサー・ヒルバート・ヤング、マコ岩松
【ストーリー】
サンフランシスコの民間護衛組織コムテグに所属するマイクは、任務の中で仲間のジョージの裏切りにあい、瀕死の重傷を負う。復讐という一念で必死のリハビリにより復活したマイクは宿敵との対決に向かう。しかしジョージの背後には自らが所属する組織の影があった。自分を裏切った組織への復讐のため、殺しのエキスパートたちを引き連れ立ち向かっていく…。
80年代アメリカ忍者映画ブームの先駆は、こうして生まれた!
(轟夕起夫)
世に“怪作”と呼ばれる映画は少なくないが、『キラー・エリート』は筋金入りの怪作である。
何がスゴイって、1本の映画が要所要所で転調し、そのノリはさながら往年のプログレッシヴ・ロックのよう。しかも、信じていた者に裏切られた主人公がクンフーを特訓しリベンジに挑む……って、これじゃまるでクエンティン・タランティーノの『キル・ビル』みたいではないか!
『キル・ビル』のレビュー記事はこちらにあります。
それはあながち間違ってはいない。事実似ているシーンもある。だが『キル・ビル』は、タランティーノ個人の“夢想”への周囲の献身的な協力体制の賜物だったが、『キラー・エリート』は、監督サム・ペキンパーの思惑以上の力の綱引きが(大人の事情的に)作品を歪(いびつ)なものにしているのであった。
筋立ては至ってシンプルな映画である。マイク(ジェームズ・カーン)とハンセン(ロバート・デュバル)は、CIAの下請け組織コムテグの一員。ところがハンセンに裏切られ、マイクは肘と膝を撃たれる。
1年後、ようやく歩けるようになった彼は空手道場に通い、拳法を学ぶ。とそこに、コムテグの幹部(ギグ・ヤング)がやってくる。滞在中の台湾人政治家(マコ岩松)を「護衛し国外へと脱出させる」 任務を携えて──。
冒頭、サン・フランシスコの街中のビルを爆破し、マイクとハンセンが亡命政治家を救出して車に乗せるシーンの小気味よいカットの連続に、ペキンパーらしさを感じることができる。
それからマイクが雇う、旧友で運転のエキスパート(バート・ヤング)、射撃のプロ(ボー・ホプキンス)などのキャラ立ちにも。けれども(ハンセンも所属する)日本から送り込まれた忍者暗殺隊(!)との奇妙な対決が浮上、映画は迷走してゆく。
では一体、誰が本作をどんどん歪ませた“キラー・エリート(えり抜きの殺し屋)”だったのか?
まず、スコッチ・モルツ浸りだった監督のペキンパー自身に責任があるだろう。それから原作(元合衆国政府職員のロバート・ロスタンドが1973年に発表した同名小説)の舞台ロンドンでの撮影を拒み、「アメリカ国内に変えてくれ」と言った主演のジェームズ・カーンにも。
とばっちりにあったのはマーティン・バウムだ。ペキンパーとは、社長だったABC映画社で『わらの犬』 (1971年)を製作して以来のつきあい。
『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』 (1972年)を持ちかけ、『ガルシアの首』(1974年)では製作総指揮。幻の映画『頑固者』を企画し、遺作『バイオレント・サタデー』 (1983年) も仲介した。
だがこの脚本変更をめぐって、何とバウムは「コイツを解雇しろ!」とペキンパーに噛みつかれた(言い方は当て推定)。無論これは効力を発揮しなかったが、脚本は紆余曲折を経て、『夜の大捜査線』(1967年)のオスカー受賞者スターリング・シリファントのもとへと渡った。
当時『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年)や『タワーリング・インフェルノ』(1974年) などパニック映画で大ヒットを飛ばし、いつも以上に気が大きくなっていた(またも当て推定)シリファントは、サンフランシスコに舞台設定し、酒浸りでごねるペキンパーを「俺はブルース・リーに学んだんだ。あんたを糞を垂れ流すほどぶちのめしてやることもできる」と同喝した(これは本当の話)。
ブルース・リーの武術指導の経験者であったシリファントはクンフーシーンを劇中に盛り込み、忍者集団を登場させた。
曰く「劇中に忍者を導入することで、自分の空手仲間の大半に仕事を提供することができた」とのこと(←あれ? これって公私混同ぽくないか?)。そして、護送される政治家をアフリカ人からアジア人に変更した。その娘役を演じたのはシリファントの妻ティアナ.……やっぱり公私混同じゃないか!
それでも映画は完成する。編集が気に入らなかったペキンパーは『断絶』 (1971年)の失敗後、映画が撮れなくなっていたモンテ・ヘルマンを呼んでやり直させた。
実はヘルマン、先の『ジュニア・ボナー』や『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』 (1973年)の監督に予定されながらイン出来ず、ペキンパーに譲っていた因縁があった。
いまではこの『キラー・エリート』は、1980年代のアメリカの忍者映画ブームの先駆作とも位置づけられている。忍者軍団の中には、ダニー・イノサントもいた。フィリピンの武術“カリ”の名手にしてブルース・リーとは“ジークンドー(截拳道)”を創始した同志。
彼のアクションが、ペキンパー的なスローモーションと(あまり効果的ではなかったが)競演していたと考えるのはちょっと面白い。
懲りないペキンパーは独自に脚本をいじり、エンディングも書き直したが、ついに採用はされなかった。ラストの“大人の事情”を感じさせる曖昧かつ不気味なショットは、ものすごーく「怨み節」感が漂っていて恐ろしい。
ちなみにスターリング・シリファントだが、本作のあと、ペキンパーの師匠ドン・シーゲル監督の『テレフォン』 (1977年)の現場で徹底的に鍛え直されたはずだ。
そのシリファントももう、この世には居ない。
ワンダーマガジンDVD 2004年夏号掲載記事を改訂!