中村錦之助(1932年11月20日〜1997年3月10日)は、歌舞伎界から東映にやってきて、数々の名作を残した、戦後の時代劇スーパースター。
中村錦之助は、40歳で芸名を萬屋錦之介に変更しました。なので、同一人物です!
どんなスターだったのか、どんな作品に出てたのか。
中村錦之助について語ります!
中村錦之助として
声良し、所作良し、立ち回りも良し。天才役者にして戦後時代劇のスーパースター、中村錦之助。その64年間の歩みーー多彩な役柄を通じて映画の歴史を変革し続けた挑戦の軌跡を、ここでザックリと振り返ってみたい。
そもそも彼は、古典の芸事をしっかり身に付けた役者であった。父は三世中村時蔵。幼少時から歌舞伎役者として、立役や女形を経験。
だが梨園を離れて1954年、美空ひばりと共演した松竹配給 『ひよどり草紙』で映画界へ。
同年、東映に入社し、『新諸国物語 笛吹童子』3部作の美剣士役で一躍人気スターに踊り出た。
続いて『里見八犬傳』5部作(1954年)と『新諸国物語 紅孔雀』5部作(1954年〜55年)も大ヒット。錦之助は時代の寵児になっていた。
やがて、一連の少年冒険活劇から脱皮していき、大人の俳優へ。『紅顔の若武者 織田信長』(1955年)で若き日の信長役を任され、『任侠清水港』(1975年)では森の石松役を。
そして、名コンビとなる沢島忠監督と組んだ映画が『江戸の名物男 一心太助』(1968年)。粋でいなせな魚屋、チャキチャキの江戸っ子・太助と、三代将軍家光を演じ分け、スピーディーかつ歯切れのいい演出で全5作を数える人気シリーズになった。
「おい、この俺を知らねえで、それでもテメエたちぁ、江戸っ子か!(略)曲がったことは大嫌え、一心太助たあ、俺のこったい!」
こんな威勢のいい啖呵が聴けるのは、『一心太助 天下の一大事』(1958年)。沢島監督は錦之助の“陽”の顔を存分に引きだし、合わせてそのポップなタッチを全開、時代劇のモードも変えた。
加藤泰監督の『風と女と旅鴉』(1958年)では、自ら発案し、常識破りのノーメイクでチンピラやくざ役に。現代劇に近い感覚を狙った試みは、まさにモダニズム、彼が斬新なセンスの持ち主だったことが分かる。
翌1959年、近松門左衛門の「冥途の飛脚」「恋飛脚大和往来」をベースにした『浪花の恋の物語』では、大阪の商人・飛脚問屋の若日那をシットリと。
関西弁のセリフをマスターし、道行きの悲壮美を極めた。
演出は巨匠・内田吐夢。錦之助を大きく育んだ『宮本武蔵』5部作は構想通りに1961年〜65年まで、1年1作体制、5年がかりで取り組んで完成。これは、剣に生きた武芸者にして求道者・武蔵と、俳優・錦之助が1作ごとに成長していく一大ドキュメントでもあった。
内田吐夢との出会いで、彼のリアリズム志向はいっそう研ぎ澄まされていった。
硬軟、陰陽どちらのキャラクターも自分のものにしてしまうのが錦之助の凄さ。ゆえに次々と巨匠から声がかかることに。
伊藤大輔の『反逆児』(1961年)。
田坂具隆の『ちいさこべ』(1962年)。
今井正の『武士道残酷物語』(1963年) では、島原の乱から現代まで、不条理な忠義に殉じていく7代の悲劇、つまり、ひとり7役(サラリーマン役も!)を完璧にこなしてみせた。
シリーズ第1弾、マキノ雅弘監督の『日本侠客伝』(1964年)に客演、自分の代わりに主演に推薦した高倉健がブレイクし、図らずも東映の任侠映画路線に弾みをつけ、かたや『瞼の母』(1962年)、『関の彌太ッペ』(1963年)、『沓掛時次郎 遊俠一匹』(1966年)と長谷川伸原作の股旅ものに寄り添い、時代劇の王道を守った。
いずれも純な男気とアウトサイダーの哀しみを背負った渡世人役、錦之助十八番の独白シーンが堪能できる日本映画史上の名篇である。
例えば番場の忠太郎を演じた『瞼の母』では、長年探していた母親と遂に出会い、言葉を交わすも心を通わせられないシークエンスが白眉だ。
山下耕作監督の『関の彌太ッペ』で扮したのは、愛する妹の死によって、人生が一変してしまう旅人(たびにん)。
錦之助は10年の月日の流れの重みを見事に体現、「この姿婆にゃあ、悲しいこと辛えことがたくさんある。だが忘れるこったあ。忘れて、日が暮れりゃあ、明日になる。あぁ〜、明日も天気か……」という名ゼリフで泣かせる。
『沓掛時次郎 遊俠一匹』は、一宿一飯の恩義でやくざ者を斬り、残された妻子の身柄を引き受けるもいつしか恋情を抱いてしまう切ない設定。
「人間の心って奴あ、テメエでどうこう出来るもんじゃねえ、勝手に動きだしやがる……」と、宿の女将に我が身の苦悩を、知人の話、として滔々と語る場面の素晴らしさ。
加藤泰監督の長回しとあいまって、忘れ難いシーンになっている。
萬屋錦之介に改名してから
1972年、萬屋錦之介と改名、『丹下左膳 飛居合斬り』(1966年)以来12年ぶりに古巣、東映京都で撮影した『柳生一族の陰謀』(1978年)が大ヒット。
『柳生一族の陰謀』深作欣二監督作です。深作欣二監督については、こちらに記事があります!
驚天動地のラストで披露される柳生但馬守の独白シーンも有名で、「夢じゃ夢じゃ! 夢でござぁ〜る!」と謡いあげるセリフ回しは、さながらオペラの詠唱(アリア)のごとし。
日本の伝統芸能、歌舞伎で培った技量を映像の世界で独自に発展させてきた突破者。残された傑作群を振り返ってみれば、『中村錦之助/萬屋錦之介』という役者の魅力は断然ワールドワイドで、例えば「オペラのそれを彷彿させる」ほど広くて深い。
劇中、彼が喜怒哀楽をほとばしらせるや、どのセリフも万人の胸を震わす“激情の歌”と化すのだから。しかも所作良し、立ち回りも良し。天才役者にして戦後時代劇のスーパースター、と呼ばれる所以である。
(轟夕起夫)
東映キネマ旬報2009年秋号掲載記事を改訂!