インド映画です!
インド映画の枠を超え、さまざまな映画ファンを虜にする至高の本格派サスペンス・エンターテインメント映画『女神は二度微笑む』のレビューです。
術中にまんまとはまり、トラップの良いんに浸れるボリウッド映画
ヤラれた。二転三転する展開に翻弄され、術中にはまって完全に手玉に取られた! しかも後からジワジワと、そのトラップの余韻に浸れるおまけ付き。
以上、グローバル化が進むボリウッド映画の勢い、完成度を改めて印象づける『女神は二度微笑む』の率直な感想である。いやあ、面白かった。
導入部。いきなりの先制パンチ。コルカタ(以前はカルカッタと呼ばれた大都市)で百名を超える犠牲者を出した、毒ガスによる「地下鉄無差別テロ事件」が点描され、未だ全容が解明されぬまま2年が経ち、コルカタの国際空港にひとりの妊婦が降り立つ。
ロンドン在住の彼女は、この街に出張し消息不明となった夫捜しのため、単身やってきたのだ。が、宿にも勤務先にも形跡は認められず、やがて風貌が瓜ふたつの“ミラン・ダムジ”という危険人物が浮上、彼こそはあの無差別テロ事件の首謀者と目される男──。
情報機関や殺し屋も絡んできて、ドーする、ドーなる妊婦さん!! てなわけで、広げた“大風呂敷”をどう畳むのか見ていくと、これが実に巧妙でして。
いい意味で、手のひら返しが上手く、後半のあるシークエンスなんて「あらら!? せっかくここまで順調に構築してきたのに、今の演出はお粗末じゃね?」と心の中でツッコんだものの、それは周到に仕掛けられたワナで、まんまとミスリードに引っかかっていたのだ。
今回邦題として付けられた『女神は二度微笑む』の“女神”とは、ヒロインを表すと同時にヒンドゥー教の戦いの女神ドゥルガーを指し、映画のクライマックスにはインド三大祭りのひとつ、“ドゥルガー・プージャ”のエキサイティングな祝祭空間があらわれる。
このモブシーン、本作にボリウッド映画おなじみの派手な歌や踊りがない代わり、かと思いきや、単なるローカリズムではなく本質的な主題を形成しているのだった。
ボリウッド映画ってのは、ハリウッド映画に対して、インドの映画産業が盛んなボンベイ=現ムンバイ発のものにつけられた作品群をさします。
これを説明すると映画の謎解きのヒントになってしまうので差し控えるが、ひねりの効いた、隠された謎の真相は最後まで多分……いや絶対にわからない、と言い切っておこう。
おっと、ちょっとハードルを上げ過ぎたか? フィルムフェア賞(←インドのアカデミー賞)で監督賞や主演女優賞など5部門を獲得。スジョイ・ゴーシュ監督は今後何と、東野圭吾原作の『容疑者Xの献身』のリメイクを手がける予定だとか。
ハリウッドでのリメイクが決定したとの情報もありましたが、2020年3月現在、いずれもまだその後の製作状況ニュースは見られないようですね。
全編エモーショナルに、激流のごときドラマを牽引していくのは名花ヴィディヤー・バーラン。さて、彼女を助ける地元の新米警察官とのやりとりも重要なパーツになっておりまして。
特に“ラナ”と愛称で呼ばれ、名札には本名の“サトヨキ”と記されている彼に対し、「ひとりの人間に名前が2つ。2つの顔ね。サトヨキは戦士アルジュンの御者」と話しかけるシーンは映画の根幹を成す。
ではアルジュンとは何か?
古代インドの大叙事詩「マハーバーラタ」に登場する神の弓を授けられた伝説の英雄のことだ。
「マハーバーラタ」は翻訳本がいくつか出ていて読むことができますヨ。
さすが神話と物語の国。
そう、全ての謎が詳らかにされたとき、観客は皆、「KAHAANI(カバーニー)=おはなし」という本作の原題を改めて噛み締めるハメになるのであった。
ケトル2015年2月号掲載記事を改訂!