2021年1月8日に、女優・左幸子さんが監督に挑んだ映画『遠い一本道』が初DVD化となりました!
左さんは、2001年、71歳で亡くなられました。日本を代表する女優さんのひとりです。そんな左幸子さんインタビュー記事を復刻します!
1996年、左さんが66歳のときにインタビューさせていただいた時の記事となります。
左さん、晩年はTBS系列全国ネットの人生相談番組『快傑熟女!心配ご無用』(1997年〜2000年)でパネリストとしてレギュラー出演もされていました。聡明で言葉に重みのある方でした。
恋愛観、人生観を、ご自身の経験を含め語ってくださっています。
左幸子 年譜
1930年 富山県下新川郡朝日町に3男5女の長女として生まれる。本名・額村紗千子。幼少より旅芸人一座の巡業を両親に隠れて見に行き、漠然と“芸”の道に憧れる。
1947年、泊高等女学校卒業後に上京し、1950年に東京女子体育専門学校卒業。翌年、東京都立第五商業高校の教諭になる。
1952年、新東宝『若き日のあやまち』で主役を飾り、のち聴講生として俳優座でレッスンを受ける。左幸子の芸名で映画界デビュー。1955年には初期の代表作『女中っ子』により毎日映画コンクール特別賞受賞。
1956年、『神坂四郎の犯罪』でコーク国際映画祭俳優賞受賞。1957年の『幕末太陽傳』『暖流』でも好演をみせる。1959年には当時、記録映画監督の新鋭だった羽仁進氏と電撃結婚。
1963年、夫・羽仁監督の『彼女と彼』に主演。ベルリン国際映画祭主演女優賞受賞。続いて『にっぽん昆虫記』の演技でも日本の映画賞を独占。トップスターになる。
1964年、長女・未央を出産する。『飢餓海峡』に主演、歴史的名演を残す。1966年、再び羽仁監督と組んだ『アンデスの花嫁』でシカゴ国際映画祭主演女優賞受賞。
1977年、初の長編監督&製作&主演作『遠い一本の道』完成。日本はもちろんフランスの女流映画人に絶賛を浴びる。羽仁氏と離婚。翌1998年『曽根崎心中』に出演。
1984年、NHKのドラマ「野のきよら山のきよらに光さす」でモンテカルロ国際テレビ祭グランプリ受賞。1986〜87年にかけて2度の大手術を受け、しばらく休養する。
1989年、四国八十八箇所遍路の四国八十八箇所遍路の旅に挑戦。その勇姿をNHK「聖路左幸子 四国遍路一三六キ口を行く」が放映。1995年、『ただひとたびの人』『スキヤキ』に出演。
2001年11月7日、死去。
左幸子 インタビュー
(取材・文 轟夕起夫)
デビューはスカウトで
左 いま風にいえばね、スカウトされたんですよ。それで芸名をつけることになって。たくさんの候補の中から選ばれたのがふたつ。それを並べてね、左に私の出身地の北陸の山峰にちなんだ「立山幸子」、右にはタカラジェンヌみたいなのが用意されて、どォちらにしようかなァ神様のォ言うとおりって、左右眺めながら(笑)、左ねえ、左の幸子ねえ……なんて言っているうちにゴロがいいわって決めちゃったの。
一事が万事、思いっきりのいい女性である。決断力の人である。分岐路に立たされては、そのつど右か左かを選択し、起伏に富んだ人生をおのずと切りひらいてきた。
キャリアのスタートは教師
映画女優・左幸子さん。彼女の決断と選択の軌跡は、戦後の女性の新たな生き方のモデルともいえる。女性が社会に進出し、揺るがざる地位を確立してきたプロセスとダブってみえるのだ。
古美術を商う父と華道教授の母とのもとに生まれた左さん。戦争の混乱期にもかかわらず、茶華道、琴、ピアノなどを習ったり、進んだ環境で育った。
ようやく戦争の焼け跡状態から復興へと向かい始めた1950年。初めて共学となった都立高の教壇に、彼女は新任教師として立つ。東京女子体育専門学校(現・大学)を卒業し、保健体育と音楽を教えにやってきたのだ。
それがのちの大女優、左幸子の姿だとは、まだ誰も知るよしもなかった。
女性の社会進出の草分け
左 私が富山の女学校から上京した1948年、まだまだ日本は貧乏そのものでした。そんな中、私は恵まれた人間だったんだなあって思いますね。当時女性が上級の学校へあがるというのはマレでしたから。旧制女学校でさえも義務教育ではなく、家庭が裕福であったり学力的に選ばれたコだけが通える、そんな時代だった。しかも全女学校の卒業生の約30%しか大学には行けないという状況。私の卒業した女学校から東京へ進学したのも私ひとりだったんですよ。まあ私の場合、両親がずいぶんモダンだったのも大きかったですね。
高校では女性教師は、彼女と家庭科担当のふたりだけ。女性の社会進出の草分けである。
だが、「体育」という教科は、戦前にはなかったのだとか。女性は等しく良妻賢母になるべきという風潮、女性には体育など不必要とされていたのだ。
戦前の男社会の通念を打ち破るかのごとく、このとき左さんが保健体育の担当であったのは何か象徴的だ。
それまでにない個性を持った女優として賞レースを席巻
冒頭にあるよう女優となった彼女は、女性の生理を前面に押しだした、それまでにない個性派として、のちに映画界をグングン席巻していくからだ。
とくに1960年代に入ってからの活躍ぶり。各賞を総ナメの『にっぽん昆虫記』(1963年)に『飢餓海峡』(1964年)。
なかでも映画監督の羽仁進氏と結婚後にふたりで作りあげた『彼女と彼』(1963年)は、大都市郊外の団地を舞台に、平凡な主婦が自分の日常を見つめ直すという女性の自立をテーマにいち早く据えた、早すぎた傑作であった。
左 そうですねえ、時代の中でモガいているヒロインが多かったですね。人間の真実ある一面を凝縮して演じたいんですよ。そのためには時代の渦中でちゃんと生きてなきゃ。俳優の仕事というのは、その時代時代の代弁者でもあると思うんです。
忘れられない、戦時の女性たちの表情
育ちのよさに加え、何事にも好奇心旺盛な現代的な女性のカガミ。そんな左さんに恋愛のお話を伺ってみようと思った。さぞかし戦後の自由の息吹きを謳歌した青春のエピソードがきけるだろうと踏んでいたら、そこに差し出されたのは、いまだ彼女を強くとらえて放さぬ、戦時中のある光景だった。
左 あのね、ずーっと忘れられない顔があるんですよ。私よりも2、3歳上の世代でね、戦争中、自分の夫や恋人を戦場へ送り出さねばならなかった女性たちの顔。もしかしたら生きては帰らないかもという思いがよぎりながら、駅で、相手を見送る、そのときの彼女たちの顔というのは生涯忘れられない。ずいぶんとたくさんの恋愛映画を見てきましたけど、いまだあんなに美しい女たちの顔は見たことがないですよ。
「それは人間の最も……」と続けると、左さんはふいに言葉をつまらせた。1秒、2秒、沈黙が時を刻む。
左 言葉ではちょっと言いあらわせないですね。俳優が言葉で表現できるなら小説家になればいいんですけど……。
『飢餓海峡』の演技
左さんはきっとこう言いたかったに違いない。それは人間の最も崇高な顔であったのだと。そういう体験があの名作『飢餓海峡』の、愛する男の手にかかってもなお美しい娼婦・八重役の迫真の演技につながっていたのだ。
青函連絡船の転覆事故のどさくさに紛れ逃亡した強盗殺人事件の犯人とは知らず、たった一夜心を通わせ、そのあと実業家として成功した男を訪ねて命を奪われてしまう、美しくも哀しい女の運命。愛に殉じるとはこのことだ。
ぎりぎりまで想いを募らせた結晶としての愛。そんな愛を目撃してきた左さんには、今日の恋愛模様はつぎのように映っているのだという。
左 何だか気分の流れ、ファッションで動いていて、本当に心の中のトキメキを育ててないように思うんですよね。
そしてこうも言う。
左 相手に好きだってことをどのように伝えるかはものすごく知恵がいることだと思うのよ。
恋をした証拠は残すべき
その知恵とは、意外なものだった。
左 私ね、トキメキの最初はラブレターだと思うんですよ。よくゲタ箱に入れたりしたでしょ。いまだったらFAXでラブレターもできるけど、そんなのつまんないよ。それよりも綿々と誰もやらないような手紙でね、切ない想いを綴って送ったほうが相手に絶対通じると思う。いま便利になりすぎて情感というものが希薄になってしまったんですね。情感があるから人間なのにね。ちょっと皆さん、ラブレターを書きなさいって言いたい。電話ではメンと向かっては言えない胸のうちを相手に文字にして綴るんですよ!
実際私が書けなかったからいま言うんだけどね、と残念そうに語る左さん。でも手紙というとどうしてもあとあとまで残ってしまうもの。もしも相手に想いが届かなかったり、途中で恋愛が終わってしまったら……とやや抵抗もあるのだが。そう正直に伝えてみると左さん、いままで優しかった面持ちが一変し、大きく、強く、声をあげた。
左 好きになった証拠はいくらでも残すべきよ! なるべく精神的な愛の証拠をいっぱい残したほうがいいのに!
真剣な瞳で、なお彼女は続ける。
生きる美しさを養うのが、恋愛
左 恋愛はテクニックじゃない。若いってことはムダなこと、いっぱいやっていいと思うんですよ。そしていろんな経験の中からそのムダが剥ぎとられていき、その人なりの個性が磨かれていくんです。恋愛って、生きる美しさを養うものですよ。それを醜くしていくような恋愛ではもったいない。だって人間っていつまで生きられるか誰にもわからないんだから。その人その人の寿命を美しく磨いていくのに恋愛ほどいい体験はないじゃない。
実は1977年に、左さんは羽仁氏と離婚している。恋愛が生きる美しさを養うものであるのならば、なにかのキッカケでそれが終わりを迎えたとき、恋愛はどのように自分を磨いてくれるのだろうか。少なくとも目の前の彼女をみれば、恋愛の終わりもまた同じく、人を美しく磨いてくれるものだと信じるのだが……。
『遠い一本道』の挑戦
左 そうね。その経験を否定することは自分を否定することと同じですからね。ある時期に、一緒になって映画を作り一緒になって楽しい生活をし、そして子供を産んだんです。そして縁がなくて終わってしまったという、それだけのこと。けれども別れたら何も残らないわけじゃない。ふたりの生活の間でたわわと実ったものがあるからこそ、いまの自分もあるんです。
ちょうど離婚を決意したころ、彼女は自らの企画、製作により映画『遠い一本の道』を監督していた。海外ではともかく、いまでも女性が監督するのは日本では難しいこと。国鉄(現JR)で誇りをもって勤める労働者と、その気丈な妻の、骨太な物語を描きながらこのとき彼女は、戦後から貫いてきた自分の生き方をもう一度見つめていたのかも。まさに女性としての自立の道を突き進もうとしていたのだろう。
恋愛と結婚
左 やはり恋愛と結婚は違いますからね。恋愛っていうのは人を好きになる感情ですよね。それはどうにも抑えられないもの。結婚は互いの欠点をさらけだして、どのようにプラスにしていくかという努力です。だからね、金婚式を迎えた夫婦は凄いと思うの。50年というその年月を、戦いをちゃんと乗り越えたということに対してね。男と女には互いの違いを越えていく知性があるんだなあって。その一方で、離婚した方たちはよく自分にバツが下ったと言いますけど、バツじゃないですよ。それもまた勲章。やはり男と女の間の山を、別のカタチで越えてしまった人たちですから。本当は離婚であっても女はキレイになることができるんじゃないかなあって思います。
二転三転の人生を歩んできた左さんだからこそのポジティブな言葉の数数。耳を傾けていると、こちらも何だか元気があふれてくるからフシギだ。
そうして左さんは、これからの恋愛についてイキイキと語りはじめた。
恋愛に年齢は関係ない
左 そうよ、恋愛に年齢なんて関係ないんだから。でも少年少女時代の初恋がいちばんステキだったんじゃないかなとは思いますね。あのときの気持ちを、いまもう一度ここに呼び戻したいってカンジよ(笑)。何の損得関係もなく、純粋に相手が好きだ、っていうのを求め合っているんだから。
初恋が恋愛の究極の形となるフシギ。
左 早稲田の学生にね、口では言えないまま、寝ても覚めてもそういう気持ちを持ったことがありますね。その人と一緒になるとかではなく、ただそばにいたい。それが基本でしょう、好きになるってことの。いつも自分のそばにいてほしいっていうのが、そばにいてあげる、すべてをその人のためにしてあげるっていう風にどんどん広がっていく。それは気持ち、が好きな人のそばにいるってことなんですよね。
大病を超えての、青春期
数年前、左さんは四国八十八箇所の遍路の旅に出て2か月間歩き通した。50代の半ばに胃の全域と膵臓の一部を摘出する大病を患いながら、そのことを振り切るように歩き通した。彼女はいま、60代の青春期に突入したのだ!
左 すべてを投げだし、身も心も燃えつきてしまうような恋愛は、まだしていませんからねえ。これからですよ! 恋してステキだと思ったら顔がイキイキしてきます。でも悲劇的な恋だとまず容姿に影響出ますから。恋愛って美しくなることですよ。私の経験振り返ってもそうだった。そのくらい人間を生かすんですよね、恋愛の力って。
自らに語りかけるように言う左さん。彼女の、恋愛の旅は終わらない。
PINK1996年9月号掲載記事を再録
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