俳優・松田優作が出演し注目されたCMを監督したのは、錚々たる映画監督。松田優作が挑んだコマーシャル映像の仕事について語ります!
CMは「自分の所在、アンテナの張り方を、ニュアンスとして伝えるもの」
1984年9月11日──松田優作はN.Y.の中心部マンハッタンに立っていた。前年、日本で発表した『家族ゲーム』が歴史ある“リンカーン プラザ シネマ”を皮切りに、ボストン、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなど主要6都市で公開されることになり、現地で取材に応じるため、監督の森田芳光らとその封切り日に乗り込んだのだ。
映画はすでにニューヨーク・タイムズ紙が絶賛、足を運んだ初日の劇場は超満員で、松田優作と森田監督は「自分たちの力は世界にも通ずる」と強く確信した。
帰国した2人はこのあと、取材の依頼が多くて再度N.Y.へ渡ったのだが、振り返ってみれば「1984年の松田優作」とは、彼がもっとも海外を飛び回っていた年として記憶されるのではないだろうか。
ただし映画ではない。CMの撮影で。たとえば工藤栄一監督が演出した「ビクター ポータブルコンポ√5〈俺の道づれ篇〉」は、夏のモロッコ・マラケシュにてロケを敢行。
川島透監督の「マンダム・ギャツビー・ヘアブロー・シャワーフレッシュ」はハワイに、そして「TRIANGLE」では崔洋一監督と冬のベルリンへ。
どれも映画の一場面を思わせる凝りよう。CMは松田優作にとって「自分の所在、アンテナの張り方を、ニュアンスとして伝えるもの」に他ならず、つまりは、自己を表現した一個の作品だったのだ。
異国の地は、シンガー・松田優作の“細胞”も刺激した。
同行していた盟友・梅林茂との共同作業、いや、共犯関係で、マラケシュでは「Night Performance」、ハワイでは「夢・誘惑」、ベルリンでは「BERLINからのリハーサル」「Ku’ Damm」が撮影の合間に生まれた。
梅林がリーダーであったバンド・EXを従えて、この年、「Live in the City’84」と銘打ち、8月から12月までツアーもしている。
1984年は珍しく、一本も公開作のなかった年なので、映画以外の活動が余計目に付くのだが、しかし、すべては還元されてゆく。365日、映画のことを考え抜いていた男の肉体に。
翌1985年、森田芳光監督と2度目のタッグを組み、『それから』で数々の映画賞を獲得。
大人の、男と女の美しくも儚いドラマを彩ったのは梅林茂の音楽。松田優作はいっそう演技者としてスキルアップした姿を見せた。が、それは1984年に出演した2本のTVドラマ『新・夢千代日記』『女殺油地獄』がすでに予告していたことでもあった。
続いて1986年、自ら監督し、主演を務めた『ア・ホーマンス』が公開され、88年には吉田喜重、深作欣二という巨匠2人と共闘した『嵐が丘』『華の乱』を放ち、そうして89年、全米での先行ロードショーから2週間ほど遅れてやってきたのが最後の映画、リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』である。
「1984年の松田優作」。ひとりのチャレンジャーだった。否、常にファイティングスピリットを失わず、無数の旅を経て、単身N.Y.へと戻ってきたのだ。新たな扉を開くために。“映画の父”の国──かねてよりそう呼んでいた聖地で、キャメラに向かって全身全霊を捧げ、勝利を収めた男。
その男の“魂の旅路”は、まだまだ語り尽くせやしない。(轟夕起夫)
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