読む映画リバイバル『マイマイ新子と千年の魔法』

世の中、どうにもならないことが時にはある。“元子供”に効果テキメンな人生謳歌という魔法

(2010年7月21年号より)

 可愛い絵柄に油断するな。これはとってもアバンギャルドな作風のアニメ映画だ。しかも泣ける。 “読む映画リバイバル『マイマイ新子と千年の魔法』” の続きを読む

読む映画リバイバル『新選組』(監督:市川崑)

奇想が描きだす鮮烈な新選組の軌跡

(2000年2月上旬号より)

 大島渚監督が13年ぶりに発表した劇映画「御法度」で新選組を扱ったのはご存知の通りだが、市川崑監督もまたその名もずばり「新選組」という“映画”を撮った。 “読む映画リバイバル『新選組』(監督:市川崑)” の続きを読む

読む映画リバイバル『河童のクゥと夏休み』

現代を生きられない河童=マイノリティ。「クレしん」原監督による“大人泣き”アニメ

(2008年6月10日号より)

 その鳴き声から、「クゥ」と名づけられた河童の子供と少年の物語。原恵一監督の『河童のクゥと夏休み』は、一見、子供向きではあるが、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』に匹敵する原ワールド満載の“大人泣きアニメ”だ。つまり、大人のほうがより“心に痛い”描写が、要所要所に埋め込まれているのである。

 原作の児童文学と出会って、かれこれ20年間、原監督はアニメ化を温めてきた。そもそもは「江戸時代に生きていた子供の河童が現代に蘇る」というアイディアに魅かれたのだそうだが、原作者の了解を得て、多くのアレンジを加えた。一体どう変えたのか? 少年とその家族との交流を描きながら、合わせて「河童が現代の人間と共存することの難しさ」も、トコトン描いているのだ。

 この作品のザラついた感触、どこかで味わったことがあると思ったら、少年の名が“上原康一”であることからこんな連想が働いた。これは原監督版の「怪獣使いと少年」ではないのか、と。

「怪獣使いと少年」とは、かの『帰ってきたウルトラマン』の第33話で、怪獣をマイノリティの民族に見立て、被差別問題を扱った回だった。脚本は沖縄出身の上原正三。原監督は河童を妖怪というより少数民族的なものとしてイメージしていたという。しかも劇中、沖縄を重要な舞台として出しているのだから、何らかの関係があったのでは?

 ともあれ、「怪獣使いと少年」は、大人になって観直すと、一層その深さに気づかされる傑作だ。『河童のクゥと夏休み』もまた然りである。

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フシギな石を拾った小学生と、石から甦った河童の子供の交流を描いた、号泣必死の感動アニメ。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』以来5年ぶりとなる、原恵一監督作。原作は、故・木暮正夫の児童文学『かっぱ大さわぎ』(1978年)と『かっぱびっくり旅』(1980年)。

[週刊SPA!掲載]
●監督:原恵一●出演(声):田中直樹、西田尚美、なぎら健壱、他●2007年●日本、アニメ

読む映画リバイバル『かぐや姫の物語』

我々は“スターチャイルド”にはなれない

(2013年12月号より)

 告白すれば、予告篇の時点ですでに目頭が熱くなった。洛中の屋敷を飛び出し、十二単をあっという間に脱ぎ捨てて、失踪する“情念の塊”。それが凄まじい描線となり、画面奥へと消えてゆく『かぐや姫の物語』の中の一場面。高畑勲、恐るべし!

 先日、全篇を劇場で観た。いやあ、かぐや姫とはモノリスであり、ボーマン船長であり、HAL9000まで合わせたような存在だった。そう、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(68)に登場する重要なアイテムたち。モノリスとは黒い石板、人間をネクストレベル、つまりは進化へ導いていく謎の物体。スターチャイルドになるボーマン船長はその進化過程を体感する選ばれた存在で、HAL9000はといえば、バグって暴走するコンピューターだ。キューブリックは用意していた説明的なナレーションをなくし、本篇が始まる前のプロローグもカットして、観客を意図的に混乱させたが、高畑監督もまた、「かぐや姫がなぜ地球=現世にやってきたのか」を描いたプロローグをまるまる削除、観客の想像に委ねることにした。これは偶然の一致というよりは、古今東西、優れたクリエイターに内蔵されている資質、全てを明かさずに多くを語らせる“術”であろう。

 しかし、こうやっていきなり並べて論じているが、キューブリックと高畑勲、いや、『2001宇宙の旅』と『かぐや姫の物語』の目指した地点は真反対だ。前者は思い切り要約してしまえば現世否定、超人への意志(ニーチェ)を我々に突きつけ、高次の進化を促す。だが後者はむしろこの世を、そして不完全な人間の営みを(曲がりなりにも)肯定している。いわば超人たちの住む月の世界から見れば、地球とは非合理で穢れており、煩悩に満ちた場所だ。高畑版のかぐや姫とはそれを改めて炙り出すための一種の“装置”なのである。進化過程の人間の浅ましさ、欠点を暴き、次々と出会う人々に試練を与えていく。だからモノリス的なのだが、彼女はHAL9000の役割も担っており、内部矛盾を起こした装置としての姿も見せる。記憶に植え付けられた「鳥、虫、けもの、草、木、花、人の情けをはぐくみて」という(高畑勲作詞、作曲による!)わらべ唄の世界に身をひたし、その豊かさを味わい、人間の似姿に近づいて行ったものの、穢れの世界には投入できず月世界を呼び、もう一度、スターチャイルドになる。永劫回帰を生きるボーマン船長のように。

 むろん我々は、かぐや姫みたいには“スターチャイルド”にはなれない。残念ながら。現世など大キライなのに。でも本当にそうだろうか?

 現世にいたかぐや姫は、喜怒哀楽をさらけだし、“情念の塊”となって失踪した。非合理で汚れた、煩悩に満ちた場所で時に優雅、時にのたうちまわり、生を謳歌した。繰り返すが、高畑勲は不完全な人間の営みを(彼だけができる線描で)肯定した。ゆえに、目頭が熱くなったのだ。

 最後にもう一言。技術的な達成という意味でも『かぐや姫の物語』は『2001年宇宙の旅』と並べる価値のある作品だと思う。それは前者が辿ったように、これからの歴史がおのずと照明していくに違いない。

[キネマ旬報掲載]
●監督:高畑勲●声:朝倉あき、高良健吾、地井武男、他●2013年●日本