読む映画リバイバル『ガール』

中平康の後継!? ワザ師礼賛!

(2012年6月下旬号より)

 50円玉が宙を飛ぶ。それを見上げる人々。場所はとあるオフィスなのだが、なぜ、そんな事態が起こっているのかの説明は今は省く。とにもかくにもその硬貨は、放物線を描きながら、落下し始めるだろう。 “読む映画リバイバル『ガール』” の続きを読む

読む映画リバイバル『コングレス未来学会議』

死ぬ前に観る映画

(2015年8月上旬号より)

 死ぬ前に、どの映画を観るか?

 何だかいきなり穏やかな話題ではないですが、一度は考えたことありません? かくいう筆者は、 “読む映画リバイバル『コングレス未来学会議』” の続きを読む

読む映画リバイバル『夢売るふたり』

“包丁の物語”の果てに……。

(2012年10月下旬号より)

  西川美和監督が『蛇イチゴ』(2003)でデビューして10年。そんな周期も関係するのか、この『夢売るふたり』はさながら“第2のデビュー作”のようである。つまり、 “読む映画リバイバル『夢売るふたり』” の続きを読む

読む映画リバイバル〈トム・クルーズ〉『アウトロー』

アメリカの良心の継承 グレゴリー・ペックからトム・クルーズへ

(2013年2月上旬号より)

 懐かしい“匂い”

 映画が始まった途端、ちょっとタイムスリップしてしまったのかと思った。『ダーティハリー』(71)のオープニングよろしく、白昼、何者かが屋上に立ち、市井の人々を狙撃して回るシーンが目に飛び込んできて、出だしからなんとも不穏でヤバい、洗練なんて言葉には背を向けたあの“70年代アクション映画”の匂いが鼻孔をくすぐったのだ。 “読む映画リバイバル〈トム・クルーズ〉『アウトロー』” の続きを読む

読む映画リバイバル『ノルウェイの森』

囁きを聴く――『ノルウェイの森』の優れた“カヴァーアルバム”

(2010年12月下旬号より)

 えーと。何から書くべきか。そうだ! 『ノルウェーの森』が良かった。“ノルウェイの森”ではない。ビートルズの名曲『ノルウェーの森』。しかもレイコさん(霧島れいか)が劇中でギター弾きながら歌っているやつ。 “読む映画リバイバル『ノルウェイの森』” の続きを読む

読む映画リバイバル〈北野武映画/沈黙に、耳を傾けよ〉『アウトレイジ ビヨンド』

音がつぶかり高まっていく。その昂進の果てに訪れる「アウトレイジ ビヨンド」の“喧噪的沈黙”。北野武映画のディテールを振り返り、そこに静寂への意志を読み取る

(2012年10月下旬号より)

原形質の映画

 ちょっと特殊な体験をしたことがある。「あの夏、いちばん静かな海。」の公開前、北野武監督の取材用に試写が行われたのだが、映画自体はほぼ完成していたものの、そこで見せてもらえたバージョンには久石譲氏の音楽が入っていなかったのだ。 “読む映画リバイバル〈北野武映画/沈黙に、耳を傾けよ〉『アウトレイジ ビヨンド』” の続きを読む

読む映画リバイバル『エクスペンダブルズ2』

アクション映画の未踏の地へ

(2012年11月下旬号より)

 一見ドリームキャスト、実はいささか時代遅れな、肉弾アクションのアイコンたちを集めた「エクスペンダブルズ」(2010年)。タイトルどおりに、監督、脚本、主演のシルヴェスター・スタローンは自ら“消耗品”と名付けた傭兵部隊の捨て石的闘いを見せ、自虐というか、自分で自分のことを笑ってみせちゃう、 “読む映画リバイバル『エクスペンダブルズ2』” の続きを読む

読む映画リバイバル『007 スカイフォール』

アイデンティティの喪失と回復

(2012年12月下旬号より)

 タイトルと同じ曲名を持つアデルの主題歌はいきなりこう呟く。「これで終わり」と。だが、その映画の構成自体がそうであるように、彼女の声は徐々に螺旋を描いて上昇していき、新たなる始まりを告げる。 “読む映画リバイバル『007 スカイフォール』” の続きを読む

読む映画リバイバル『ビッグ・ボーイズ しあわせの鳥を探して』

なぜ、私はこの映画が好きなのか?

(2012年9月号より)

 映画を観たあとはひとしきり、こんなことを考える。「なぜ、自分はその作品が好きになったのか?」と。 “読む映画リバイバル『ビッグ・ボーイズ しあわせの鳥を探して』” の続きを読む

読む映画リバイバル『かぐや姫の物語』

我々は“スターチャイルド”にはなれない

(2013年12月号より)

 告白すれば、予告篇の時点ですでに目頭が熱くなった。洛中の屋敷を飛び出し、十二単をあっという間に脱ぎ捨てて、失踪する“情念の塊”。それが凄まじい描線となり、画面奥へと消えてゆく『かぐや姫の物語』の中の一場面。高畑勲、恐るべし!

 先日、全篇を劇場で観た。いやあ、かぐや姫とはモノリスであり、ボーマン船長であり、HAL9000まで合わせたような存在だった。そう、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(68)に登場する重要なアイテムたち。モノリスとは黒い石板、人間をネクストレベル、つまりは進化へ導いていく謎の物体。スターチャイルドになるボーマン船長はその進化過程を体感する選ばれた存在で、HAL9000はといえば、バグって暴走するコンピューターだ。キューブリックは用意していた説明的なナレーションをなくし、本篇が始まる前のプロローグもカットして、観客を意図的に混乱させたが、高畑監督もまた、「かぐや姫がなぜ地球=現世にやってきたのか」を描いたプロローグをまるまる削除、観客の想像に委ねることにした。これは偶然の一致というよりは、古今東西、優れたクリエイターに内蔵されている資質、全てを明かさずに多くを語らせる“術”であろう。

 しかし、こうやっていきなり並べて論じているが、キューブリックと高畑勲、いや、『2001宇宙の旅』と『かぐや姫の物語』の目指した地点は真反対だ。前者は思い切り要約してしまえば現世否定、超人への意志(ニーチェ)を我々に突きつけ、高次の進化を促す。だが後者はむしろこの世を、そして不完全な人間の営みを(曲がりなりにも)肯定している。いわば超人たちの住む月の世界から見れば、地球とは非合理で穢れており、煩悩に満ちた場所だ。高畑版のかぐや姫とはそれを改めて炙り出すための一種の“装置”なのである。進化過程の人間の浅ましさ、欠点を暴き、次々と出会う人々に試練を与えていく。だからモノリス的なのだが、彼女はHAL9000の役割も担っており、内部矛盾を起こした装置としての姿も見せる。記憶に植え付けられた「鳥、虫、けもの、草、木、花、人の情けをはぐくみて」という(高畑勲作詞、作曲による!)わらべ唄の世界に身をひたし、その豊かさを味わい、人間の似姿に近づいて行ったものの、穢れの世界には投入できず月世界を呼び、もう一度、スターチャイルドになる。永劫回帰を生きるボーマン船長のように。

 むろん我々は、かぐや姫みたいには“スターチャイルド”にはなれない。残念ながら。現世など大キライなのに。でも本当にそうだろうか?

 現世にいたかぐや姫は、喜怒哀楽をさらけだし、“情念の塊”となって失踪した。非合理で汚れた、煩悩に満ちた場所で時に優雅、時にのたうちまわり、生を謳歌した。繰り返すが、高畑勲は不完全な人間の営みを(彼だけができる線描で)肯定した。ゆえに、目頭が熱くなったのだ。

 最後にもう一言。技術的な達成という意味でも『かぐや姫の物語』は『2001年宇宙の旅』と並べる価値のある作品だと思う。それは前者が辿ったように、これからの歴史がおのずと照明していくに違いない。

[キネマ旬報掲載]
●監督:高畑勲●声:朝倉あき、高良健吾、地井武男、他●2013年●日本