読む映画リバイバル『こっぴどい猫』

「好き」という暴力的な感情

(2012年8月下旬号より)

 映画が始まると眼前にはいきなり、「モト冬樹生誕60周年記念映画」と出る。その仰々しさがちょっとオカしみを醸し出す。誰が言ったか「日本のニコラス・ケイジ」。そもそもはバンドマンであり、長年、バラエティでもハっちゃけてきた彼の顔が勝手に脳内にオーバーラップしてきやがる。が、いざ画面に登場するや否や、「これはマジだな」と姿勢を正すことに。何とも渋い味わい。

 モト冬樹が演じるのは、高田則文という名の小説を書かない……いや正確に言うなら、小説を書けなくなった作家。理由は、愛妻を亡くして以来、どうにも空っぽの毎日だから。

 と、そこに“猫”が現れる。

 行きつけのスナックで働いている小夜(扮する小宮一葉の“こっぴどい猫”ぶりが素ン晴らしい!)。店終わりに一緒に呑む運びが、あれよあれよと家に誘われ、恋愛相談に乗ってほしいと。「奥さんがいる人とばかり付き合ってしまう」だの「求められると断れない」だのと告白され、しかも、相手の素振りは完全に“寝る”モードだ。だが、そんな彼女を高田は諌め、部屋にあったピアノを弾かせる。そして、小夜の指先から聴こえてくるのがバッハの『平均律クラヴィーア曲集第1巻より第7番変ホ長調BWV852』。美しき対位法。音が音を追いかけてゆく。

 映画の“モード”が変わる(と同時に、この文章のノリも変わる)。

 名指揮者のハンス・フォン・ビューローが、ピアニストの『旧約聖書』と呼んだことでも知られる『平均律クラヴィーア曲集』。ちなみに『新約聖書』は『ベートーヴェンのピアノソナタ全集』なのだという。さて、ご存知のとおり、ビューローは、フランツ・リストの娘コジマと結婚するも親友ワーグナーに寝取られ、奪われた男でもある。これなど、本作の監督、今泉力哉に描かせてみたい色恋沙汰だ。彼はドキュメンタリー「たまの映画」でデビューを飾ったが、自主映画時代から、二股三股をかけあう男女の爛れた関係を“おもしろ痛いラブコメ”に仕立て上げる才能として注目されていたのだった。

 劇中、狂言回し的に、驚くべきナビをする役の今泉は、高田則文の小説『その無垢な猫』の一節を読みあげる。すなわち――「体裁とか、不謹慎とか。友情とか、家族とか。生活とか、夢とか。社会とか、身分とか。そういう類いのものは、好きという気持ちの前では無力だ」——。

 本作は「好き」という感情がいかに野放図で暴力的かを飄々と綴っていく。高田だけでなく、その娘や息子ら総勢15人の男女が、込み入った恋愛模様を見せてゆく。最初は分別が勝っていたが、眠っていた高田の欲望もむくむくと起きだし、それは終盤、彼の「60歳のお祝いパーティ」で爆発する(ここは演出的にはもう少し、人物ひとりひとりのリアクションがほしかったが)。追いかければ、逃げ、すれ違っていくフーガの風雅。「こっぴどい猫」とはさながら、ダンスシーンのない「ロシュフォールの恋人たち」だ。ミシェル・ルグランの音楽の代わりに、バッハの遁走曲が使われているのである。

 アンコール以上の意味合いで最後に響く聖なるピアノの音色。背徳的な映画ほど、バッハはよく似合う。

[キネマ旬報掲載]
●監督:今泉力哉●出演:モト冬樹、他●2012年●日本