読む映画リバイバル〈増村保造の映画世界〜フェチ・キーワード辞典〉

(1995年4月上旬号より)

 増村保造の映画は、一見すると、精緻に組み立てられた「建築物」に似ている。

 構図の中心に登場人物の顔をおさめた安定したミディアム・ショット。マシンガントークの応酬を実況的に伝える的確なリバース・ショット。そして論理的な物語の展開に弾みをつけるスピーディーな編集。煉瓦をひとつひとつ指定通りに積み上げていくように、始めから最後まで計算されたカットがピタリ、ピタリとスクリーンの中に嵌まってゆく。あるいはそれは歯車の噛みあった、連結機械の潤滑に作動してゆくイメージといってもいいだろう。

 映画的に完成されたその印象は、デビュー作の「くちづけ」(58)から中期の「兵隊やくざ」(65)を経て、後期の「曾根崎心中」(78)、そして遺作となった「この子の七つのお祝いに」(78)まで、すなわち増村保造が1986年に62歳でこの世を去るまで、どの時代どの作品を観ても一貫して感じとれるものだ。

 だが、冒頭に“一見すると”とあえて付したように、増村映画という「建築物」の内部を実際隈なく歩いてみると、途中ですぐに気づかざるを得なくなる。はて、一体何に? 外枠こそ確かに精緻に組み立てられてはいるものの、その内部とは全く平行感覚を逸した、恐ろしくいびつな「建築物」であるということにである。

 繰り返そう。ひとつひとつのパーツはあくまで完璧なのだ。ところがそもそもの設計図が空間把握を無視していたら?

 常識を踏み外した設計図にもかかわらず、しかしパーツはそれに沿って緻密に積み上げられている――増村映画の面白さとは、この奇妙な「建築物」の内部を手探りで進むことにある。

 もっと具体的に論じよう。

 「ある弁明」(映画評論/1958年3月号)という新人宣言で、増村は監督としての基本姿勢をこう書いている。「私は人間的な人間は描きたくない。恥も外聞もなく欲望を表現する狂人を描きたい」。

 さらに、「嘘でもいい、滑稽でもいい、明るく逞しい人間の情熱を描きたい」とも。大映の助監督時代、ローマの国立映画実験センターに2年間映画留学して培った、これが増村の思想的基盤だ。これぞ設計図、なのだ。従って増村映画の主人公たちは、ものの見事に欲望の赴くまま生き、フツフツとたぎる感情を(例の低く押し殺した声で)誰に気を使うでもなく思いっきり口走る。

 初老の夫の命を絶った若き妻が、その過剰な愛で何かに憑かれたように青年を所有せんとする「妻は告白する」(61)。

 夫を出兵させぬため、自分のモノとするために相手の目を五寸釘で潰してしまう「清作の妻」(65)。

 そして、罠にはまって芸者に売られ、女郎蜘蛛の刺青を彫られた娘が逆に男たちをたらしこみ、凄惨な血の祝祭を繰り広げる「刺青」(66)。

 若尾文子とコンビを組んだこれら一連の作品は、まさに「恥も外聞もなく欲望を表現」する増村映画の祖型である(監督ウォン・カーウァイ曰く、「欲望の翼」のヒロイン、カリーナ・ラウには「刺青」の若尾文子が投影されている!)。

 湧きでる欲望の赴くままに生きること。だがそれは世界との闘争である。つまり他者を自分の欲望の支配下に置くことである。増村映画の“欲望の実現”の過程には、だから常に「調教と従属」というスリリングな関係が介在することになる。「痴人の愛」(67)では、安田(現・大楠)道代と小沢昭一がSM的関係を交錯させ、「セックス・チェック/第二の性」(68)では、新人スプリンター安田道代をオリンピック選手にするためにコーチの緒形拳は彼女に髭を剃らせ、男言葉を強制し、“男”に改造しようと試み、「盲獣」(69)に到っては、“触覚芸術”を提唱する盲人画家・船越英二(怪演!)のオブジェとして監禁された緑魔子が次第にその虜となってゆく。

 となると、苛烈な闘争に勝ち抜くためには、もはや女は女ではいられなくなる。姿形は女でも、女を超えた第三の性、物体Xになる。それは、ラス・メイヤー監督の『ファスター・プッシィキャット! キル! キル!』のあのゴーゴー・ガールズか。最強の“甲冑”を身につけた盲獣=猛獣となってゆくのだった。

 さて、こうした欲望の闘争を描くため、増村映画は、デビュー作「くちづけ」で川口浩と野添ひとみに“愛かお金か”の二者択一を強いたように、登場人物たちに常にダブル・バインド状態を用意した。

 それは「「女の小箱」より/夫が見た」(64)、「華岡青洲の妻」(67)、そして「妻二人」(67)という題名もそのままに女ふたりをめぐる男の愛情劇であったり、「卍」(64)のレズビアンであったり、「千羽鶴」(69)、「やくざ絶唱」(70)、「音楽」(72)の近親相姦であったりと、形を変えて提示された。

 「暖流」(57)の左幸子、「黒の試走車」(62)の田宮二郎、「陸軍中野学校」(66)の市川雷蔵、「偽大学生」(60)のジェリー藤尾と、スパイを描いたのもそれが究極のダブル・バインドを生きる存在であったからだ。その果ては「遊び」(71)や「曾根崎心中」(78)のごとく道行きを選ぶか、はたまた「大地の子守唄」(76)の原田美枝子のごとくお山道となって無限地獄から脱出するしかない。

 それでは、増村保造自身の欲望の闘争はどうだったのか。それは決して終結を見なかった。彼は何度でも設計図を引き直したのだ。そう、あの「セックス・チェック/第二の性」で半陰陽により今度は男から女に戻される安田道代のように、欲望の“肯定と否定”の自問を際限なく続けた。いびつな「建築物」、それは増村保造の無限に反転する自己そのものだ。

[キネマ旬報掲載]