読む映画リバイバル〈スターが監督になるとき〉

   もはや当たり前となった「スター(&名優)の監督進出」。本稿ではそれを切り開いた先人たちの足跡から、今も使えそうな“方法論”を(独断的に)拾ってみたいと思う。

黒澤明のアドバイスを受けた監督・三船敏郎

  で、最初に記すべきはこれだ。【女優業の妻を主役にしろ!】。それは夫婦にして、俳優同士ならではの美しき結晶。オードリー・ヘプバーンで「緑の館」(59)を作ったメル・ファーラー。「レーチェル レーチェル」(68)でジョアン・ウッドワードの新境地を、自らの名声とともに高めたポール・ニューマン。極めつけはジーナ・ローランズとジョン・カサヴェテスのコンビだろう。伊丹十三、ウディ・アレン、ティム・ロビンス、アントニオ・バンデラス……創作の源は“ミューズ”にあり、というわけだ。

  しかし、言うまでもなく女優とは撮られるだけの存在ではない。ましてやウィリアム・フリードキン、ジャン=リュック・ゴダールとの生活を経験したこの二人ならなおさらだ。前者は「ジャンヌ・モローの思春期」(79)を撮ったジャンヌ・モロー。後者は「同棲生活」(73/未公開)のアンナ・カリーナ。つまり【映画監督の妻とは呼ばせない!】である。

  日本で彼女らに匹敵するのは誰か? 左幸子だ。フランス映画のオムニバス「女性系の愛(原題LAMOUR Au Féminin)/日本編・アキ子」(69)のときは羽仁進の提案で監督したが、「遠い一本道」(76)では自らのプロダクションを設立、国鉄(現・JR)労働組合との共同製作で、合理化のもと力強く生きる北海道の職員夫婦を描き出してみせた。

  となると、肝要になってくるのは【作品に主義主張を込めろ!】ということ。「激怒」(72)で基地汚染問題をテーマにしたジョージ・C・スコットのような人もいれば、私財を抵当に入れ、当時1200万ドルを投じ、愛国心から10年間温めた企画「アラモ」(60)を製作、監督したジョン・ウェインのような人もいる。ウェインなど、破産しても懲りずに悪評粉々たる「グリーン・ベレー」(68)を放つほどの豪快さだった。実は年齢的限界を感じ、監督への鞍替えも考えていたそうだが、ケヴィン・コスナーにも通ずる〈オレ映画〉の先駆者だ。

  ほかにも「砂の小舟」(80/共同監督・原田雄一)を皮切りに、“霊界の宣伝マン”として総監督を務め「大霊界」シリーズを世に問うた丹波哲郎、「親鸞・白い道」(87)の三國連太郎などが挙げられるが、つぎに肝に銘じたいのは【良き協力者を得るべし!】だろう。たとえば「私を野球につれてって」(49)からスタートした、MGMミュージカル・スターのジーン・ケリーと天才振付師であったスタンリー・ドーネンとのコラボレーションは、“共同監督”という形で「踊る大紐育」(49)、「雨に唄えば」(52)、「いつも上天気」(55)という傑作群を生んだのだから。むしろケリー単独の「舞踏への招待」(56)になると、かえって彼の実験精神が暴走し過ぎて不評となる始末。英国アクターとして初の映画製作会社ビーヴァー・フィルムを、親友ブライアン・フォーブズと共同設立したリチャード・アッテンボロー。ジャック・レモンの初監督作「コッチおじさん」(71)の主演にはやはり盟友ウォルター・マッソーの名があった。

  ここでもうひとつ重要なポイントが【イイ師匠を掴め!】だ。崇めていたドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに愛され、「恐怖のメロディ」(71)で監督進出したクリント・イーストウッドの栄光の歴史を見よ。もっとスゴイのはこの人である。木下惠介が脚本を手がけ、成瀬巳喜男の助言で「あにいもうと」の助監督につき、修行の末に「恋文」(53)を撮った田中絹代。続く「月は上りぬ」(54)ではオリジナル脚本を提供した小津安二郎が溝口健二と喧嘩をしてまで彼女を推薦、撮影に協力した。三船敏郎も恵まれている。「五十万人の遺産」(63)では黒澤明のアドバイスを受け、その馴染みのスタッフがフォローした。「アラモ」でウェインの師匠ジョン・フォードの手伝ったシーンがカットされてしまったことと比較すれば何たる幸運だろう。ま、そもそも監督志望で、さしたる師匠もおらず、それでも「女性対男性」(50)を皮切りに確かな演出力を示した佐分利信や「狩人の夜」(55)のチャールズ・ロートンのような異才もいるにはいるのだが……。

 

「俳優→監督」の流れを決定的にしたロバート・レッドフォード

  さて、「ア・ホーマンス」(86)を監督した頃に松田優作が師と仰いでいたのは工藤栄一だが、ついでに【自作自演でイケてる映画を撮れ!】というのも加えておこう。「吼えろ!ドラゴン 起きて!ジャガー」(69)、「片腕ドラゴン」(73)のジミー・ウォングに「ドラゴンへの道」(72)のブルース・リー。「ゲイター」(76)のバート・レイノルズ、ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー、シルベスター・スタローン、スティーブン・セガールもこの範疇に属するが、これを“芸人道”で語るなら、チャールズ・チャップリン、バスター・キートン、フランク・ロイドを源流に、「手」(69)、「俺は寝たかった!!」(70)の萩本欽一、ビートたけし=北野武へと続く。

 さらに、サー・ローレンス・オリヴィエ、ホセ・フェラー(甥はジョージ・クルーニー)、ピーター・ユスティノフ、ロベール・オッセンと並べれば【舞台の演出を会得しとけ!】になり、ニューシネマの先鞭をつけた「イージー・ライダー」(69)のデニス・ホッパー、「さすらいのカウボーイ」(71)のピーター・フォンダ、ブラックムービーの潮流に乗った「ブラック・ライダー」(72)のシドニー・ポワチエを並べれば、クエンティン・タランティーノへと連なる【時代の変わり目を狙え!】が浮上するだろう。

  だが、最も有効な“方法論”といえば【製作者としてまず成功しろ!】で決まりである。49年にブライナー・カンパニーを設立し、スターによる独立プロの成功者となり、73年から監督業にも乗り出したカーク・ダグラス。ウォーレン・ベイティも先日のオスカーで“アーヴィング・G・タールバーグ”賞(プロデューサーに贈られる賞)を授かった通り。そして「俳優→監督」の流れを決定的にしたロバート・レッドフォード。彼は「白銀のレーサー」(69)、「候補者ビル・マッケイ」(72)、「大統領の陰謀」(76)などの製作で地歩を固め、満を持して「普通の人々」(80)で監督に挑んでいきなりオスカーを得た。

 一方日本ではもともと劇作家を志し、52年に現代プロダクションを設立した山村聡がいる。「蟹工船」(53)で監督デビューするや、日活、東映東京とオールマイティに活動し、滋味深い作品を残した。そう考えると、三船プロと組んで「黒部の太陽」(68)を作った“プロデューサー”石原裕次郎は間違ってはいなかったが、彼自身の監督作がないことを考えれば、卓越した演出が光る「顔役」(71)を挟みながら、当時「座頭市」「子連れ狼」「御用牙」のヒットシリーズを連発していた勝新太郎に、軍配は挙がるだろう。彼の“プロデューサー”を含めた製作面での業績はもっと評価されてよい。

 ところで以上の“方法論”というやつは、便宜上分けられているだけで、実際はひとりひとりの俳優に複合的に関係してくるものだが、「市民ケーン」(41)で製作、監督、脚本のすべてを掌握し、今回のポイントのほとんどをクリア、おまけに主演してカリスマにまでなってしまったのがオーソン・ウェルズだ。しかし、のちの“呪われた作家ぶり”を眺める限り、やはりこの世ままならなさを痛感せざるを得ない。が。それでも俳優たちはかねがねこう思っているに違いない。「指揮ができるという自信があれば、バイオリニストに甘んじる必要はないだろう?」(byポール・ニューマン)と。

[キネマ旬報掲載]