松田優作〜日本映画界を駆け抜けた異端児の遺した伝説

 「俺は24時間、映画のことを考えている」と叫び、常に最高を求めた不世出の俳優、松田優作。わずか16年の俳優人生を駆け抜けた彼が遺した作品は数々の伝説と共に輝きつづける。

(2009年11月号より)

アクション・スターの頂点に上り詰める

  生涯を通じて、希有な表現者でありつづけた男の肖像。松田優作の軌跡を、ここで振り返ってみる。

 1949年、山口県下関市生まれ。彼は非摘出子という境遇をバネに子供時代を過ごした。高校を中退して、アメリカに留学するも、1年足らずで帰国。この挫折の後、’72年、文学座の俳優養成所の一員となる。

 翌’73年に役者として大きく飛躍! 石原裕次郎主演の人気TVドラマ「太陽にほえろ!」のジーパン刑事こと柴田淳役でブレイク。さらに「狼の紋章」で映画デビューも果たし、こちらは悪役ながら鬼気迫る演技で注目を集めた。

 優作が生涯リスペクトした俳優、原田芳雄と共演した「竜馬暗殺」が公開された’74年、「太陽にほえろ!」でのTVドラマ史上に残る殉職シーンが一層、彼のスター性を高めた。犯人に撃たれ、「なんじゃこりゃ」と叫びながら血の吹き出る腹を抱え、息絶えていく姿は、今も語り草である。また、この年は「あばよダチ公」で映画初主演、ワイルドでアウトローな魅力をスクリーンに焼き付けてみせた。

 ’75年、文学座の後輩、中村雅俊と組んだ刑事ドラマ「俺たちの勲章」がバディ物として人気を博し、’76年の「暴力教室」では空手2段の腕前を披露。’77年「大都会PARTⅡ」では石原裕次郎&渡哲也、2大スター共演のTVシリーズに新たに加入。暴力的だがユーモアたっぷりの刑事キャラで暴走気味のアドリブも飛ばし、異彩を放った。映画「人間の証明」を挟んで、’78年には村川透監督との“遊戯”シリーズがスタート。「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」のクールな殺し屋、鳴海昌平役で活劇映画に新風を吹き込んだ。

 俳優の高みを目指し肉体から役になりきる

 勢いは止まらない。’79年、大藪春彦の原作を映画化したバイオレンス・アクション「蘇える金狼」に主演。昼は平凡なサラリーマン、夜になると組織へ反逆の牙を剥いて暗躍する一匹狼、朝倉哲也役に心血注ぎ、優作は銃を手に野獣性をほとばしらせ、アウトローなヒーロー像を造形した。

 こうしてアクション・スターの地位を確立するが、そこに安住できる優作ではなかった。その解答が、企画から参加したTVドラマ「探偵物語」である。腕は悪いが、自己流で窮地を乗りきっていく私立探偵・工藤俊作。イタリア製スクーターのペスパP150Xに乗った、優作の陰と陽が際立つ最高にイカしたキャラクターは、中折れ帽に丸サングラス、タイトなスーツといった自ら考案したスタイルと共に現在も絶大なる人気を誇る。ハートウォーミングで、少しだけハードボイルドなドラマの世界観。彼は本作のテイストを当時“ハートボイルド”という造語で呼んだ。

 優作の、芝居にかける情熱はいつでも尋常ではなかった。「処刑遊戯」で“遊戯”シリーズに別れを告げると’80年、ピカレスク・ロマンの傑作「野獣死すべし」を発表。都会の片隅に潜む幽霊のような存在、伊達邦彦を演じるために8㎏減量、奥歯を上下4本抜いてアゴのラインを落とし、声質も変えた。長身を隠そうと猫背を通し、一時は本気で足を5㎝切ろうともしたのだった。

 次第に彼はアクションスターのイメージを脱却していく。’81年は原案を優作自ら手がけたハードボイルド「ヨコハマBJブルース」に主演。オール横浜ロケを敢行、うらぶれたシンガー兼私立探偵BJがヤバい事件に足を突っ込むという物語で、劇中曲「灰色の街」ほかを歌い、ブルース・シンガーとしての魅力も放った。

 続いて敬愛する鈴木清順監督の幻想譚「陽炎座」に招かれ、あやかしの女性に翻弄され、生と死の狭間にたゆたう劇作家役で新境地を開拓。’83年には、森田芳光監督の「家族ゲーム」で奇妙な家庭教師キャラに挑戦。キネマ旬報主演男優賞に輝き、作品もNYほか全米6都市で公開され、高い評価を得た。

 作家・赤川次郎が書き下ろし、根岸吉太郎が監督した「探偵物語」では薬師丸ひろ子扮するお嬢様の護衛を頼まれる中年探偵役を好演。’85年、再び森田監督と組んだ「それから」では国内の映画賞を総ナメに。性格俳優としての本領を存分に発揮し、全ては順調に見えた。

 初監督、全米デビュー時代を一気に駆け抜ける

  だが現状に満足しない、できないのが優作の流儀。日本映画が手を出したことのない、新たな企画を自ら立てる。それが’86年、レプリカントが登場する近未来的映画「ア・ホーマンス」。監督は当初、TV版「探偵物語」の頃から長年心を通わせてきた小池要之助だったが、演出面で衝突し、結果、彼が主演と監督を兼ねた唯一の作品に。友人知人であっても彼は、ビジョンの実現のためには妥協しなかった。

 ’88年には2本の文芸大作に出演。作家の有島武郎に扮した「華の乱」では、深作欣二監督と組んだ。続いて能の立ち居振る舞いを取り入れ、狂気の男・鬼丸を演じた「嵐が丘」では吉田喜重監督と。2大巨匠との仕事が続いたが、役者としてさらなる高みを目指し、ハリウッドという世界最高の舞台へと乗り込む。

 リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」のオーディションを受け、チャンスを勝ち取ったのだ。その役柄、凶悪犯の佐藤はシナリオ上では出番が少なかった。だが、優作の強烈な存在感を気に入った監督によってシーン数は増え、キャラクターも膨らんでいった。主演のマイケル・ダグラスとの格闘シーンでは、スタント・コーディネーターの東洋風の振付けに「そんな安っぽい芝居はできない」と自分で考えた殺陣を実践し、撮影現場で監督を納得させた。だが、すでにその体は癌に蝕まれていた…。

 ’89年、映画はアメリカで大ヒット。彼はワールドワイドな評価を得た。日本での最初のマスコミ試写後、「まだまだ、俺はこんなものじゃないぜ」とニヤリと笑って知人にそう言った。事実、ハリウッドから次回作の打診がいくつかあったという。

 だが、日本公開の1ヶ月後、’89年11月6日、午後6時45分、膀胱癌で息を引き取った。享年40。

 日本映画を変えようとした優作は、盟友であり脚本家の丸山昇一と練りあげた無数のシナリオを残している。たとえば「緑色の血が流れる」は、「ブラック・レイン」の撮影中から構想、死の直前まで2人のやりとりは続いた。それを完成させた丸山は著書「松田優作+丸山昇一 未発表シナリオ集」の全作品解説で「あの人の血は赤い血だったと思うよ」と語る。
「それでね、静脈か動脈のどこか太い血管が切れてるんだよ、たぶん何cmか。普通の人間なら生きられないのに、あの人の場合はそこを通る時には気化してたような……がする」

 液体が気化されるとき、沸騰と蒸発が起こる。その“赤い血”の激しい気化熱こそ、松田優作の魂であり作品だった。そう、まさしく彼は“SOUL RED”な男であった。

[雑誌DVDデータ掲載]

『SOUL RED 松田優作』
松田優作の生き様を未発表の肉声インタビューや未公開映像、出演作のダイジェストを交えながら追ったドキュメンタリー。