読む映画リバイバル〈北野武映画/沈黙に、耳を傾けよ〉『アウトレイジ ビヨンド』

音がつぶかり高まっていく。その昂進の果てに訪れる「アウトレイジ ビヨンド」の“喧噪的沈黙”。北野武映画のディテールを振り返り、そこに静寂への意志を読み取る

(2012年10月下旬号より)

原形質の映画

 ちょっと特殊な体験をしたことがある。「あの夏、いちばん静かな海。」の公開前、北野武監督の取材用に試写が行われたのだが、映画自体はほぼ完成していたものの、そこで見せてもらえたバージョンには久石譲氏の音楽が入っていなかったのだ。

 どういう経緯でそうなったのか、もうすっかり忘れてしまったが、とにかく取材を優先し、英断を下して試写を敢行したのだろう。集められたライター数人で、静かな静かな画面を見つめ続けた体験は今も深く胸に刻まれていて、しかもどちらかといえば「音楽ありバージョン」よりもこちらを秘かに、愛していたりもするのであった。

 なぜならば、のちに音楽が入ったものを観たとき、やや過剰なセンチメントを感じたからである。むろん、「音楽ありバージョン」の完成作は、北野監督の統率のもと、生み出されているわけだからそっちが正統であり、れっきとしたオリジナルだ。素顔はシャイな北野武という人の、優しさを反映した結果でもある。

 だが、偶然の産物とはいえ、北野監督が(聾唖のカップルという設定で)本来志向していたであろう“サイレント映画”の趣向を、明確に実現していたのは(あくまで私見で)「音楽無しバージョン」のような気が、今もしているのだった。

 一例を挙げれば、主人公の青年(真木蔵人)のサーフィンボードがバスの入口を通らなかったために、それを手にして歩く(走る)ことを選ぶシーン。かたや車中に乗った恋人(大島弘子)は席に座らずに、ひたすら立ったままバスに揺られていく。物理的には離れてしまった二人だが、互いの心は一緒で、それぞれの単体ショット、流れゆく風景ショットが現実音と共に的確に積み上げられていき、そのさまは、サイレント映画にも似た、しかし生々しい音はしっかりと付いているので厳密にはサイレントでもなく……何というか“原形質の映画”としか言いようのない手触りのものになっていた。

無音の官能性

 ところで、こんな昔の体験をつらつらと書き記しているのは、北野監督の最新作「アウトレイジ  ビヨンド」を観たからである。そう、久々に、「あの夏、いちばん静かな海。」の「音楽無しバージョン」のことを思い出してしまったのだ。

 しかし、ここですぐに断るまでもなく、劇中には“セリフの銃撃戦”とでも呼ぶべき大量のダイアローグと、パワーアップされた怒鳴り声が全編に響きわたっている。新たなる関東vs.関西のヤクザ対決の構図の中、前作「アウトレイジ」以上の“怒号のドラマ”が、映画を稼働させるエンジンとなっているのだ。

 が、そうではあるのだが、実は怒号が激しくなればなるほど、一瞬の沈黙の重さの意味も増してくる仕掛けにもなっていて、もっと言えば、最大限の音量の果てに到達する無音状態(サイレント)の官能性が、「アウトレイジ  ビヨンド」には備わっている。「アウトレイジ」は反復される暴力のテクノ化を推し進め、一種のトランス状態を作り出し、われわれに諸行無常な“生と死”のドラマを体感させたが、今回は“セリフの銃撃戦”にシフトした分、そこから有音と無音の駆け引きに長けた映画づくりが実践されることとなったのだ。

 かような緻密な音の演出は、すでに監督デビュー作「その男、凶暴につき」から顕著なものではあった。

 例えば、あの名高いシーンを取り上げよう。型破りな我妻刑事(ビートたけし)とその相棒・菊池刑事(芦川誠)は、2階から飛び降りて逃走した犯人を追いかける。我妻は足で、菊池はクルマで。背景には、キーボードからサックスへと主要楽器が移行するジャズ・フュージョン……(音楽監督の久米大作の手による)やや扇情的な旋律がずーっと流れっぱなしなのだが、途中でハンドルを我妻が握ったクルマはスピードを上げ、逃走犯を轢きかける。その瞬間、音楽が止む。長い沈黙。
「我妻さん、轢くことはないんじゃないですか。下手したら死んでますよ」
 と呆れた菊池が言う。我妻が何かの気配に気付き、菊池のカラダを覆う。ドア側のガラスにバットが振り下ろされる。ガラスの割れる音が響きわたる。バットを持った男は絶叫しながらボンネットに立ち、フロントガラスをめった打ちにするだろう。
「バカヤロー、誰が死んだんだ、コノヤロー。生きてるじゃねえか、バック入れろ、バックバックバック!」
 という我妻の指示。そして標的を定め、無情にもクルマが生身の人間にぶつかる衝撃音……。

 いま観返すと、〈ガール・ユー・ニード〉(トレイシー)、〈ファースト・クラス〉〈ロング・ロード〉(ルーツ・ラディックス・バンド)といった挿入歌は当初、深作欣二で企画が進んでいたときの名残かもしれない。

 監督1作目ゆえに、音楽面までコントロールできない部分も多々あっただろうが、しかし、ここぞというシーンでは、早くも北野流を徹底している。特に、無音を強調されたトイレの中で我妻が詰問をする場面。相手の頬にピシ、ピシっと延々と平手打ちをかましてゆく音が強烈で、有音と無音の駆け引きに長けた映画づくりの萌芽がうかがえる。

音のアマルガム

 ちなみに、「アウトレイジ」に引き続き「アウトレイジ  ビヨンド」でも連発される罵倒語「バカヤロー」「コノヤロー」は、「その男、凶暴につき」でも聴くことができるが、草野球チームと暴力団との間で全面抗争が勃発する監督第2作「3-4X10月」は、北野武が映画監督になって本当にやりたかったことが隅々にまでぶちこまれている。

 音の演出に着目すれば、いわゆる映画音楽はまったく付けられていない。現実音だけで押し切り、沖縄に舞台が移ってから、スナックで草野球チームのひとり(飯塚実=ダンカン)が中島みゆきの〈悪女〉をグダグダに歌うのと、アイスを食べるシーンの店先で三線の音色が微かに聞こえるくらいだ。「3-4X10月」を原=北野映画とすると、「その男、凶暴につき」も「あの夏、いちばん静かな海。」も(音の付け方の面では)多少の遠慮が感じられる。

 あるいはそもそも、音の演出法が変わっていったのかもしれない。けれども沈黙は、北野映画の最大の“音のアマルガム”だ。「HANA-BI」では男と女、夫婦というカタチの絆の極限を描くため、決定的なセリフ「ありがとう」「ごめんね」を終盤に響かせ、余韻をふくらますように盛り上がる音楽を切断し、2発の銃声で締め括った。

 あとに残るのは沈黙と、波の音――。

 騙し騙され、銃を向け、ぶつかり合う男たちの濃厚な“死のオペラ”。そこから一瞬の沈黙の重さが際立ってくる「アウトレイジ  ビヨンド」の音楽監督は、「座頭市」で初めて組み、「アウトレイジ」で北野映画の尖鋭化に大いに寄与した鈴木慶一が再び担当した。今回の音楽にはなんと、リズムがほとんどない。つまり映画音楽をもひとつの“音”に還元し、大胆にも現実音の中へと紛れ込ませてしまったのだ。

 これはどういうことなのか?

 以前、「あの夏、いちばん静かな海。」で北野監督は、こんなことを試みたかったのだという。すなわち、主人公の聾唖のカップルの主観に応じて、画面の色を変えたり、音声を消す“実験映画”をやりたかった、のだと。聾唖のカップルが体感しているであろう現実を、観客にも体感させること。“主観”を徹底させることで、登場人物の生理を画面にまるごと焼き付けようとすること。

 おそらく北野武にとって映画とは、美術における(空間そのものを作品にする)“インスタレーション”に近いものなのだと思う。映像もセリフもSEも音楽も、ひとつの素材に過ぎない。今回は、「バカヤロー」と「コノヤロー」な世界の“インスタレーション”なのだ。その喧騒の果てに訪れる沈黙に、耳を傾けよ。

[キネマ旬報掲載]
『アウトレイジ ビヨンド』●監督・脚本・編集:北野武●出演:ビートたけし、西田敏行、三浦友和、他●2012年●日本