読む映画リバイバル〈女優とヌードの誕生〉帰山教正の論考

女優とヌードの誕生

(2013年10月下旬号より)

 かつて、吾妻光(てる)という女優がいた。1898年生まれ、1980年に逝去。“吾妻光子”名義でも活動し、夫は作家の大佛次郎。彼女は1920年、映画「幻影の女」において、画家とつきあうも相手がプラトニック過ぎて別の男に靡(なび)く娘と、その捨てられた画家が孤島で幻視するヒロインの二役を演じた。大島ロケの海岸では「ほとんど全裸に近い姿態で登場」したことで知られ、日本初のヌードシーンを撮影した女優とも言われている。

 さて、これを監督したのは誰か? 帰山教正(かえりやまのりまさ)だ。こちらは1893年生まれで、1964年に亡くなった日本映画の重要人物である。実践的な理論家でもあって、1917年に『活動写真劇の創作と撮影法』を出版。世界に通用する、海外へも輸出できるような作品を目指し、新劇界で頭角をあらわしていた花柳はるみを使って1919年、「生の輝き」「深山の乙女」を立て続けに発表した。

 当時、活動写真の女性役は“女形”が演じていたのだが、帰山教正は明確に“映画女優”の概念でもって花柳はるみを起用、彼女は歴史上、日本映画の女優第1号と目されている。冒頭に記した、「幻影の女」の吾妻光もそういう流れで新劇界から抜擢されたひとりなわけで、1920年代、この帰山を旗頭に本格化する、演劇の模倣ではない“純粋劇映画運動”の一角に、「女優の誕生とヌード」が組み合わさっていた事実は、史的にしっかり記憶に留めておきたい。

 ところで「映画藝術協會」を設立し、自ら脚本を執筆、数々の進歩的な作品を監督した帰山だが、1928年には『映画の性的魅惑』なる学術的研究書も上梓している。

 原典の序文をちょっと引いてみよう。

「本書は、映畫(えいが)の性的魅惑と云う題目のもとに、先ずその映畫の歴史から述べ、そして様々な部分に亘り、本書の目的とする處に向つて讀者諸君と共に、その研究をして見やうと云ふのである」

 さすが「幻影の女」を世に放った御方である、一冊まるごと、タイトル通りに映画、それも“洋画のエロティシズム描写”の考察に費やしているのだ。冒頭には数十ページものグラビアが。サイレント期のスター女優たちの「ここぞ!」というシーンのスチールがずら〜りと。シースルーの先駆けのような衣装、はたまた奇抜なコスチュームが十八番の、ヴァンプ女優第1号と言われたハリウッド初のセックスシンボル、セダ・バラ。「シーバの女王」のベティー・ブライス。小津安二郎もファンだった連続活劇の女王パール・ホワイト。「カルメン」のドロレス・デル・リオ……いきなり目を惹く写真のオンパレードだ。

 この書物が出版された頃、ハリウッドはまだ新興勢力で、イタリア、ドイツ、フランス、つまりはヨーロッパ映画のほうが性的表現では一歩リードしていた。もちろん、当時から検閲官は存在しており、日本ではなかなかノーカット版を観ることがあたわなかった。が、それでも帰山はたくさんの作品の事例を集め、詳細に“見せ物”である映画のエッセンス、洋画ならではのエロティシズム描写を紹介している。

 一口に“性的表現”といってもバラエティに富んでいるわけで、「裸体」「顔」「手」「脚」「乳房」「腋毛」と部位ごとの魅惑について具体的に記述。さらに「接吻」「脱衣」「寝室」「入浴」「水浴」と分けて、それぞれの場面についてもクールに、だが熱を込めて論じてみせている。態度はごくごく真面目なのだが、しかし時おり挟まれるフェティッシュな視線が楽しい。たとえば「水浴の場面」はこんな感じだ。

「映畫劇中に海水浴の場面が在ることは、観客をしてそれは夏であることを思わせると共に薄衣を着た美人の出ることを想はせる。海水着を着た女はその肉體の曲線を充分に見せることが出來る。海水浴をする女は勿論全裸ではないけれどもその手や脚や胸は露はであり、一枚の海水着の下に包まれた豊かな肉體を見ることは出來る」

 ――どうだろう、この女体をなめ尽くすような執拗な書き方は!

 こういう視点も。

「叉、それが水浴を目的として居る場合でなくても、水と衣裳との関係は性的魅惑に深い連結を持つて居る。例へば或る女が水の中から上つて來る際に、若しもその女が一枚の寢衣か、下衣一つであつたとしたら、諸君はどう云ふことが想像出來やう。水は彼女の衣裳を肉體にぴつたりと附けてしまふであらうし叉場合によつてはその或る一部は素膚を充分に表はすだろう」

 素晴らしいエロオヤジぶり、いや、現代人の感覚とまったく変わらないフェチぶり。「諸君はどう云ふことが想像出來やう」と読者に問い掛けているが、もしかしたら21世紀の我々は当時からほとんど、性的に進化していないのではないか、とも思わせられる。

 さらにはルドルフ・ヴァレンチノ、ジョン・バリモアらを挙げた「美男子の魅惑」の章も設けてあるのだから、その先駆性は推して知るべし。

「美しい人は、女と男を問はず、觀客も亦その男たると女たるとを問はず、その美しさに對する魅惑を感ずる」

 ごもっとも。ヌードを筆頭に“見せ物”とはすべて、人間の欲望のストレートな具現であり、“眼の性的享楽”に違いない。それを早くに、映画の本質と喝破していた帰山教正の論考は、あらためて注目に値するものである。

[キネマ旬報掲載]