『かぐや姫の物語』監督・高畑勲、恐るべし!

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Photo by Ganapathy Kumar on Unsplash
館理人
館理人

高畑勲監督作のご紹介です!

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『2001年宇宙の旅』と『かぐや姫の物語』の目指した地点は真反対!?

監督:高畑勲 声:朝倉あき、高良健吾、地井武男、他 2013年

 告白すれば、予告篇の時点ですでに目頭が熱くなった。洛中の屋敷を飛び出し、十二単をあっという間に脱ぎ捨てて、失踪する“情念の塊”。それが凄まじい描線となり、画面奥へと消えてゆく『かぐや姫の物語』の中の一場面。高畑勲、恐るべし!

 先日、全篇を劇場で観た。いやあ、かぐや姫とはモノリスであり、ボーマン船長であり、HAL9000まで合わせたような存在だった。そう、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)に登場する重要なアイテムたち。

 モノリスとは黒い石板、人間をネクストレベル、つまりは進化へ導いていく謎の物体。スターチャイルドになるボーマン船長はその進化過程を体感する選ばれた存在で、HAL9000はといえば、バグって暴走するコンピューターだ。

 キューブリックは用意していた説明的なナレーションをなくし、本篇が始まる前のプロローグもカットして、観客を意図的に混乱させたが、高畑監督もまた、「かぐや姫がなぜ地球=現世にやってきたのか」を描いたプロローグをまるまる削除、観客の想像に委ねることにした。これは偶然の一致というよりは、古今東西、優れたクリエイターに内蔵されている資質、全てを明かさずに多くを語らせる“術”であろう。

 しかし、こうやっていきなり並べて論じているが、キューブリックと高畑勲、いや、『2001宇宙の旅』と『かぐや姫の物語』の目指した地点は真反対だ。

 前者は思い切り要約してしまえば現世否定、超人への意志(ニーチェ)を我々に突きつけ、高次の進化を促す。だが後者はむしろこの世を、そして不完全な人間の営みを(曲がりなりにも)肯定している。いわば超人たちの住む月の世界から見れば、地球とは非合理で穢れており、煩悩に満ちた場所だ。

 高畑版のかぐや姫とはそれを改めて炙り出すための一種の“装置”なのである。進化過程の人間の浅ましさ、欠点を暴き、次々と出会う人々に試練を与えていく。だからモノリス的なのだが、彼女はHAL9000の役割も担っており、内部矛盾を起こした装置としての姿も見せる。

 記憶に植え付けられた「鳥、虫、けもの、草、木、花、人の情けをはぐくみて」という(高畑勲作詞、作曲による!)わらべ唄の世界に身をひたし、その豊かさを味わい、人間の似姿に近づいて行ったものの、穢れの世界には投入できず月世界を呼び、もう一度、スターチャイルドになる。永劫回帰を生きるボーマン船長のように。

 むろん我々は、かぐや姫みたいには“スターチャイルド”にはなれない。残念ながら。現世など大キライなのに。でも本当にそうだろうか?

 現世にいたかぐや姫は、喜怒哀楽をさらけだし、“情念の塊”となって失踪した。非合理で汚れた、煩悩に満ちた場所で時に優雅、時にのたうちまわり、生を謳歌した。繰り返すが、高畑勲は不完全な人間の営みを(彼だけができる線描で)肯定した。ゆえに、目頭が熱くなったのだ。

 最後にもう一言。技術的な達成という意味でも『かぐや姫の物語』は『2001年宇宙の旅』と並べる価値のある作品だと思う。それは前者が辿ったように、これからの歴史がおのずと照明していくに違いない。

(轟夕起夫)

轟

キネマ旬報2013年12月号掲載記事を改訂!